メガネザルにもコンタクト その1

小学2年生になった頃から目が悪くなり、クラスで初めてメガネをかけた。その物珍しさから級友たちが私の周りにこぞって集まるようになり、当時『ズッコケ三人組』が流行していたことや、テストの点数がよかったことも相まって「ハカセ」というあだ名で親しまれた…ということもなく、たまの喧嘩で放たれる悪口のレパートリーに「メガネザル」が追加されたくらいのものであった。


小学生らしい率直と明朗が現れたあだ名だと感心するものだが、それは今のことであって当時は非常に業腹だった。なにせ自分しか眼鏡をかけていないのでメガネ友達という依り代もなければ「メガネザルじゃない!」と否定することもできない。今考えると私はサルではないのだけれど当時はメガネ、の部分の印象が強すぎて否定が追い付かなかったのである。



小学校高学年になるにつれて段々と周りのメガネ人口も増えていき、一安心であった。自分だけがメガネザルだった過日よりよっぽど過ごしやすくなったのであるが、その間にも視力は低下の一途をたどり、レンズは年々暑くなっていった。レンズの厚みを喩えて牛乳瓶の底と呼ぶことがあるが、そこまではいかずともクラスの誰よりも厚かった。大体ちょうどプレパラートくらいのものである。当時顕微鏡やプレパラートを使っていたら餓鬼大将の井上君にメガネの観察と称してレンズを割られていたかもしれない。ゆとり教育のおかげである。


正直最初はメガネをかけるのがイヤだったのだが、快適な視界と周囲の飽きのおかげで小学校生活の後半はさして気にもせず過ごした。ブリッジの部分から半分に割れた時は「スカウター」と称して遊んだりもした。そうして私のメガネライフは後半戦に突入する。



中学校に入ると私はサッカーを始めた。かつてオランダ代表にエドガー・ダーヴィッツという選手がいて非常に運動量の多い選手だったのだが、彼は試合中もメガネをしていた。正確に言うとゴーグルのようなもので緑内障対策であったらしいが、その風体に私は憧れていた。ダーヴィッツに憧れたというよりどちらかというと「メガネをしているのにカッコイイ」という事実への憧れだったように思うが、とにかく衝撃だった。それまでメガネは、掛けるとメガネザル呼ばわりされる恐れが増すだけの代物だったのが、ダーヴィッツはメガネをして誰よりも激しい運動をしていた。12歳くらいの男の子にありがちな「運動が出来る事こそ何よりかっこいい」という価値観も手伝って(今も引きずっている節はある)、両親、友人、挙句は顧問の反対まで押し切り、メガネのままサッカーを始めたのである。


すると12歳の阿呆にもすぐ、自分のメガネとダーヴィッツのメガネが全く違うものであることが了解せられた。まずフィット具合が違う。ダーヴィッツのグラス(もはやメガネではないことを白状するのだが)は顔の形に湾曲し、鼻当てからずれないようにできている。対して少年のメガネは室内用と言うか、鼻と耳の三点で支えるようになっていて汗をかくと鼻の部分がすぐに滑る。運動後にメガネはずれ切ってしまうため、その姿は「ごはんですよ」を彷彿とさせ、あだ名は「桃屋」になりかけた。


さらにダーヴィッツは緑内障対策だったが少年は近視対策だったため当然メガネを外すと見えない。それならいいのだが眼の端からレンズを通さずに飛び込んでくる情報がまったくわからない。周りは小学校からサッカーをしている中、中学から始めたハンディキャップと共に異常な視野の狭さに苛まれ私はまったくのへたくそであった。包み隠さずに言えば生来運動が苦手だという事実が1番の要因なのだが、ダーヴィッツを夢見る12歳の少年にその事実はあまりに酷というものだ。


そこで少年は考えた。自分がへたくそなのはメガネのせいだと。そこで彼は自らが頑固に主張して掛けていたメガネをあっさり外し、コンタクトレンズなるものに挑戦すると両親に告げ、それを要求した。当時色々と議論はあったのだが、息子のあだ名が「桃屋」になることは両親も避けたかったと見え、最終的にそれは承認されたのだった。



少年の目論見はもう一つあった。それは思春期に起因するものだった。田舎の中学生に洒落っ気などというものは皆無だったにも拘らず、思春期の萌しと共に「どうも女の子に良く思われたい気がする」と考えはじめ、「どうもメガネが良くない気がする」ということで一応納得したのである。


断っておくがメガネがカッコ悪いとは全く考えていない。しかし当時私は相当目を悪くしていて、視力検査の1番上の環が単なる円に見えていた。故にレンズは厚く、皆さんご存知か分からないが、レンズの厚さ故に目が非常に小さく見える現象が発生していたのである。ちょうどケント・デリカット氏が放つ往年のギャグと反対の現象が私の目で起こっていたと考えていただければよいのである。


田舎くさい少年にも「どうも目が大きいほうが女の子に良く思われそうだ」と言うことが分かり、6年間連れ添ったメガネに補欠降格を銘じたのである。中学2年の春のことであった。そうして眼科で華々しくコンタクトレンズデビューをした私は驚いた。なにせ違和感もなければ視界も広い。なにより鏡に映る眼が大きい。これは期待できそうだ。「え、コンタクトにしたの?」「そうだよ、快適でね」「すごい、カッコイイ!」会話の予習もばっちりである。翌日の学校を待ちぼうけた。



コンタクトレンズを常用の方ならお分かりだろうが、装用にはそれなりの修練が必要になる。しかもこれは焦れば焦るほどダメになっていくタイプの行為で、家には代わりに装用してくれる看護師さんもいないため、一朝一夕には装用できないのである。私は学校に付けていくのを失敗し続け、目を真っ赤にしながらも初めて学校へ装用して行ったのはデビューから4日目のことであった。そうして最初に掛けられた言葉は「え、泣いてる?」であった。


泣きたい気持ちを抑えながら過ごす中学校はそれでも快適で、とうとうメガネザルと言われる恐れもなくなったことから非常に開放的な気分だった。メガネを外したことで目と目の間が離れていることが露呈し、「さかな」というあだ名がついたりもしたが(これは卒業アルバムにも相当数書かれているが、決していじめではない)些末な問題である。


懸念のサッカーにおいても汗でメガネが滑ることもなければ、視界の端から来るボールに首をへし折られそうになることも減ったのだが、ここでようやっと生来の運動音痴、特に鈍足を知るのである。もはや隠れ蓑にすべきメガネはなく、コンタクトを嵌めた目で以て私は自らのダーヴィッツでないことを確かめねばならなかった。これは人生でも指折りの悲しみであった。そもそも鈍足くらいは分かっていてもよさそうなものだが、メガネのせいで皆に追いすがれないものだと思い込んでいた幼気な少年を誰が責められようか。当時14歳であった。(続く)

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