1-28.トリート

「あー、溶けるぅ……疲れが一気に出てくみたい……」


 一晩しか経っていない筈なのに、この気持ちの良さは何なのだろう。湯船に体が溶けていくような感覚すら感じる。


「わ……うー、冷たい」


 湯気によってできた水滴が、僕の肩に落ちた。


「あー……何でだろ。久し振りに、こんなにゆったりとお風呂に入った気がするな……あぶぶぶぶぶ……」


 無意味にお湯に口を入れ、息を吐いた。ぶくぶくと上がってくる気泡を見て、税に浸る。我ながらはしゃぎ過ぎていると思う。


「はぁ……」


 ――ピチャッ、ピチャッ。

 肩にお湯をかけながら、ぼぉっと思考を巡らす。

 あれは、本当に夢だったのか?

 たった一日しか経っていないのに風呂に入るのが凄く久し振りに感じる。一日夢を見ただけで、そんな感覚になるのか?


「……」


 イミッテ、エミナさん、シェールさん、龍族の人……。今でもはっきりと思い出せる。

 モーニングスターで殴られ、ナイフで刺されたりもした。


「うーん……」


 自分の体をまじまじと見る。

 傷跡は証拠にはならない。あの時に受けた傷は、トリートで傷跡が残らないように回復できる範囲の傷だ。


「スマフォの電池が切れてたけど……」


 わざわざファンタジー世界に持っていかなくても、電池は切れる。寝る前の電池残量がどうかなんて、覚えていないし。


「あ……」


 服装が普段着だった。普段着のまま寝たのだろうか。思い出せない。


「前の日の事が思い出せないって……」


 僕は大きく溜め息をついた。「はぁー」という声が、浴室に反響する。


「体感じゃあ、絶対行ってたんだけどな……」


 僕はもう一度、お湯の中に口を沈めようとした。


「うん?」


 ふと、誰かに呼ばれたような気がした。


「エミナ……さん?」

「ミズキちゃん」と聞こえた気がした。


 体をピタリと止める。辺りがしんと静まりかえる。

 きょろきょろと回りを見る。聞こえるのは、お湯の波打つ僅かな音だけだ。


「……気のせいだよねぇ、そりゃそうだ」


 誰に聞かせるわけでもなく、ぼそりと言った。

 寂しいような、ほっとしたような、なんとも言えない気持ちになった。

 夢じゃないいとすれば、あっちの世界は大丈夫だろうか。龍族の人によれば、あの都は旧支配者に襲われるらしいが……。


「別に、そんなの気にしてもな……」


 移動手段が無いのだ。心配するだけ無駄だろう。


「考えてみたら、そうだよね」


 心配でも、例え向こうに永住したいなんて事を考えても、もう戻れない。ここで一生を過ごすんだ。


「一生……か……」


 僕は、これからここで生きられるのか? この世界が辛いから……自分に生きる能力が無いと思ったから、誰にも迷惑をかけないように、ビルから飛び降りようとしたんじゃないのか?


「いや……違うかな……」


 悠さんが生きていた。どういう経緯かは、切り出しづらくて聞けなかったが、きっと、僕が見たものは間違いだったのだろう。

 あっちの世界の人にも別れの挨拶くらいはしたかったが、こうなった以上は仕方がないだろう。


「はぁ……あんまり深く考えても良くないよな。悠さんからもよく言われたっけな」


 明日は学校だ。ご飯を食べて、早めに寝て、ファンタジーな夢の世界での疲れをとろう。






「闇を射抜く光の刃よ、今、希望の道を開け……シャイニングビーム!」


 私は左の道へとシャイニングビームを放った。大通りには、もう殆どジャームは残っていない。後は、左右の通路から流れ込むジャームを相手にすればいいだけだ。

 とはいえ、そのジャームが中々途切れない。


「はぁ……はぁ……」


 息は更に荒くなり、意識は混濁している。でも、倒れるわけにはいかない。


「あ……や、やった……!」


 左の道から絶え間なく攻めてきていたジャームの流れが途絶えた。ならば、右側も長くは続かない筈だ。


「はぁ……はぁ……もう少しで……終わり……」


 なけなしの力を振り絞り呪文を詠唱する。その声は自然と叫び声になっていた。


「闇を射抜く光の刃よ、今、希望の道を開け……シャァァイニングゥ……ビィィィィムッ!」


 シャイニングビームが右の道を進んでいく。ジャームの勢いはやや落ちたが、まだまだ大量のジャームが流れ込んでいる。


「ぐ……」


 疲労が限界を超えたのか、意識が遠ざかる。


「ゆ……勇猛なる戦士よ、仮初めの休息により、再びその精神と肉体を動かさん……ナーム……リカバー!」


 咄嗟にナームリカバーを使って意識を繋ぎ止める。

 だが、ナームリカバーには体力を回復する力は無い。疲れを感じなくするだけの魔法だ。そんな一時凌ぎしか出来ない魔法でも……意識を繋ぎ止めるために、今は何よりも必要な魔法だ。


