マグカップリン

月ノ瀬 静流

マグカップリン

 ある日、学校から帰ったら、家中に火災報知器の音が鳴り響いていた。

 すわっ!? 火事か!?

 尋常ならぬ焦げ臭さに、思わずダッシュの俺。

 発生源たる台所へとダイブしたら、そこに怪しげな化学者がいた。

「……姉貴? 何やってんだよ!?」

 耳を塞ぎながら俺は叫んだ。

 一応、言っておくが、姉は某秘密結社所属のマッドサイエンティスト――ではなく、某大学理工学部化学科に在籍する大学生である。

 だからといって自宅で白衣を着て、顔の半分を覆う透明なゴーグルを掛け、脚立の上で天井に手を伸ばしているという現状は、どう解釈すればよいのであろうか。

「見て分かんないの!? 火災報知器を止めようとしているのよ!」

 うろんな目で見据える俺に、姉は怒鳴りながら顎で示した。

 端的に言えば、小柄な姉は背が届かない、と。

 便利屋のように俺を使うな、と思ったが、けたたましい警告音があまりにも五月蝿いので止めてやった。

「で? いったい何をしでかしたんだ?」

 ばつが悪そうに礼を言った姉を、俺は問い詰めた。当然だろう。

 ちなみに、流しには、前世が何者か分からない、炭化した物体Xのこびりついた鍋が転がっている。

「プリンを作っているのよ」

「これのどこがプリンだ?」

「カラメルよ。……失敗したけど」

 台詞の後半部分では、姉の目線は明後日の方向を泳いでいた。

「姉貴、自分の技量うでは知ってるよな?」

「分かっていても、乙女は戦わなければならないときがあるのよ!」

 ない胸を張って姉は言った。白衣の胸ポケットに、でかでかとマジックで書かれた名前が間抜けだ。小学生のゼッケンじゃあるまいし。

「誰が乙女だ?」

「だって、西山君が『プリンが大好物』って言ったんだもの。作ってあげたいと思うのが乙女心でしょ?」

 姉は怪しげなゴーグルをした顔をぽっと赤らめた。

 ………………。

 どういうわけだか、つい最近、姉に彼氏というものができた。

 姉は花火大会に行けば「きゃあぁ! 情熱の炭酸ストロンチウム~!」だの、「新緑の硝酸バリウム!」だのと、炎色反応に心をときめかせてしまうような女だ。

 部屋にはなんと、実験の時にガラス管を加工して作ったというスポイトが、ガラス細工のインテリアよろしく飾ってある。

 物好きな西山氏が、どのような経緯で姉とそういう関係になったのかは、人類始まって以来の謎である。……単に、理工学部の男女比に負けたのかもしれないけど。

 さておき。

 姉は明日、西山氏の下宿に遊びに行くにあたり、手土産にプリンを作って行きたいのだという。

「ああ、こんなときにお母さんがいてくれば……」

「……それは言わない約束だろ」

 俺たち姉弟は、仲良くため息をつく。

 数ヶ月前に父が転勤になり単身赴任を始めた。一ヶ月ほど経って様子を見に行った母は、父のあまりに哀れな生活に涙を流し、そのまま帰ってこなかった。

 曰く「よく考えたら、なんで大学生の娘と高校生の息子のお守りをしなくちゃならないのよ」だそうで。

 現在、うちの両親は単身者用の狭い借アパートで新婚気分を楽しんでいる――父親譲りの生活無能力者の子供たちを自宅に残して。

「姉よ、分をわきまえるのだ。それより、プリン作るくらいなら、俺たちの晩飯作ってくれ」

 どさくさに紛れて今日の料理当番を押し付けようとした。それが失敗だった。

「分かったわ。晩御飯を作るから、プリン作るの手伝って」

 何故か黒焦げの鍋を俺が洗う羽目になった。



 俺たちの母は菓子作りが得意だ。春になればヨモギを摘んで草餅を作り、夏にはアイス。お月見には月見団子で、クリスマスはブッシュドノエルだ。

 小さい頃は俺や姉も喜んで手伝い、つまみ食いのご褒美を貰っていた。しかし、あるとき俺たちは喧嘩して、母の大事なハンドミキサーを壊してしまったのだ。先っぽについている生クリームを洗う前に舐めていいと言われ、取り合いになって落としたのである。

