メガネザルにもコンタクト その2

そんな中でもぐいぐいと視力の折れ線グラフは地面を目指して降下していった。あの視力検査環(ランドルト環)を見ることは到底叶わず、看護師さんが紙に書かれた環を手の中でくるくると回しながら段々近づいてくる、という様式に変わった。そんな最恵人待遇をされているのは自分一人だったのでひどく恥ずかしく思ったことを覚えている。


この辺りで私がどうやら人一倍目が悪いらしいということに気付き、また周囲の友人もひっきりなしに私の視力を点検し始めるようになった(部活がないときはメガネで登校していたのだ)。当時流行っていたアルミの筆箱にランドルト環が付いたものをわざわざ買ってきてテストしてきた友人もいた。それは構わないのだが、大勢が急にメガネを外すよう命じたのちピースサインを突きだして「これ何本!」と聞いてきたのには辟易した。そしてたまに知恵を付けたやつが狐の手つきをして同じ問いを立ててきたりもするが、それに「……2本」と返す時以上に冷めた「にほん」を未だに発声したことがない。


眼がいい人は恐らく想像し得ないのだろうが、近視の世界と言うのは言葉にはできない世界なのである。言葉にできないなどと逃げを打ちたくはないのだが、なにもかもぼやけていて、水中のように光が拡散して、でも雰囲気は掴めて…と説明は尻すぼみに終わる。なにせ私などは殆ど物心ついたころからこんな視界だったのだから説明できてもいいと思うのだがうまくいかない。「これ何本!」が分かる理由も自分では良くわかっていないのである。因みに私が至近距離の「これ何本!」を外したのは一度きりで、その時の相手は後ろ手で追加で一本立てていたのである。これに関しては一本取られたと思わないでもない。


近視に付随して、私は飛蚊症でもある。飛蚊症と言うのはそれなりに認知されているが、子供の舌で説明するには難しいものがある。まさか目の中にいるとは思わないから虚空に向かって手を伸ばしたり、「ほら、あそこ!なんかいる!」とホラーじみたことを言ったりして周囲に迷惑をかけたものだった。いまでも症状は改善されていないが20年以上連れ添ったよしみか、近頃は全く気にかからない。意識して見ようとしてやっと気にできる程度なのである。子供には霊感があるだのといって子供を霊媒師のように見せるホラーものは全て飛蚊症と言うことで片づけている。


高校生になるとコンタクト人口も増えてくる。受験勉強や携帯ゲームで視力を落とした生徒たちは思春期の作用によってメガネを忌避し、コンタクトに走る。私はコンタクトの先住民としてわざわざ鏡を使わずに装用してみたり、タイムアタックの如く機敏に両目へ装用したり、よく分からない示威に励んでいた。この頃になると目の悪さというものが次第にアイデンティティーと同化し始め、「コンタクトのことなら俺に聞け」という意味不明の自負を口にしていた。たまに聞いてくる人があると自分の使っているものを勧めた。なぜならそれしか使ったことがないからである。


目が悪い自負を持った人間が集まると必ず行う儀式があって、それは目の悪さ比べである。これはコンタクトレンズが流行したからこそ可能な祭典である。コンタクトレンズやメガネには度数というものがあり、(厳密には違うのだが)近視用の物は-0.5くらいから刻み始め、-1.0、-1.5…という次第に絶対値が上昇するにつれて目が悪い、ということになっている。コンタクトレンズはこれがパッケージの表に書いてあり非常にわかりやすい仕様であって、これによりいわゆる視力というものとは違う「度数」という指標によって勝負が行われるのである。なぜならこんな勝負を挑もうとする阿呆はとっくに1番上のランドルト環など見えなくなっており、視力は測定不能の域に達しているからだ。「視力0.1切ってからが勝負」とは良く言った言葉である。


私の度数は-9.0である。手前味噌ながら(と言う謙遜が正しいのか、判然としない)正直負けることのない度数であった。先の格言めいた言葉に付け足して、「視力0.01の世界を見たことがあるか」というのは私の言葉であった。実際-3.0~-4.0辺りが視力0.1くらいのはずなので、私の目の悪さは行き過ぎていると言ってもいいレベルに達していた。大抵の挑戦者は-3.0くらい、たまに骨のある挑戦者の度数が-6.0といったところで全く相手にならなかった。一度部活の同期が-7.5という数字を持ってきたときは「初めて“敵”に会えた…いい試合をしよう…」と強くなりすぎた戸愚呂弟のセリフを吐きだしたほどである。


