髪は出払い、お金も支払う。

美容院に行くたびに何か違和感がある。


というのは最近床屋から美容院に切り替えたから、だとか、女性ばかりの空間に足を踏み入れるのが憚られる、だとかそういった話ではなくもっと根本的な、床屋、美容院というシステム全体から発せられる違和感、或いは隠し事の匂いを、私は清潔な香りのする店内から嗅ぎ取っていたのである。


だがしかし、長年通い続けていながら私はその違和感の発生源を突き止めることが出来ずにいた。20年以上も髪を切られ続けている癖にどうにも分からなかったのだが、最近美容院に行った際に切り終わった後、髪を流してもらう場面で気が付いた。あの時顔に被せられるカバーは客への配慮と見せかけた、違和感の隠蔽工作だったのである。


床屋や美容院というのは地球上で唯一財布と体が軽くなる市場なのである。


唯一と言うと大仰になってしまうが少なくとも私には同じことが起こっている市場を見つけることが出来なかった。見つけたらこっそり教えていただきたい。


フェイスカバーを被り、切り終えた髪を流してもらっている際、私はずれ動いたフェイスカバーの隙間から自分がもともと着席していた席が見えたので何となくそちらを見ていた。すると先ごろまで受け付けにいた男性がさっと塵取りと箒を持ってきて髪を掃き始めたのである。その時私はうっかり、あ、と声を漏らしてしまった。すると髪を流してくれていた美容師さんはさっとフェイスカバーをかけ直し、私の視界はまた白色の霞に覆われてしまった。しかし包み隠そうとしてももう遅い。私は上の秘密を知ってしまい、得意だった。私がアルキメデスだったならば濡れ髪のまま「エウレカ!」と叫んで街中を走り回らんばかりであった。


押し並べて世の商業活動と言うのは生産活動とそれに対する謝礼、報酬と言う形に収まっている。私たちは買い物をすると商品を得る代わりに代金を支払う。つまり財布が軽くなる代わりに両手には荷物がぶら下がるようになる。反対に私たちが働くと時間や体力を失う代わりに財布が重くなる。天秤のように単純明快なことであってこれに例外は無いように思える。


が、美容院だけは違う。我々は髪を落とし、財布の中身も落としていく。違和感の正体はこれだったのである。


そもそも生きている中で他人に髪を触られるということはなかなかあるものではない。女性の中には見知らぬ他人に髪を触られるのが何より嫌だという人もいるし、髪は女の命と言う言葉もある。それを赤の他人に預けて、首元に刃物まで突き付けられているのである。なかなか思い切った商売だと思う。私などは髪を切ってもらっている途中に地震が来て刃先が刺さったらどうしようと戦々恐々としている。


とまぁ、ここまでの話は詭弁であって実際私たちは髪を切ってもらうことで自分の理想に近づけてもらったり、不快感を取り除いてもらったりということに対価を支払っているのであるが、それにしてはどうにもサービスが行き届きすぎている気がするのも事実である。


賛否両論あるが、美容院に行くと大抵専属の美容師の方がついて髪を切りながら世間話をしてくれる。私などは結構楽しみにしていて何の話をしようかと考えつつ出向くのであるが、これまた大変な作業である。人の繊細な頭に触れて刃物を扱いながらそれと全く関係のない話を客ごとの特徴を鑑みながらする、というのは半分曲芸染みている。客ごとに専属(というのは少しずれているが他に適当な言い方が見当たらない)美容師がいるというのもまた珍しい。他の業種であれば高級料理店や不動産販売、車のディーラーなど高額な消費が行われる場所にしか見られない、専属の応対者がいるのは1万円以下のサービスにしては異例であると言える。


更には店によって簡易的なマッサージを施してくれたり、ウェルカムドリンク(缶のお茶やジュース)を用意してくれたりもする。ここまで来るとなにかすごいという印象を持つより、背景に何かあるのではと勘繰りたくなってしまう。それでいてカラーリングやパーマをしなければまぁどんなに高くとも1万円には収まる(私の世界ではそうなっている)というのがまた勘繰りを加速させる。


