鯨が住む沿岸

宵の刻

鯨が住む沿岸

 月が海に反射していました。


 浜辺を歩いていた時です。

 

 彼女はハープを弾いておりました。少し離れた沖で鯨の背に乗って。

 潮風と共に流れてくる音色。星空は彼女のシルエットを中心にオルゴールのようにゆっくりと回ります。


 私は立ち尽くしていました。絶世を感じたのです。彼女は天体の中心なのではないかと、そう錯覚したのです。


 私は少しでも近づこうと海へと駆け出しました。無我夢中で海を掻き分け彼女の元へ行こうとしたのです。


 胸まで水に浸かった辺りで、演奏が止まりました。私は我に帰りました。


 彼女がこちらに気づいたのです。


 「浜辺にお帰りなさい」


 どこまでも響く声でした。心地よく波紋のように広がりました。

 目を合わせてはくれません。こちらを向いてすらくれません。


 「私は琴を弾かなければなりません」


 私の心臓の鼓動が海に波紋を作っていないか心配でした。水に浸かっているのに体の火照りが感じられます。


 「そうやってこの海に入ってきたのは貴方だけではありません」


 私は至極当たり前だろうと思いました。目の前に絶対なる美しさを見たら誰だって狂い、近づきたくなるでしょう。


 「何人も海に入ってきました。私の呼び掛けにも答えず、そのまま溺れ死んでしまった人もいました」


 彼女の顔が一瞬憂いを帯びました。胸を圧迫される思いでした。


 「この海には、あの人が眠っています」


 彼女は語りだしました。


 「私が琴を弾くのは、あの人のためなのです。私は海の向こうに行ってしまったあの人にもう一度会いたい。

 琴を弾き続けることで、いつかあの人が海の向こうからやって来てくれるのではないかと思っているのです。」


 私は水圧で胸が潰れてしまいそうな錯覚を覚えました。足に錘がついているように、ゆっくりと深海に沈んでゆきます。


 私は狂おしいほどに近づきたくなりました。水面より沈んでなお、顔を出し少しでも彼女を見ようともがき、ばた足を続けているのです。


 海水を勢いよく飲みました。呼吸が不十分になりました。胸が苦しい。この苦しさは、彼女の側までたどり着けずに溺れ死んでいった者たちの悲しみなんだと感じました。





 私は思い切りむせました。胎児のように丸まった姿で浜に打ち上げられていました。

 横たわったまま海と空の曖昧な境界を眺めました。


 私は泣きました。嗚咽を漏らし、呼吸が荒くなりながら。

 息ができないほどに泣きました。




 涙は、海水の味がしました。

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鯨が住む沿岸 宵の刻 @nes-logoff

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