免許合宿紀行 1日目 「新世界より」

カーテンの隙間から、白いぼんやりとした朝の陽が射し込んでいた。

天候は薄曇り。

すがすがしくもなく、美しくもないが、確かに夜は明け始めていた。


流れていく車窓を何となしに送っていく。

窓の外には、見慣れない景色があった。

スマートフォンのマップアプリを起動し、GPS機能で自身の位置、トラッキング機能でバスが走ってきた経路を確かめる。

自身が、遥か彼方にいることを、あらためて自覚し、やや郷愁にふける。


程なくして、バスは経由地である鳥取駅周辺に停車し、数人が席を立った。

とはいえ、まだバスは窮屈で、解放感はない。


補足しておくが、鳥取は鳥取県、松江は島根県にある都市である。

とにかく、松江までは、距離があり、到着予定時刻までは、まだ時間があった。

もう一眠りしたくはあったが、眠気がまるでない。

よく眠れたとは言いがたいが、眠くない。

気が昂ぶっていたせいでもあるし、首が痛かったせいでもある。

首枕を忘れたことが、どうしようもなく、悔やまれた。


とにかく、眠れそうにない。

仕方なく、流れていく風景を茫と眺めていることにした。


次いで、バスは米子に停車し、隣席の男性がバスを降りた。

ほっと溜息をつき、大きく背伸びをした。


9時20分。

横浜を出発してから12時間。

782㎞の旅路を経て、バスはついに目的地である松江へと至った。

忘れ物がないか確認し、薄暗い車内から、逃れるように降車した。

トランクに預けていた大型のバックパックを受け取り、半端に背負った状態でバスから離れた。


終着地である出雲へと向かい、去っていくバスを送った。

ほっと、ため息をついて、身支度を整える。

車内に持ち込んでいた小型のバックパックを大型のバックパックを押し込みながら、松江駅北口の周辺を見渡す。


駅ビルのない駅、広々としたバスターミナル、連なるビジネスホテル、そして、まばらな人影。


正に、地方中核都市の駅前という印象の風景だった。


バックパックをしっかりと背負い直し、松江駅へと向かう。

駅は眼前にあったが、道路とバスターミナルが隔てている。

地上から行くには迂回するしかないらしい。


近くにあった地下道を降り、松江駅を目指した。地下道から松江駅に入れると想定していたが、そうではなかった。松江駅には地下施設がなかった。


地下施設がない駅など珍しくはないが、何故か地下施設が当然のようにあると思い込んでいたせいで、えっとなって、はっとした。


とにかく、階段を昇り、地上から改めて松江駅へと入った。立ち止まることはせず、駅の中にある施設を眺めながら、そのまま駅の南へと抜ける。


待ち合わせの場所を確かめておきたかった。

駅前にあるというホテルの前に、送迎バスが迎えに来ることになっていた。


指定されていたホテルは、すぐに見つけることができた。

そのホテルは、ビジネスホテルらしいビジネスホテルだった。

なんとなく、他のホテルに泊まりたいと考えた。


時間があることを確かめてから、松江駅の中へと戻り、あらためて散策する。


空腹ではあった。だが、店に入って食事をするほどの時間はなく、またどこでも食べられるものをコンビニで買って食べる気にもならなかったので、我慢することにした。


駅の中をふらふらしていると、自動車学校からの電話があった。

待ち合わせの時間と場所を確認する電話だった。

何も言わず指示に従い、待ち合わせ場所を再び目視で確かめ、それからお礼を言って電話を切った。


駅の中央にあるラウンジは、電車か、バスか、或いは、人か、何かを待っている人たちで賑わっていた。


片隅には、出雲大社の屋根を被り、注連縄を首にかけた巨大な黄色い猫のパネルがあり、県外からの客人を歓迎していた。


島根県のご当地キャラ、名前は"しまねっこ"だそうだ。


滋賀県彦根市の"ひこにゃん"を連想したが、個人的には、"しまねっこ"の方が愛嬌があるような印象を受けた。


とりあえずと、パネルを撮影し、それから空いている椅子に腰を下ろした。


声を追って、テレビに視線をやると、一昨日、島根県西部を襲った大雨についての被害を伝えていた。


そこで、私自身も大雨の影響で到着が遅れるのではないか?

道路がやられ、教習に影響が出るのではないか?