芥川龍之介の代表作に『羅生門』がある。と、これを言うだけで『羅生門』を読了済みの方には私の言わんとすることが分かってしまうと思うのでちょうど良いところまで読み流していただきたい。


『羅生門』は、荒廃した物語世界で主人公の「下人」が羅生門の二階で若い女の遺体から頭髪を抜いている老婆を発見する。問い詰める下人に対して老婆は、この若い女は生前悪人であったから自分も生きるためにこのような悪行を働いても許されると言い放つ。そこで下人は、なら自分も生きるためだ仕方ないと言って老婆の着物を引き剥いで立ち去る。という話である。この中で老婆は「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘(かつら)にしようと思うたのじゃ。」と言う名セリフを吐く。これを読んだときその迫力に私は打ち震えたものだが、次の瞬間に思った。人毛は売れるものなのか、と。


そう、人毛は売れるのである。赤ん坊のやわらかな毛は筆として重宝されるというし、老婆の言うように人毛の鬘は非常に高い。そして先ほど美容院のフェイスカバーの隙間から見えた塵取りと箒、価格に比して驚くべきサービス、ここから考えられる結論は―。


後から調べたことだが人毛の買値と言うのは長さによって大きく変動する。20cm以下では100gで300円だが、100cm以上となると同じ重さで7000円以上である。これは加工のしやすさから生ずるものであって、一度切った髪は伸ばすことは出来ず短くすることしか出来ないという「髪の不可逆性」によって生ずる累進価格なのである。つまり我々男性の短髪にはさしたる価値もないがロングヘアの女性の髪と言うのは最早宝であると言える。御髪(みぐし)と呼ぶにふさわしい価値を有しているのである。


するとあの行き届きすぎるサービスにも合点がいった。特に女性は空間というものの心地よさを大切にする。美容院が清潔感やホスピタリティ、そういったものを大切にし、他店との差別化を図って鎬を削っているのは当たり前だったのである。


このように思い至って私は満足した。しかし別にこれを糾弾するわけでもなければ値下げを要求するわけでもない。反対に髪の長い女性のおかげで同じホスピタリティを享受できているのであるから感謝すべき事案である。しかし一応この事実の真偽は確かめねばなるまい。一分の隙もない完璧な論理展開だったが何か見落としがあるかもしれない。よって髪を乾かしてもらいながら私は尋ねた。


「切った髪ってどうしているんですか?」

「専門の業者さんがもっていってくれますね。」


やはり。その業者こそ鬘メーカーに違いない。私は得意になって尋ねた。


「はえー、毎日来てくれるんですかね?」

「うちは連絡したら来てくれますよ、ごみの日が毎日あったらいいんですけどね。まぁ事業廃棄物って言って可燃ごみで出すのは良くないのでほぼ毎日来てもらっていますよ。」


千丈の堤も蟻の一穴から。私の完璧な理論は脆くも崩れ去った。切られた髪は鬘になることなくただゴミとして処分されているのである。美容師さんが語ってくれたところによると、そもそも日本人の髪は痛みすぎていて鬘に適さない。そして売るならこんなぞんざいに床にまき散らして塵取りで掬い取ったりしない、ということであった。


たまに売ってると思っているお客さんいますよ、と美容師さんは笑った。私の思考はたまに現れる程度の賤しい思考なのであった。その日の髪型はいつもと変わらず少し短すぎるような感じだったが、一週立つと完璧と思えるようになることは経験上知っている。技量に舌を巻いて会計に立った。


先の人毛の価格を調べているとき私と同じようなことを「発言小町」で質問している方がいたので覗いてみたが、現役美容師の方々から「ばからしい。笑えます」だとか「あきれてしまいました」だとか「はぁ?」という辛辣な回答ばかりが返ってきていたので私まで辛くなってしまった。次回美容院に行ったとき謝罪しなくては、そんな風に考えてブラウザを閉じた。つい気になって髪を触ると流し切れなかった髪が一本落ちてきたので少し眺めてみたが、自分だったらこんなもの買わないなという思いを打ち消すことは出来なかった。私はそれをゴミ箱に捨てた。

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