1-19.非日常の始まり

 ――それから何日……何か月だろう。僕の心には、黒くて深いモヤが、ずっとかかっていた。気が滅入る事に、それは日に日に深くなっていたように感じる。

 彼女は、何かある度に、僕を助けてくれた。僕は……。

 気が付くと、賑わっている通りから、少しだけ引っ込んだ所にある、高いビルの屋上に立っていた。

 僕は間違っていたのか?

 他人に迷惑をかけないように耐えた結果がこれか?

 なら、僕は生きるに値しない人だ。


「こんな所にも車の音が聞こえるんだ……」


 聞きたくもないのに、電車の音も聞こえる。


「下も……見えるな……」


 この高さなら充分だ。ここから飛べば、全てを終わらせて……そして、悠さんの所に行く事が出来るだろう。


「誰も居ないよな……」


 もう沢山だ。死ぬ時くらい、誰も傷つけたくない。誰からも傷つけられたくない。さあ――。




 ――過去のデジャブが、夢となって再び僕の前に現れる。僕はまた、失うのだろうか。




「うぅ……」


 意識が朦朧としている。体のあちこちがズキズキと痛む。

 僕が寝転んでいるのは、ゴツゴツして冷たいものの上。

 辺りには罵るように叫び声が響いている。


「ん……」


 そう。今のは夢……いや、過去の記憶に近いか……。

 今、僕は異世界に居て……捕えられ……牢獄に……。

 理由は、僕が魔族だかららしい。僕の持つ力は、本当に魔族の力なのか。

 魔族の力とは何だ。魔法の力とは何だ。

 僕が思いのまま魔法を使えるのは、その事と関係があるのか。

 あのオーロラの……邪光のカーテンの色と関係があるのか。邪光のカーテンの発生は、魔王の力によるものだと、エミナさんは言っていた。

 そもそも、この体は何だ。

 僕の体が変化したものか。転生だとか、来世だとかいった概念のものか。この世界の誰かのものという可能性もある。魂だけ乗り移ったと言われても、この世界なら納得が出来る。