などと、危惧していたことを思い起こす。


バスは時間通りに到着し、松江駅の周辺にも水害があったような気配はない。夜の車内で激しい雨音を聞いたが、それだけだ。


スマートフォンを取り出し、友人らからのメールを確認する。一様に、大雨災害を気にする文言が書かれていた。


「関東でも、それなりにニュースになっているんだな」などと、考えおかしくなる。


顧みれば、私も島根県の大雨災害について初めて知った時は、まだ神奈川県にいた。


大雨によって甚大な被害を被ったのは島根県の西部であり、島根県の東部、松江市周辺には、大きな被害はないということだ。


とりあえず、問題ないといった旨を伝えるメールを認めた。


他県の災害についてのニュースと聞くと、まるでその県の全土に被害があったと誤認することがある。


私も、友人も、その典型だ。


一つの県と言っても広いので、考えてみれば、ありえないと解るような話だが、

ただニュースから情報を与えられているだけだと、深く考えないものなのだろう。


一人思惟し、一人得心した。


時間が近づき、待ち合わせ場所であるホテルの前まで行くと、既に幾つかの人影があった。私のように大きな荷物を背負っている人はいない。いつからかは解らないが、既に自動車学校への入校し、合宿生活を送っている先人たちだろう。


間もなく、自動車学校の名前が塗装されたワゴンバスが迎えに来た。

バスに乗り込むと、ピンクのシャツを着た年輩の運転手に、失礼ながら、はっきり言えば、老年の運転手に名前を問われた。

名前を告げると「今日入校の方ですね」という答えが返ってきた。

確りと情報の共有ができているようだった。

感心し、安心し、バックパックを下ろして、席についた。


自動車学校は、松江駅から遠くない場所にあった。

事前に場所、距離は確認してはいたが、地図で知ることと、その場所への道のりを現実に辿ることはやはり違う。


送迎バスに揺られながら、松江市中心部の景観を楽しんだ。

車窓に流れていくそれらは、かつて訪れたオーストラリアの都市を想起させた。

街並み、スケール感、空気感、何もかも違うと言われれば、否定できない。

それでも、橋と水に囲まれた中心部の構造に重なる何かを感じた。


バスは、10分ほどで、自動車学校へと到着した。

街外れと言えば、街外れではあるが、交通量の多い主要幹線道路から、脇道に入って間もない場所にあり、

辺鄙な場所にあるという印象は全く感じなかった。


自動車学校に到着するとすぐに、受付の手続き、住民票の確認と視力検査が行われ、それから、写真撮影が行われた。

受付の女性の手際は見事で戸惑う間もない。


高速バスの中で一夜を過ごし、酷い人相をしていることは解っていたが、どうしようもない。


いま撮られた写真が免許に使われるのでは!?

ふと、考え至り、戦慄するが、疲れていたので、まぁいいやとなった。


ただ後に、仮運転免許に添付されるだけのものだと解り、胸を撫で下ろした。


事務手続きが一通り終わると、12時に昼食が届くこと、14時から入校の説明があることを伝えられ、待合室に案内された。

待合室は、明るく開放感のある空間だった。

部屋の北と西は、一面に窓があり、そこから教習コースを見渡すことができた。

テレビが2台備え付けられており、本棚には漫画が並んでいた。

飲み物の自動販売機が2台、パンの自動販売機が1台設置されており、それなりに快適な空間であるという印象を受けた。


12時まで時間があった。

わざわざ島根県にまで来て、テレビを観て、或いは、漫画を読んで、無為に時を過ごす気にもなれず、

受付の女性に外出することを伝え、夏の島根へと躍り出た。


躍り出た。

などと書きはしたが、現実には、とぼとぼと最寄りのコンビニエンスストアまで歩いただけだ。


先に述べたたように、辺鄙な場所ではない。

自動車学校の前にある道は、特筆することのない普通の舗装道路で、田舎情緒あふれる道ではなかった。

だから、面白いも、面白くないもなかった。


コンビニエンスストアに入ってから、買う物を探した。

つまり、何かが欲しくて来たわけではない。

髭を剃ってないことを思い出し、とりあえず、髭剃りを購入した。


コンビニエンスストアを出て立ち尽くす。

行く場所がなくなってしまった。


立ちつくし、考えあぐねる中で、送迎バスから見えた風景の中に、眼鏡屋があったことを、そういえばと思い出し、そこに向かった。

店内に足を踏み入れる。

全国展開するチェーン店であったため、わくわく感はなかったが、気軽に入れるというのは良いことである。


眼鏡には拘りがあった。

拘りを持ったのは、ここ数年のことだが、とにかく拘りがあった。


あの眼鏡に名前はあるのだろうか?

