万麺の霊長、そうめん

そうめんはどこか他の麺類と一線を画している気がする。


日本は麺類激戦区として知られている。中華地域からの刺客たるラーメン屋が国民食レベルであちこちに立ち並び、安さで言えばうどんは誰よりも安く、また根強い人気を誇っている。蕎麦は日本各地で名物としてその名を響かせ、パスタはイタリアらしい色男ぶりで女性の心をつかんで離さない。甘味としてはくずきりが挙げられるしダイエットするには春雨を食べ続けるのが良い。これらどれもが他の麺に負けるまいと鎬を削り、「万麺の霊長」は自分だと大声で主張している。


ところがそうめんは違う。この戦いをぼんやり外から見ているようだ。その頼りない体躯、線の細さ、色の白さからいじめられっこのもやしと同じ扱いを受けていると思われる。


そうめんが他の麺類と違うところはまず専門店を持たないところである。と、書いてから本当かと思って調べたところ実はあった。それは東京都中野区にあるらしく「エスニック肉味噌まぜめん」だとか「海老入りつみれのタイグリーンカレー温めん」だとか美味しそうなメニューが立ち並んでいる。が、しかしこれはそうめんでなくても美味しいであろう個性的な汁に浸かったものである。


味噌ラーメンのスープに入れて美味しいのはラーメンだろうし、釜玉はうどんにこそ合う。にしんそばの出汁は蕎麦でなければ絡まないし、クリームソースはパスタにしか扱えない。彼らはそれぞれお得意様を持っていて、隙あらば他の麺が保持する領域にも進出してやろうという気概を持っている。最近、ではないかもしれないが少し前にラーメンがパスタの得意とするトマトの領分に侵攻を開始したといって話題になったことが想起される。


翻ってそうめんはお得意様を持たない。一応「そうめんつゆ」とかいうストレートな名前をした相棒はいるものの、他の領域に進出しようとしても跳ね返されるのがオチであると諦めている。ここまで言明を避けてきたのだが「にゅうめん」というのもいることはいる。煮込んだ温かいそうめんであり、そばやうどんの領分を侵した、と言えなくもないのだがどちらかと言うと「途上国への無償技術提供」だとか「業務再建への補助」といった風に見えてしまうのは私だけではないと思う。


ではそうめんが他の麺類に劣っているのか、と言えばそうではない。そうめんが他の麺類に何より勝っている点、それは季節を内包しているという点である。


そうめんは夏の季語である。といって疑うものは殆どいないだろう。ついでに言うと蕎麦は秋の季語であるのだがこれはいまいちピンとこないところがある。上に挙げた麺類は全てオールシーズンで食べられるものであるのに対して、そうめん(以下ややこしいのでにゅうめんは除く)は明らかに夏の食べ物である。風鈴や蚊取り線香と並列してもなんら遜色ないほどの夏物である。もし平安時代にそうめんがあったなら枕草子も「夏はそうめん。暑き頃はさらなり。」という次第に改編されていたと思う。


そうめんに夏のイメージが施されている原因として、流しそうめんの存在は欠かさずに語らなければならない。流水と言うのは「涼」をイメージするのにふさわしい存在で、京都貴船の川床なんかは流水のすぐ上で避暑を行いつつご飯を食べるのには実にもってこいなので多くの人が訪れる。流しそうめんと言うのは人造の川床なのである。


半分に割られた竹を沢山継いで水を流し、そこにそうめんを流していく。それは嘗ての日本庭園を彷彿とさせる意匠が込められており、「涼」が高度に単純化されたものが流しそうめんだと見る者もいるくらいである(私だ)


そして夏を孕んだそうめんは夏の間誰よりも多く活躍する。昔、夏休みが近付く頃に半日で授業が終わり、学校から帰るとお昼ご飯は決まってそうめんであった。実際にはそうめんだけと言うこともないのだがそうめんは我々の夏の昼食にいつも登場していたように思う。夏が終わるが早いかそうめんが終わるが早いか、それはどの夏も曖昧なままだったがそうめんはいつしかひっそりとその出番を終え、次の夏へ向けて準備を始めるのであろう。


今一人でそうめんを作ると当然ながら薬味は調達しないと出てこない。かつて小学生の夏に食べた生姜、茗荷、葱、大葉、錦糸卵、胡瓜、ハム……そうした飾りは一切なく、ただ冷えたガラスの器にカランと鳴る氷と真っ白に絡み合ったそうめんだけという、夏に存在する唯一の白銀世界に「涼」を見ることが出来る。毎年実家からやってくる大量のそうめんを見る度に、消費しきれないと思いつつ、夏の終わりにはいつの間にか無くなっていて、無くなっていることに気付くこともない。そうして秋には普段通り麺類戦国時代の社会に一票を投じに出掛けることになるのである。


私はこの夏、更にそうめんの優れている点を見出すことが出来た。それは散り際の美しさと後腐れのなさである。


皆さんは手鍋でそうめんを茹でる時、どのようにして茹でるだろうか。束状になっているそうめんを緩く纏めるテープを外して束を持った時、恐らく9割以上の人がパスタ同様一旦くっと捩ってから放し、放射状に広げるのではないだろうか。パスタであればそれが沈みきるまでパスタレードルでおしこめる作業が必要になるが、そうめんたちにそんな操作は必要ない。一瞬だけ鍋の淵に寄りかかったそうめんたちはすぐに全身の緊張を解き、するりと鍋にその体を沈ませる。その一瞬の散り際は曼珠沙華の花のようにも見え、非常に美しいのである。


さらに茹で上がったそうめんを冷水に移し、ぬめりを取りつつ締めていく作業。ステンレス鍋を一旦洗わずに置いてみる。この場合大抵の麺類はアクや粉が固まって汚くなってしまうが、そうめんの場合は違う。虹色に輝くのである。酸化作用によって輝くステンレス鍋の虹色は白色のそうめんの残滓のようで、私は非常に愛らしくなってしまう。といってもすぐに洗わなければいけないのだが。


そうめんはやはり他の麺類とは違うようだ。そうめんは漢字では素麺と書き、「素」というと平凡や白さを想起しがちだが、「素因数」や「元素」、「素地」のように物事の根幹、という意味も持つ。私はそうめんこそ万麺の霊長、始まりにして原点たる麺類の祖であると信じている。

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