 ……いくら考えたところで、確かめようが無い。歯痒い気持ちが大きくなるだけだ。

 僕は一体、何者なのか。そして……。


「ぶ……はぁっ!」


 顔面に冷たい水がかかる。

 自分に意志に関わらず、朦朧とした意識が明確になる。


「はぁ……はぁ……」


 冷たい石床が、傷付いた肌に触れる。

 身に付けているのはキャミソールのままだ。そして、そのキャミソールすら、剣や鞭によって引き裂かれている状態だ。

 床の冷たさを和らげる役割は、全く果たしていない。


「おらぁっ!」


 大男の振り下ろした棍棒が、僕の背中に当たる。鈍い痛みが背中全体に走る。


「あぁぁっ!」


 悲鳴をあげるのにも慣れてしまった。飽き飽きだとも思うが、それでも叫ぶ。痛みが少しだけ和らぐ気がするからだ。


「時間です。おやめ下さい」


 兵士の声で、大男の打撃が止んだ。


「あちらへ。後はあちらの兵がご案内します。次の方、どうぞ」


 薄暗い、陰気な牢屋の中だが、兵士は紳士的に大男を牢屋の外へ案内し、次の人を通した。

 入ってきたのは白髪で髪が真っ白になったお婆さんだ。お婆さんがしゃがれた声で話す。


「武器をくれないかい? そうさな……モーニングスターが良いかな」


 兵士はそれを聞くと、牢屋の鍵を開け、外に出た。そして、携行式の武器ラックの中から一つの武器を取り出し、また牢屋の中に入り鍵を閉めた。

 その武器は、木の棒の先に鉄の塊がくっついているような形をしていて、鉄の部分には、いくつもの棘が生えるように存在している。

 体が強張る。ナイフで滅多刺しにされるよりはマシだし、致命傷になる事も比較的少ない。が、苦痛はそれに劣らないだろう。

 体が穴だらけになる苦痛と恐怖は、傷の浅い深いとは関係無い。そして、勿論、打撃による苦痛も付いてくる。


「……うむ」


 お婆さんは、モーニングスターの感触、重さ、形状を確かめ、こくりと頷いた。そして、視線をこちらに向けた。

 僕の脳裏に、あの激痛、恐怖が蘇る。

 この牢屋に閉じ込められてから、毎日の様に、鞭、素手等、あのモーニングスターもそうだ。色々な武器で痛めつけられている。

 時には刃物で刺されたりだってする。

 兵士や、ここへ来る人の会話からすると、どうやら僕は、魔族として、民の鬱憤の捌け口となっているらしい。兵士は、民に魔族を裁く機会を与えているのだと言うし、民衆の側からしてみると、復讐の手段として機能しているみたいだ。

 兵士曰く、多くの人に「魔族を裁く機会を与える」という機能を維持するため、死には至らせないらしいが……時に、ここに来る人は、容赦無く殺意を持って現れる。

 だから、そんな人が現れた時は、必死の思いで回復魔法を使っている。

 いや、思いは関係無いかもしれない。必要な時に必要なだけ回復するようにしようとは思っているが、ノンキャストで無意識のうちに回復魔法を使ってしまっている。


(なんだか本当に化け物じみてきた気がする)


 さっきこん棒で殴られ、衝撃で肉が裂けた右肩を見る。傷はもう塞がりかけていて、痣も薄くなっている。

 ノンキャストの魔法で、どこまで早く治癒できるのかは分からないが……こんな状態になると、自分が本当に魔族とか、化け物みたいに感じる。


「あ……あんっ!」


 モーニングスターの打撃が、僕の右肩に入る。塞がりかけていた傷は、またぱっかりと開き、鮮血が飛び散る。


「ぁごふ……う……あ……あ……」


 今度はみぞおちだ。痛み、胃から何かが逆流してくる間隔……僕は床に蹲り、悶え苦しむしかない。なんでこんな事をするのか。苦しい。


「若い女の様な悲鳴を上げるのなぁ……さぞ色々な男どもを惑わせたのだろうな」


 お婆さんが、無機質に言う。そう。どうやら、僕は艶っぽい悲鳴を上げているらしいのだ。それを聞いて、万一の時は色仕掛けでどうにかなるかもしれないと思った時もあった。が、期待外れだった。

 そもそも、僕は魔族の仮の姿としか見られていないので、皆警戒心が強い。それでも引っ掛かりそうな人には、無理矢理に嫌らしい事をされそうになる。

 僕は抵抗が出来ない立場だ。だから、魔族に手を貸した罪と、魔族に騙される危険というリスクを冒してまで、僕を保護する人なんて現れる筈が無い。

 そして……未だに完全には納得できないし、信じられないが……皆は僕を怖がっているみたいだ。

 自分からしてみたら、こんな警戒態勢の中で痛めつけられているのだから、抵抗したくても出来ない。だが、睨み付けたり、手を振り解いたり……少しでも抵抗する意思を見せると後ずさるのだ。勢い余って尻餅をつく人も居る。

 思い返してみると、魔法修練所のマスターが、僕の適正を見た時の表情も驚いていた。今思うと、エミナさんの適正を見た時の表情と違っていて……なるべく表情には出さないようにしていたのだが、それでも抑えきれずに恐怖に顔を歪めていた。そんな感じだった気がしてならない。

 それが杞憂ならば、それでいいが……観察してみると、ここに来る人は皆、そんな表情をしているのだ。僕自身なのか、僕の中に秘められた何かなのかは分からないが……怯えている。あの屈強で高圧的な兵士だって、時折びくりとした動きを見せる。