眼鏡をかけている方に出会すと、ふと、そのようなことを考えることがある。


購入した店、眼鏡フレームのブランド、屈折率、球面レンズか非球面レンズか、それらを答えられる方は少なくないだろう。

だが、フレームの名前、そして、レンズの名前を答えられる方は、意外と少ないのではないかと、私は考えている。


そも、フレームに名前がつけられてないことも、或いは、無機的な数字の羅列であることもある。

名前のないレンズというのは考えにくいが、レンズの名前を店が教えてくれないことはある。


私は、名前があるフレーム。

名前があるレンズを買うことにしている。


名前には、つくり手の拘り、そして、つくられた物への責任意識が宿っていると考えるからだ。

例外がないとは言わない。

ただ、私はそう考えている。


つまるところ、かけている眼鏡には、拘りと自信、そして、愛着があった。

だからなんだと言われれば、それまでの話で、だからなんだと言われなくても、それだけの話だ。


話を戻そう。


眼鏡屋に足を運んだのは、明確な目的意識があったからだ。

とはいえ、大した用事ではない。


裸眼視力はかなり悪が、矯正視力は"普通自動車第一種運転免許"を取得するために必要な視力、両眼で0.7以上、片眼で0.3以上を確保している。

視力についての不安はない。


ただ眼鏡拭きが欲しかった。

持ってくるのを忘れたわけではない。

ただ使っているものが草臥れてきたので、新しいものを買おうと考えていた。


店内のフレームを眺めながら、眼鏡拭きを探す。

が、ない。

仕方がないので、接客が一段落するのを待ってから、店の人に声をかけることにした。


声をかけると、店の人はカウンターの中から、眼鏡拭きの入った籠を持ってきてくれた。

適当に色を選び、代金を支払った。


その時、ふとカウンターにあったグラスチェーンに視線がいった。

小学校の低学年から眼鏡をかけてきた私ではあるが、グラスチェーンを使ったことはない。

好奇心があった。

店の人に試着してみたいと申し出ると、快い答えが返ってきた。


カウンターに並ぶ椅子の一つに座り。

グラスチェーンを選ぶ。

赤、そして、黒のシンプルなグラスチェーンに視線がいった。

グラスチェーンという名称に反するようだが、選んだものは革製のものだ。

フレームを傷つける心配がないと考えたからだ。


付け方が解らないので、まずは店の人につけてもらう。

なるほど、そうなっているのかと、得心し、それから眼鏡をかけ、鏡を覗く。


気障に視えないか危惧したが、革製であるおかげか、あまり主張しない。

グラスチェーンらしさはないといえばないかもしれないが、中々面白かった。


黒のグラスチェーンを購入し、店を後にした。

赤も買っておけば、気分や服に合わせて変えることができたのにと、後日後悔する。


自動車学校に戻り、昼食。

受付で渡されたお弁当は、想像していたものより、かなり貧相だった。

が、味は悪くなかった。


もう一度、外出する元気はなく、ついでに近辺に行く場所もなかったので、昼食後は待合室で大人しくしていた。


時刻が14時に近づく頃、自動車学校の一室に合宿参加者が集められた。

予約スケジュール表、学科教本、運転教本、学科試験問題集、夕食券、その他のあれやこれやが配られ、合宿生活、そして、教習についての説明が行われた。


あれこれ話していたのだが、詳しくは憶えていない。

憶えているのは、当たり前のことを話していたということだけだ。


話を耳に入れながら、一方で、私は、配られた予約スケジュール表に意識を奪われていた。

予約スケジュール表とは、つまり、16日間の教習予約が示された表である。

合宿参加者は、この予約スケジュール表に従って、教習を受講することになる。

事前に、それなりに忙しいという話は聞いていたが、こうして現実を直視すると、衝撃を受ける。


虫食いのように空き時間がちらほらあるため、過密とは言えない。

だが、午前9時から、或いは、それ以前から、午後7時、或いは、それ以降まで、拘束される日が想像していたより多く、 また、それは12時間を経て、島根へと辿りついた今日、この日もまた例外ではなかった。


受付を済ませ、説明を受けたら、お疲れ様。

明日から教習が始まるので、今日はホテルに帰ってゆっくり休みましょう。

などということは夢のまた夢であったらしい。


長い1日になること、そして、長い16日間になることをあらためて覚悟した。


8時限目(15時20分~16時10分)