 怒り狂った母は俺たちを台所から締め出し、以来、台所は決して侵すことのできない母の聖域となった。そして姉は、包丁を持てば血の雨を降らし、フライパンを持てば自らに焼印をつけるような女に育った。

「キャラメル化反応は、糖が加熱によって褐色の生成物になる反応で、125℃から130℃で水分がほとんど蒸発し、150℃から160℃で完成するのよ」

 カラメルを作り直しながら、姉が講釈をたれた。手には、100℃以上まで測れる母の調理用温度計だ。

 鍋の中身がだんだんと泡立つ。ぱちぱちという危険な音がして、俺は本能的に体を遠ざけた。

「それ、湯より熱いってことだよな?」

「そうよ。この中に水を入れてカラメル完成。――あんた、大匙一杯の水を持ってきて」

「その地獄の釜に水を入れるのか?」

「そう。……160℃! 早く、水!」

 鬼の形相で姉が命じる。俺が大慌てで近くにあった大き目の匙に水を注ぐと、姉は強引にそれを奪い、半分以上こぼしながら鍋に入れた。

 途端。

 ジュウウウウウウウ……。

「!!!」

 俺は声にならない悲鳴を上げた。

 ものすごい蒸気と共に、鍋の中身が撥ねたのだ。

「何だよ!? これ?」

「カラメルよ。こうなるから保護メガネをしていたのよ」

 怪しげなゴーグルを指先でつんつんしながら余裕綽々の笑みを浮かべる姉。白衣は長袖だから腕も安全よ、と自慢げだ。エプロンの似合わない女め。

「やった! 成功だわ!」

「……カラメル作り直したの、何回目だ?」

 匙が飛んでくるのを俺はひょいとかわした。失敗回数は分からなかったが状況は充分に把握できた。

「ああ! ここでゆっくりしてちゃ駄目なのよ!」

 姉は叫びながら、見慣れないマグカップに少しずつ鍋の中身を注ぎ始める。二列に整列している淡いブルーのマグカップは全部で十個ほどある。

「そのマグカップ、何?」

「今、忙しいの!」

 姉は、固まり始めて糸を引いている鍋の中身と戦っていた。熱湯より熱くなっていたはずのそれは、あっという間に固まるようだ。

 しばらくして、姉はこげ茶色の固形物がこびりついた鍋を寄越した。洗え、ということらしい。

「ねぇ、このマグカップ、綺麗な色でしょう?」

 俺に鍋を洗わせておきながら、姉はうっとりとマグカップの一つを掲げ見る。

「この中にプリンを作って、プレゼントするの。そうすると可愛いって本に書いてあったし、食べたあとはペアのカップになるのよ」

「ペアって……。たくさんあるだろ」

「私は自分の技量うでを認識していますからねー。たくさん作って綺麗にできたのを二つだけ持っていくんですよーだ」

 この大量のマグカップはプレゼント用にわざわざ買ってきたらしい。しかし、一度に全部作ったら、全滅ということもあると思うのだが。いや億が一、上手くできたとしても、残った分はどうする気だ? 俺は一抹の不安を覚えた。