「あぐぅっ!」


 お婆さんは、勢いよくモーニングスターを振り回し、僕の脇腹にぶつけた。


「う……うぅっ……」


 僕は、あまりの痛さに床を転げまわった。


「む……ボブ!」

「お、おう!」


 外に居た兵士が、慌てて牢屋の扉の前に立つ。どうやら、モーニングスターで殴られた衝撃で、扉の付近まで吹き飛んでしまったらしい。

 勿論、扉には、出入りの都度鍵をかけている。脱走の心配は、殆ど無い筈だ。

 そう……ここに閉じ込められてから色々と考えてみたが、脱走出来る可能性は殆ど残されていないという結論が出ただけだった。

 このままじゃ、魔王の手下として、一生憂さ晴らしに使われて終わりだ。そんなの嫌だ。幸い、考える時間は沢山あるので、なんとかして脱走する方法はないかを常に考えている。しかし、未だにいい方法が見つからない。

 後の事を考えなければ脱走自体は難しくないだろう。しかし……後の事を考えると、かなり問題が出てくる。

 僕が脱走すれば、僕は完全に悪人になる。僕だけが悪人になるなら構わない。どうせ現代で死んでいる命だし、ここで暮らすぶんにも仕方がないと思う。また、もしも現代に帰れたとしても、もう、ここに来る事はないだろう。

 でも、僕だけが悪人になるというわけではない。エミナさんが一緒だ。


「もし、お前が逃げた時は、魔族の協力者であるエミナ=パステルの命は絶たれるだろう」


 僕がここに来て程無い時、鍵をがちゃがちゃといじっていた時にかけられた言葉だ。僕は、この言葉を忘れない。

 エミナさんは人質だ。僕だけ逃げたとしたら、エミナさんが何されるか分からない。

 逆に、エミナさんを解放させる方法も考えた。が、ここの人達は、僕に対する抑止力として、エミナさんを使っている。僕が生きている限り、エミナさんは解放されないだろう。

 別のパターンは、エミナさんと一緒に逃げる事だが……これは、最もエミナさんが悪人にしてしまうであろうパターンだ。当然、しない方がいい。

 エミナさんには家族が居る。エミナさんを悪人にするわけにはいかない。二人とも助かる方法を考えないと。

 僕だけ逃げて、エミナさんが処罰される所を、僕だという事を分からなくして助けるか……それも確実ではないだろう……。


「時間です、おやめ下さい」


 兵士が淡々と言うと、お婆さんは殴るのをやめた。息を切らせながら、兵士にモーニングスターを渡す。


「あちらへ。後はあちらの兵が案内します」


 兵士が鍵を開けながら言うと、お婆さんは頷いて、牢屋の外で待機している兵士の所へと歩いていった。


「次の方、どうぞ」


 入れ替わりに入って来たのは中年くらいの人。顔は痩せ細っていて、ボサボサの髪には白髪が混じっている。

 正装……という程ではなさそうだが、清潔そうで、綺麗な服を着ている。


「おい、何をする!」


 男は牢に入るなり興奮気味に兵士を押し退けると、半笑いでズボンの内側に挟んであるナイフを抜いた。


「はぁ……はぁ……やっと……」

「刃物の場合、狙うのは致命傷にならない手足と肩にして下さい」


 男がナイフを抜いたのを見て、兵士が言った。


「分かってるよ」


 ナイフを振り上げた男の顔は、とても嬉しそうな笑顔だった。興奮もしている。しかし、目だけは笑っていない。虚ろだ。


「うぐ……うああっ!」


 激痛が走る。男はナイフを僕の胸に突き当てた。多分、心臓に突き刺さっている。


「ああっ……あぐ……ぁ……」


 息が出来ない。口が血の味で一杯になる。


「ぐはあ……っ!]