学科教習第1段階1 【1時限目】

項目1 「運転者の心得」


説明が終わり、そして、教習が始まった。

ついに、免許合宿が始まった。


「運転者の心得」では、運転者のモラルと社会的責任、酒気帯び運転の禁止、交通法令の遵守、運転に必要な準備についての教習が行われた。


学科教習第1段階項目1「運転者の心得」は、自動車学校に入校した人が、必ず最初に受けるであろう教習である。

この教習を受けていないと、私有地である教習所内においても、自動車の運転ができない。

つまり、技能教習を受講することができない。


学科教習を主に担当した教官は、ユーモラスな人物であった。

声は大きく、滑舌は良く、軽快に言葉を繋いでいく。

一方で威圧的ではない。


第一印象は、コントをするお笑い芸人であり、その印象が最後まで変わることはなかった。


振り返れば、学科教習は全体的に仮免許学科試験、及び、運転免許学科試験の合格に偏重しているという印象を拭えないものだった。

学科試験に出題されない事項については、かなりおざなりであった。

だが、それを批判する気はない。


学科試験では、運転に必要とされる知識の中で、特に重要であり、それを知らなければ致命的であることについて、問われる傾向にある。

つまり、学科試験で頻繁に問われないようなことは、さして重要なことではないと考えても、あながち間違いではない。


何れにしても、学科教習を軽視することはしなかった。

技能教習と同様に真剣に受講した。


自らが操ることになる自動車という機械がどういったものであるか。

それが如何なる規制に縛られながら、現実に走っているのか。

運転者の義務として、それらを詳しく知っておかなければならないという意識が強くあった。


ガードレールに吸い込まれていく光景。

エアバックが破裂する乾いた音。

高速道路の片隅で圧潰した自動車を眺める空虚。

それを現実に体験している。


1年間に日本国内で起きる交通事故は約1万件。

その中の1件で、登場人物になったことがあるのだ。


さらに、幼少の頃には、自動車同士の衝突事故を目撃している。

1度ではなく、2度もだ。

何れも、眼の前で起きた。


経験から、そして、心的外傷から、自動車という道具、自動車に依存する現代の交通システムが、 不安定で不完全で危険なものであるという考えを私は持っていた。


だからこそ、熱心に聞いた。

事故を起こしたくないという気持ちがあった。


9時限目(16時20分~17時10分)

技能教習第1段階 【1時限目】【模擬】

項目1 「車の乗り降りと運転姿勢」

項目2 「自動車の機構と運転装置の取扱い」

項目3 「発進と停止」


はじめての学科教習を終え、はじめての技能教習へと向かう。

まずは模擬運転、つまり、シミュレーターでの技能教習ということで、ほっと溜め息をつく。


シミュレーターは、ゲームセンターに設置されているレースゲームの大型筺体といった印象だった。


座席につき、シートベルトを締め、ミラーを確認し、エンジンを掛ける。

まず、発進するまでにすべきことを確かめ、それから、運転操作の基礎を学んだ。


ハンドル、ブレーキ、アクセル、クラッチ、シミュレーターの機械音声に従い無心で操作を繰り返す。

繰り返す。

繰り返す。

繰り返す。

繰り返していたら、あっという間に時間は過ぎていた。

必死にやってはいたが、一方で、あまり手応えを感じなかった。


10時限目(17時20分~18時10分)