「まだ、終わりじゃない……闇を射抜く光の刃よ、今、希望の道を開け……シャイニング……ビーム!」」


 シャイニングビームで右側から傾れこむジャームを相手にしながら、ダブルキャストでトリートを唱える。


「傷つきし闘士に癒しの光を……トリート!」


 ようやくトリートを使う余裕が生まれたことに、私はホッと安堵した。


「ようやく回復出来る……あら?」


 ふと、傍らの瓦礫に違和感を覚えた。家の一角が崩れてできた煉瓦のようだが……。


「……あっ! 大変!」


 瓦礫の下に、ピクリと動く手がある。私は急いでそこに駆け寄った。


「大丈夫? 今、出してあげるから。……風よ、その身を鋭き螺旋の形に変え、万物を貫く刃となれ……ドリルブラスト!」


 重い瓦礫はドリルブラストで砕きながら、崩れないように慎重に瓦礫を取り除く。

 ジャームの勢いが衰えた今、ジャームをいなしながら瓦礫を取り除く事は、それほど難しくない。


「血が……」


 瓦礫の下に、少女の頭が覗く。頭からは、だらだらと血が流れ出している。


「助けてあげるから。絶対……!」


 少女を慎重に瓦礫から引きずり出す。頭の他にも腹から出血しているようだ。手はあらぬ方向に曲がっている。骨折しているのだろう。


「大丈夫……まだ、なんとか……」


 ほっと胸を撫で下ろした。頭の出血は激しいが、それ以外は大した事は無い。龍の加護をおびたこの状態なら、救える。

 自分の魔力はこれまでの戦闘で把握している。これだけの魔力なら、この子を救える筈だ。


「傷つきし闘士に癒しの光を……トリート!」


 自分の傷は、後でどうにでもなる。私はダブルキャストの片方を、常に少女の治療に充てる事にした。

 もう片方は、無理にジャームを深追いせず、身を守る最低限に留める。少女の命が最優先だ。


「う……痛いよ……」


 少女が意識を取り戻した。


「大丈夫、すぐ痛くなくなるからね」


 どう言ったらいいか分からない。この答えで、この子は安心しただろうか。

 擦り傷程度なら救急箱を使って手当てした事があるが、こんなに酷い怪我の治療はした事が無い。こんな状況でなければ、急いで病院に届けていただろう。


「う……噴水……」


 少女が苦しそうに言っている。楽にさせてあげるには、もう少し時間がかかる。


「噴水……お水が欲しいの?」

「噴水に、皆、居るの」

「噴水……あ!」


 この町の中央には、大きくて高い噴水がある。


「そっか……きっと噴水に、ここの住人が……大丈夫。丁度、私もそっちに行くんだ。だから、楽にしていいよ。あとちょっとで苦しくなくなるからね」

「うん……」


 少女は安心した様子で目を閉じた。

 私は少女を回復させ、近付くジャームを倒しつつ、少しだけ確保できた時間で地図を広げた。


「ここから中央広場に行くには……」


 右側から来るジャームの流れが止まれば、この町のジャームは殆ど退治したといえるだろう。後は中央広場に向かうだけだ。この子の話だと、生き残った人々もそこに居る。


「やっぱり、この道よね……」


 地図上では大通りを通っていけば、すぐだが、人の壁で行けない。

 次に近いのは、ジャームが来た道と同じ、左右どちらかの小さい広場を経由する方法だ。

 ここからジャームの大部分が来たという事は、人の壁などの障害物は無いだろう。他の罠がある確率も、一番少ない。この道で行くのがいいだろう。


「この子の治療が終わったら、いよいよ……」


 この勢いなら、右側から来るジャームもすぐに途絶えるだろう。となれば、主な供給地点の中央広場にも、もうそれほど多くのジャームは居ない筈だ。

 とはいえ、充分用心して足を踏み込んだ方が良いだろう。

 この町の住民にとっては最終手段の隠れ場所だし、ジャームにとっては兵力を町に供給し易い中枢になっている。何があっても不思議ではない。

 私は子供を治療しながら気持ちを整え、思考を巡らせた。このジャームの勢いが途絶えた時が、いよいよ最終局面だ。中央広場に足を踏み込む準備は、慎重にやらなければならない。

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