「何をやっている!」


 男は再びナイフを振り降ろそうとしたが、兵士が男を取り押さえる方が先だった。


「言った筈だぞ、急所は外せと!」


 兵士が叫ぶ。棍棒などの鈍器の時以外は、余程の事が無い限りはこうやって止めてくれる。逆に鈍器の場合は、余程の事があっても止めてくれないが……刃物の場合、妙に神経を尖らせている事が、はっきりと分かる。

 刃物だったら致命傷を負わせ易いというのは理由の一つなのだという。棍棒やモーニングスターだって、当たり所が悪ければ死ぬと思うが。


「イヒヒ……うひゃひゃ……」

「いかなる理由があろうと、違反は極刑である!」


 男は、新たに来た比較的重装備の兵士によって、どこかへ連れていかれた。


(酷いな……)


 ここに来る人は、殆どが魔族に恨みのある人だ。

 ああいう感じの人は前にも来た事がある。その人が似たような状況になった時は、「妻も子供も、皆、殺された」と泣きわめいていた。

 あまりにも悲しくて、精神が壊れてしまったという事だろうか。狂っていると思った。今の人もそうだ。

 ああいう人には、この世界に来て初めて出会った。この世界は、思ったより過酷なのかもしれない。

 極刑とは死刑の事だろうか。今されている事より、もっと酷い事だろうか……僕に死刑が下る日は来るのか……。


「うぐ……はぁ……はぁ……」


 気が遠くなる。苦しい。このままでは死んでしまう……いや、そうはならない。このくらいの重症には、前にもなった事がある。


「あがっ……! ゲホッ、ゲホッ!」


 最初は慌てて、自分が魔法を使える事も忘れ、もがき苦しんでいた。死だって覚悟した。しかし……。


「またこの子ですか……」


 来た。救護員だ。


「傷つきし闘士に癒しの光を……トリート!」


 救護員は、手慣れた様子で呪文を詠唱すると、光った手を僕の胸に当てた。

 トリートは、一番基本的で、メジャーな魔法だ。回復魔法や光魔法が苦手な人でも、この魔法は使える事が多い。


「幸い、大事には至っていないようです。ここの人は、少し大袈裟に報告し過ぎるようですな」

「話を誇張したつもりは無いが?」

「いつもそうです」

「そんな事は無い。それより、すぐに使えそうか?」


 兵士の「使えそう」というのは、僕についてだ。鬱憤の捌け口として使えるかという事だ。


「魔族の体なので正確には分かりませんが、少なくとも明日中は安静にした方が宜しいかと」


 そう。いつもこうなるのだ。

 最近になって、ようやくこの状況を理解した。

 どうやら僕は、いつの間にか魔法を使って、自分を回復しているらしい。未だに無意識に回復している時があって、実感は沸かないが……。

 それに加えて、こうやって救護員が来てくれる。だから、こんな無茶苦茶な事をされても、相当運が悪くなければ死ぬ事は無いのだろう。


「そうか……分かった、下がっていいぞ」

「あの……」

「何だ?」

「この子、本当に危険を冒してまで治療する価値があるとお思いですか?」

「民達が魔族に裁きを与えられる、数少ない機会なのだ。現に、人は途切れずに来ている」

「そうですが……回復したとたんに我々を殺して脱走なんて事になったら目も当てられませんよ」

「心配無い。民を危険に晒さないために、幾重にも防止策を施してある」

「そうですか……しかし、一番危険なのは、凶悪な魔族に、敢えての治療を施している我々だという事をお忘れ無く」

「それは、常に警備している我々も同じ事だ。さ、治療が終わったのなら下がれ。意見があるなら相応の所へ言うがいい」

「そうさせて頂きます。では」


 救護員は、不機嫌な顔をして牢屋を出ていった。


「うう……あう……」


 この痛みと辛さを紛らわすには、こうして唸るしかない。

 とはいえ、今ので大分、楽になった。救護員は、明日中は安静にと言っていたので、少なくとも今日中は何もしてこないだろう。


「……」


 一安心した途端、意識が急激に遠ざかっていく――。

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