技能教習第1段階【2時限目】

項目1 「車の乗り降りと運転姿勢」

項目2 「自動車の機構と運転装置の取扱い」

項目3 「発進と停止」

項目4 「速度の調節」

項目5 「走行位置と進路」


模擬運転から、10分間の休み時間を経て、ついに実車での教習がはじまった。

人生29年、ついに自動車を運転するその時が来てしまった。


教官は、柔和な印象の壮年の男性だった。

告げられたナンバーの教習車を探し、間もなく見つける。


教習車は、三菱自動車工業の"ランサー"。

教習車のベースカラーはホワイトで統一されており、MT車には青のライン、AT車には緑のラインが、水平方向に塗装されていた。

ベースカラーがイエローの車両が数台あり、目を引いたが、それは"ABS"が搭載されていない特別車とのことだ。


ちなみに、この時点では、車種名も、ABS云々も、知らなかった。

車に詳しいわけでもないので、私は眼前にある、自動車を教習車としてしか認識していない。


まずは教官が運転席に座り、私は助手席に小さく収まった。


教習車が、なめらかに走りだす。

間もなく、教習車を走らせながら、教官が説明をはじめる。

手元足元の動きを凝視する。

が、よく解らない。

結局、触れてみなければ、何も掴めないということが解った。


15分ほど走った後、車は発着点に戻り、教官と席を換わる。


運転席に座り、シートベルトを締め、ミラーを直す。

憶えていることは、憶えているらしい。

それはともかく、言うまでもないが、緊張していた。


教官の指示に従って、操作をはじめる。

クラッチを強く踏み込み、それから、アクセルを軽く踏む。

エンジンの回転数を確認し、そして、クラッチをおそるおそる離す。


自動車がゆっくりと動き、そして、走り始めた。

一瞬の感動。

クラッチを踏み、シフトレバーを操作し、一速から二速へ。

教習コースの外周へと入り、周回を始める。

二速から三速へのシフトアップ、三速から二速へのシフトダウン、エンストからの再発進、必死であれこれ操作を続ける。


傍から観れば、同じ場所を周り続けているだけなのだろう。

だが、私は必死で運転していた。

加速、減速、旋回。

ハンドル、アクセル、ブレーキ、クラッチ、シフトレバー、忙しい。

操作が覚束ない。

振り回されながら周り続け、時間を終えた。


憔悴した。

自動車が危険なものであることは理解していた。

だが、自動車の運転が難しいもの、そして忙しいものであるとは、考えていなかった。

侮っていた。


父、そして、免許を持つ友人たちは、特に気負うこともなく自動車を運転していた。

だから、まるで運転が易しいことであるかのように、錯覚していた。


車で遠方に旅行に行く時など、私は専ら助手席に座り、道の案内をするだけだった。

免許を持っていない私が運転席に座るわけにもいかないので、仕方のないことではあった。

だが、免許を持っていないことをいいことに、運転を押し付けていたということもまた事実である。


その自覚が全くなかったわけではない。

だからこそ、免許の取得を忌避していたということもある。

だが、解っていなかったことが解った。

生まれて初めて自動車を運転したことで、運転席に座ることの重圧を知った。


そして、真の意味で自覚した。


一方的に、責任を押し付けてきた自身を省みた。

軽やかに自動車を走らせる友人たちを尊敬し、そして、感謝した。


11時限目(18時20分~19時10分)

学科教習第1段階7 【2時限目】

項目8 「歩行者の保護など」


12時限目(19時20分~20時10分)

学科教習第1段階9【3時限目】

項目11 「追い越し」

項目12 「行き違い」


まだ、一日は終わっていない。

とどめとばかりに、学科教習が二時限詰めこまれていた。

だが、とどめにはならなかった。


初めての技能教習の後、学科教習に対して芽生えたのは、楽であるという意識だった。

学科教習は失敗することがない。

しっかり聞いていれば、それだけで事が足りてしまう。


「歩行者の保護など」では、歩行者、自転車、通園通学バス、 初心運転者標識、高齢運転者標識、聴覚障がい者標識をつけた車両の傍を通行する際の交通法規、及び、 横断歩道を通行する際の交通法規についての教習が行われた。


「追い越し」では、追い越しと追い抜きの違い、追い越しを禁止する場所、追い越しの方法などについての教習が、 「行き違い」では、対向車とすれ違う時の作法と法規についての教習が行われた。