この試合に勝ったからと言って特に得られるものはなかった。寧ろ相手が「気持ち悪」と言い放ち、こちらが傷つくことの方が多いとも言えた。私のスペアのメガネをその場の全員で掛けて回して「うわっ、酔いそう」とリアクションを取っていき、最後に私が掛けて「いや何ともないけど…」というと「ブルーベリーを食べろ」などと言うパターンが常態化した。実際はコンタクトの上にメガネをかけているのでこちらも酔いそうなのだが、期待に応えること、それがチャンピオンとしての奉仕(サーヴィス)精神だと思っていた。あと、正直こちらもリアクションに困っていたということはいえる。


こうして高校の中で眼悪王の称号を手中に収めようとしていた私だったが、隣のクラスの女の子が度数-10.0の大台であることを知り、自分の中の何かが崩れて引退を決めた。それをきっかけに他にも私を凌駕するものが大勢いると判明し、自分の凡庸を知ったのである。モンテクリスト伯のように復讐を誓うこともなく、そろそろ目を大切にしなくちゃと思い直した頃であった。私は18歳になろうとしていた。


それから今に至るまで私の目は良くも悪くもなっていない。ただ、目が良いに越したことは無いなと思うのみである。まず実用というか実際の問題から考えると、コンタクトレンズ費用は馬鹿にならない。メガネをかけると目が小さくなるのが嫌という理由で未だに毎日コンタクトレンズをしているのだが、費用を日割りにすると1日140円ほどとなる。まァジュース程度ならいいかと思うもののそれをまとめて払うとなると結構な痛手である。私はコンタクトレンズ貯金と称して日に100円ずつ貯金をしている。


寝る前に読書、ゲームなどが出来ないのも痛手である。コンタクトを外し、メガネも置いて床に入ったら薄ぼんやり白んでいる天井を見上げることしかできない。天井の染みを数えることすらできないので仕方なく目を閉じ、妄想に耽りでもするしかない。無理に目を本にまで近づけて読み取ることは出来るのだけれど、それをするとどうも頭に入ってこないのである。坂口安吾が『文字と速力と文学』の中で、メガネを壊したとき、前に書いた文字、一連の文章、紙面が一望のもとに視野に収められないと文章が書けないことを知り、参った。ということを言っていたが、読むときも同じことが言えることを私は身をもって知っている。


そして心理的負担である。たまにコンタクトレンズの注文をし忘れて数日を眼鏡で過ごすのであるが、非常に人目が気になる。いや他の人は気にしなくても私は気にしてしまうのだから仕方あるまい。夜に仕方なくメガネで出掛ける時も、人とすれ違う時はメガネを外して拭く動作をすることがしばしばで、我ながら情け無く思っているのだが思春期を引き摺っているのだから仕方あるまい。


最大の懸念は、もしも明日地底人が地上に侵攻を始めたらどうしようかということである。


地底人は恐らく目が悪いから、地上に侵略するには自分たちの優れた特徴である聴覚嗅覚のみに頼ってはならない、視覚も必要だと考えてまずコンタクトレンズ工場を狙うに違いない。地上人の25パーセントはコンタクトレンズユーザーだというから、同時にそれらを無力化できる。自軍の戦力増強と敵軍の戦力削減を同時に達する極めて狡猾な作戦であり私が地底人ならまず間違いなくこれを決行する。故に私は恐ろしい。地底人が攻めて来たらメガネ暮らしを余儀なくされてしまうのである。うーんコンタクトレンズの供給を止められてしまったら地底人の軍門に下ってしまうかもしれない。


しかし我が軍も対策を講じることは出来る。ここらでコンタクトレンズの進化を止めてしまうのである。そうすれば地底人たちが装用するのにあたふたしているところを一網打尽にできる。仮に装用できても目は真っ赤だ、分は悪くない。地底で装用の練習をしてこなければ、だが。


地底人の侵攻に対する危機感を喚起したところで眠くなってきてしまった。コンタクトを外すや否や、寄り道も出来ないため寝る準備が完了するという一点のみ、良い点と言えないことは無いかもしれない。

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