 俺が鍋に湯をかけて洗っている間にも、姉のプリン作りは続く。

 卵を落としては俺に床を拭かせ、牛乳を噴きこぼさせてはコンロ掃除を俺に押し付けた。当分、料理当番は姉だな。

 それでもどうにか、姉がプリン液と呼ぶ薄黄色い液体が出来上がった。姉はその液体を菜箸を伝わらせてマグカップに注ぐ。――それ、薬品の注ぎ方だろ。

 予熱の済んだオーブンにマグカップが投入された。

 と、思ったら、姉がヤカンでオーブンの中に湯を注いだ。

「な、何やってんだよ!? オーブンが爆発するぞ」

「邪魔しないで!」

 止めようとした俺を姉は払いのけ、勢いよくオーブンのドアを閉めた。慣れない手つきで時間設定をし、スタートボタンを押す。

 オーブンが動き始めたことで安堵のため息をついた姉は、爆発に備えて台所の端に退避していた俺を鼻で笑った。レシピ本を付きつけ勝ち誇ったように、ない胸を張る。

「今のは『湯せん焼き』。いい? 卵は65℃から固まり始め、75℃から80℃で完全に固まる。プリンには牛乳や砂糖といった不純物が入っているから、もう少し高温にならないと固まらないけどね。ともかく必要以上に高温にすると、すでに固まっている部分の水分が気化してスカスカになる。だから湯を入れて蒸し焼きにするわけ」

 むかつく態度だが、まぁ、姉の言い分が正しいのは分かった。

 けど、『牛乳や砂糖といった不純物』と言ったな? 食い物を不純物扱いするのは如何なもんだろうか。しかも彼氏へのプレゼントだろ?

「おい、使い終わった鍋、どうすんだよ?」

 流しには薄黄色い液体を作った鍋が放置されていた。しかし、姉はオーブンの前に鎮座したまま。真剣に中の様子を伺っている。

 今まで菓子なんて作ったことがないくせに、無理して頑張っているのは確かなんだよな。

 手の甲が火傷で赤くなっている姉を見ながら、俺は黙って鍋を洗い始めた。



 そしてついに、完成のブザーが鳴った。

 緊張した面持ちで姉がオーブンを開ける。

 俺も横から覗き込むと、投入前と変わり映えしない姿のマグカップが行儀よく並んでいるのが見えた。

「固まってないじゃん」

「そ、そんなはずないわ。本の通りに作ったのよ」

 動揺する姉。

 俺としてもいい加減、下働きから解放されたい。これから作り直しは勘弁だ。

 その願いが通じたのか、姉の根性の賜物か。よく見ると端のほうに置かれていたものが二つだけ固まっていた。

「神様は私に必要なだけのプリンを与えてくれたのよ」

 いや、おそらく母がよく言っているオーブンのムラというやつだろう。

 姉は固まった二つのマグカップを大事そうに手にし……ようとして悲鳴を上げた。そりゃ、オーブンから出したばかりのものは熱いだろ。

 ともかく姉はその二つを持っていくことに決めた。

 さて。

 問題はこれだ。

 俺たちは残ったマグカップの山に目を移した。

 どう見ても液体だ。断じてプリンなどではない。

「今日の晩御飯――」

 姉が口を開いた。これを食えというのか?

「――ホットケーキにしよう」

「は?」

 目が点になった。

「固まっていないプリンなら卵と砂糖と牛乳の混合物よね。これに粉を加えれば……」

 姉は、化学者だった。



 翌朝、姉がプリンと呼ぶ、マグカップに入った物質は我が家を旅立った。



 夕方。

 姉は素晴らしくご機嫌で、「水兵リーベー、ボクのおフネー」なんぞと鼻歌を歌いながら帰宅した。

「ねぇねぇ」

 余裕の笑顔だ。なんか癪だ。思わず耳をふさいだが、姉は意にも介さずに続ける。

「あのね、やっぱりあのプリン、下のほうは固まっていなかったのよ」

「へ?」

「でもね、西山君たら、すごく濃厚でおいしいミルクシェーキだね、って喜んでくれたの。マグカップに入れたのがよかったのかな」

 ………………。

 俺は心の中で西山氏に勇者の称号を与えた。

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