特筆すべきことはない。

何事もなく学科教習を二時限終え、そして、ようやく、1日目の教習スケジュール全てが終わった。


自動車学校から、宿泊場所のホテルまでは、送迎バスが運行されている。

送迎時刻の予約を入れておけば、教習の開始時間、終了時間に合わせて、自動車学校とホテルの間をバスが往復してくれる。


自動車学校の玄関前には、2台のマイクロバスと1台のワゴンバスが停まっていた。

還暦も近いであろう運転手にホテルの名前を告げ、乗るべきバスを尋ねた。


来る時に載ったワゴンバスではなく、それより二回りほど大きいマイクロバスに乗り、空いていた前方の席に座る。

席は既に8割が埋まっており、選択肢はなかった。


入校説明の時に配布された松江駅周辺を描いた簡易な地図をバッグから取り出し、薄暗い車内で凝視する。

地図には、夕食券が使用できる店舗の場所と提供される食事についての説明が印刷されていた。


夕食券とは、自動車学校と提携する松江駅周辺の飲食店で夕食時にのみ使用できる食事券である。

提携飲食店は、16店舗あり、合宿参加者は好きな店を選び、食事をすることができる。


自動車学校の合宿料金には、基本的に朝昼夕食の代金が含まれており、割安ではあるが、自由が利かないことが多い。

この自動車学校でも、朝食は宿泊するホテル、昼食は自動車学校の食堂と指定されており、 また、夕食券で頼めるものも限られているため、完全に自由ではない。


だが、それでも、夕食は好きな店を選べるというのは、嬉しい。

料理の味、店内の空気、店員の印象など、相性の合わない店で、或いは、場所で、2週間以上食事することを強いられることは、少なくともない。


とにかく、ホテルに到着するまでに決めようと、今夜、どこで食事をするか検討を始めた。

とりあえずと、全国チェーンを、まず選択肢から排除する。

わざわざ、遠方まで来て全国チェーンで食事をすることはない。

何があっても行かないと誓いを立てる。


土地勘がない。疲れている。そして、お腹がすいている。

ということで、宿泊場所のホテルの近くにある飲食店にしようと考え、ホテル内にあるレストランを含めて、4つの飲食店に的を絞った。


そこまでは良かった。

だが、そこから、決まらない。決められない。

私は、食事の時、悩むタイプだ。


そこで、隣に座っていた女性に、白羽の矢を立てた。


年の頃は大学生か高校生か。

名前は知らない。

話したこともない。

が、とりあえず、話しかけてみた。


教習をはじめてから何日が経ったか、そして、その流れで、おすすめの店はないか尋ねた。

が、期待していた返事は得られなかった。

軽くあしらわれたというわけではない。


合宿で来ている教習生ではなから、解らないとのことだった。


想定外だったが、考えてみれば、県外から合宿で教習に来ている人間しかいない方がおかしい。

合宿ではなく、地元の教習所に通って免許を取る人もいる。

寧ろ、合宿で取る人の方が少ないのかもしれない。


島根県民だからと言って、松江駅周辺に住んでいるわけではない。

なので、自動車学校と提携している飲食店で食事をしたことがなくても不思議なことではない。


一人思惟し、一人得心した。


お勧めの店を聞くことはできなかったが、とりとめもなく、話を続けた。

話をすることは心の健康に良い。

話しすぎると、自身を切り売りしているような錯覚を覚えることもあるが。


そうこうしていると、送迎バスは宿泊するホテルの前に到着した。

女性に会釈して席を立った。


ちなみに、女性の出番はこれで終わりである。

後に、どうこうという展開はない。


受付で少し、ばたばたしたが、特に問題もなくチェックインを済ませ、鍵を受け取った。

少しだけ、がっかりする。

ルームナンバーの先頭が"2"であったからだ。

つまり、部屋は2階にあり、であれば、必然的に景色は期待できない。


部屋に行く前に食事をすることにした。

悩んでいたはずだったが、いざホテルのレストランを前にした瞬間、 とりあえず、今夜はここでいいかという、つまらない判断に天秤は傾いていた。


時刻は21時に迫ろうとしていた。

まだ遅いというほど、遅い時間ではないが、レストランに人影は殆どなかった。

とりあえず、入り口の正面にあったカウンター席に座る。 程なくすると、冷水の入ったグラスと共に、ウェイトレスが現れた。


夕食券を示し、自動車学校の合宿参加者であると暗に示すと、専用メニューが手渡された。

夕食券で頼めるものは、ソースカツ丼、焼き鯖定食、豆腐ステーキ定食、カレー、ラーメン、この5品のいずれかであるとのことだ。


空腹ではあったが、疲れていたせいか、あまり食欲はなかった。

重いものは食べたくない。

鯖は好きではない。

ということで、軽く、あっさり、さっぱりといった印象の豆腐ステーキ定食を頼んだ。


スマートフォンでニュースをチェックしながら待つこと数分、空腹の絶頂時に、豆腐ステーキ定食が配膳された。

豆腐ステーキ、付け合わせの野菜、ご飯、味噌汁、漬物、ほぼ想定していた通りの構成である。

ただ、想定外だったのは、豆腐ステーキが2枚あったことだ。

そして、想定外のことがもう一つ。

軽くなく、あっさりしていなく、さっぱりしていなかった。


豆腐ステーキ自体は、想定していたそれだった。

特に変わったところはない。


だが、豆腐ステーキにかけられたソースが、想定していたそれではなかった。

ぽん酢風のものがかけられていると思い込んでいたのだが、和風ドレッシング風のものがかけられていたのである。


それが、少し重かった。

美味しくないわけではないが、重い。

きつい。

とはいえ、残すのは気に入らない。

頼んだからには、出されたからには食べる。


というわけで、食べた。

食べている時はややきつかったが、食べてしまえば、どうということはない。

そもそも私は、それなりに食べる方だ。


ウェイトレスに声をかけて、膨れたお腹を抱え席を立った。


エスカレーターで2階に昇り、部屋を探した。

鍵をあけ、ドアを押すと、宅急便で送ったスーツケース、自動車学校の受付で預けたバックパックが、まず目についた。

ドアを締め、チェーンロックをかけ、テレビをつけ、そして、深くため息をついた。


誰に気を使うこともない密室に心が鎮んでいく。

くたくたになった服を無造作に脱ぎ捨て、浴室に飛び込み、シャワーを浴びる。

頭から爪先へと流れていく知らぬ土地の水が、汗を、そして、疲れを洗い流していく。


バスタオルで適当に身体を拭い、浴室を出て、寝巻を羽織った。

足下が覚束ない。

ふわふわしていた。

身体が軽くなったかのような錯覚に惑う。


身体は眠いのだろう。

だが、精神は昂ぶっている。


眠りたくないわけではない。

ただ、やることがあった。

机の上を片付けてスペースをつくり、スーツケースからノートパソコンとマウスを取り出す。


ノートパソコンのタッチパッドは、操作性が悪い。

1日、2日であろうと、ノートパソコンを持って外泊する時は、必ずマウスも持っていくことにしている。

せいぜい100グラム、荷物が重くなるだけで、作業効率が劇的に改善されるのだから安いものだ。


LANケーブルを挿し、マウスを挿し、電源を入れる。

SSDのおかげで、数瞬でOSが立ち上がる。


ノートパソコンは、合宿のためだけに購入した最新型のものだ。

CPU、GPUは共に発表されたばかりのもので、ただ起動が速いだけではない。

総合的な性能は、自宅で常用している4年前に自作したデスクトップ機と同等かそれ以上かもしれない。


合宿のためだけにノートパソコンを購入するなんて贅沢であるようだが、そうではない。

合宿が終われば、すぐに売却する予定だからだ。

なので、液晶の保護フィルムは剥がしていなかったりする。


パスワードを入力し、デスクトップに入り、ブラウザを起動する。

予め必要なアプリケーションのインストールと設定は済ませてあったので、手を煩わされることは何もない。


やることとは、買い物である。

大手インターネット通販サイト"Amazon"のブックマークを開き、好んで飲んでいた清涼飲料"ソルティライチ"1.5リットル8本セットの購入手続きを済ませる。

届け先は言うまでもなく、この部屋である。


この季節に、外を歩き回るには、飲み物が必要不可欠だった。

旅先で熱中症などと、笑い話にもならない。


とはいえ、事あるごとに自動販売機でペットボトルを買うのは、できれば避けたい。

1.5リットルのペットボトルの中身を移し換えて、500ミリリットルのペットボトルに入れて持っていけば、節約になる。

貧乏臭いが、現実に貧乏なので仕方がない。


自動車学校に持っていくべきものを確認し、バックパックに入れ、それから、着る服を選び、

今夜すべきことは終わった。


眠ってしまってもよかったが、寝つけるような気がしなかった。

ネット上に散乱する有象無象のニュースを一通り確認し、それから、現在遊んでいるオンラインゲームを起動した。


ログインして、チームメンバーに挨拶する。

旅行に行くので、ホテルの環境によっては、暫くの間、ログインできないかもしれない。

その場合は、代理の責任者を立てるかもしれない。

そのように伝えていたので、やや微妙な反応が返ってくる。


具体的には、

「生きていたのか」

「旅先でもオンラインゲームですか^^」

などである。


とにかく、いつも通りで安心した。

遠く離れた場所でも、一瞬で言葉を伝えられる。

繋がることができる。


それが素晴らしいことだと、あらためて実感した。


■本日の支出■

髭剃り

120円


東レ トレシー(眼鏡拭き)

630円


グラスチェーン

420円


ソルティライチ(1.5L×8本)

2,200円


合計

3,370円

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