ナビにない街

太刀川るい

ナビにない街


 私は自分の手でハンドルを握ったことのある最後の世代だ。


 路上教習はなかった。教習所のひび割れたアスファルトの上を走ると、教官は何の感情も読みとれない顔でクリップボードに丸をつけ、私は免許を手に入れた。

「昔は本物の道路で練習してたんだけれどね」車から降りるとき、教官はそうポツリと漏らした。



【ナビにない街】



 行き先を告げると車が走りだす。ハンドルのある車に最後に乗ったのはいつだったか。思い出そうとするうちに、車は一定の加速度で滑るように動き始めた。


 ふと、昔、父の運転する車に乗った時のことを思い出した。休日の遠出、一日遊んで疲れた体を後部座席のシートにあずけ、振動を感じながら完全に安心しきって、ぼんやりと夕焼け空を眺めていた。あの時に比べて車の乗り心地はまるで別物だ。人間の手による無作法な加速も、エネルギーを捨てるだけのヒステリックな減速も、今の車には存在しない。


 死角だらけの不完全な周囲確認も、見える範囲の信号しか予測に利用できない欠陥的な認知システムにも、人類は別れを告げた。


 窓の外には車の列。ぬけるような空から降り注ぐ、夏の強烈な日光に焼かれながら、一列に切れ間なく、見えない鎖で縛り付けられているように車は動く。車の間には何もなく、すべての車が同時に加速減速を行うために、繋がっているように見えているだけだということは分っていても、やはり見えない連結部を想像してしまう。じっと見ていると、クルマたちは止まっていて、道路も含めた景色の方がそのタイヤで加速されて後ろに過ぎ去っているような、言いようのない不気味さを感じる。ずっと見ていると酔いそうだ。


 前の車の運転手が小型端末を弄っているのが見えた。私の車があまりにもぴたりと後ろについているものだから、画面の文字さえ見えそうなぐらいな距離だ。機械は実に上手く運転してのけるから、この距離でも安全上の問題はない。急ブレーキは存在しない。信号待ちも存在しない。信号とリンクすることで、極めて効率的に車は走り続ける。

 手元の端末から目を離さない運転手を見ていたら、そろそろ、この窓すらも必要なくなるかもしれないと思った。どうせ窓の外なんて見ている人間は居ない。大事なのは世界と繋がっている数十センチ四方の端末の画面だ。殆どの人間が毎日それを見て過ごす。窓がなくなれば他にもメリットが有る。直射日光が入らないから、夏の暑さだって少しはましになるはずだ。

 それでも、電車の窓が未だに消えないように、しばらくこのまま推移するのだろう。


 埋込み式の画面を数回タッチしてナビを表示した。移動しているということが解るこのシンプルな地図の画面が私は好きだが、世の中はそうでもないらしい。最近はつまらない宣伝や他愛のない動画の再生機能といったものばかりが追加される。車は移動するものから、移動を忘れさせてくれるものになっていくようだ。


 車は大通りに出た。複層構造の巨大バイパス。都会をつなぐ大動脈。下の貨物優先レーンを巨大なトレーラーが走っていくのが見える。そのうち減速レーンに入るのだろう。運動量をジャンクな熱や音に変換する原始的なブレーキはほとんど使われることはない。数キロはある減速レーンに入ると同時に回生ブレーキが働き始め、その運動量を電気エネルギーとして回収する。そして、減速された大量の貨物は郊外にある集荷センターや、巨大ホームセンターに供給されていく。


 また道路が縦に伸びたようだ。道路の計画も機械がやっている。交通量の多い道路はより広く、交通量の少ない道路はより狭く。土地の買収の問題を、複層構造によって解決して。上下に広がっていく道路の中を、猛スピードで車は走り抜ける。人間が運転できる道路は最下層の小さなレーンで、これも時代の流れだ。


 全てが効率的に回っている。効率的な仕事、効率的な社会、効率的な人生。

 数式によって導かれた無味乾燥な最適解をなぞる鋼鉄の群れ。それが車だ。

 そして、非効率的な人間はそこから排除されていく。でも、今は非効率になりたい気分なのだ。


 車は私を置いて軽快に走り去っていった。次のユーザの所に向かうのだろう。住所を確認して、チャイムを押すと、直ぐに家主の老婆が姿を表した。

 愛想の良い家主とテンポよく世間話をこなした後、私はガレージへと導かれた。


 鈍い明かりに照らされて、それはそこにあった。

 くすんだ銀のスポーツカー。表面を覆う透明なビニールシートをめくると、十数年の時間が埃となって舞い散った。


「本当にいいんですか?」

「ええ、旦那が死んでから、ずっと置いておいたけれど、世の中の流れね」

 猫を撫でるかのような手つきで車のボディーを触りながら、老婆はそう呟いた。


 車を運び出すのは明け方にした。昼間は車が多くて危ない。機械が道路を埋め尽くし、人間の方が道を空けるのは変な話かもしれないが、合理的だ。とてつもない速度でピタリと後ろについてくるような車と一緒に道路は走りたくない。

 それにドライブするのなら朝が良い。途中で缶コーヒーを買って、十数年ぶりのドライブを楽しもう。

 せっかく出会えたというのに、この車とはすぐに別れなければならない。まだ機械に支配されていない田舎に車を運び、受け渡す。それが私が頼まれた仕事だ。



---------

 モーターが可聴域ぎりぎりの甲高い音を立てて、車が動き始める。

 数十年動かなかったタイヤがゆっくりとアスファルトを踏みしめ、私は車道に出た。


 ガソリンはあることにはあるが量が少ない。昨日ホームセンターで購入した程度の量では数キロ走れば終わりだろう。だが、私は今回のドライブの最後はガソリンで走るつもりだった。

 内燃機関の動力で走るという時代錯誤めいた行為が出来るのは、ひょっとすると、これが人生最後の機会になるかもしれないのだから。


 朝の街は静かに眠っている。薄暗くてよくわからないが、少しガスがかかっているようだ。子供の頃、遠出する朝もこんな感じだった。あの時と同じように、自分の胸が高鳴っているのを感じる。


 ゆっくりとアクセルを踏み、次第に感覚を思い出していく。

 静寂と共に、センターラインが私の後ろに流れていった。


 落ち着いていて、いい気分だった。自動運転の車が何台か、私を追い越していったが気にはならなかった。そうやって効率的に動いていればいい。私は少しでも長くこの時間を楽しみたいのだ。


 視線を前に向けると、一台の車が信号待ちをしているのが目に入った。白いスポーツカーだ。自動運転ではない。


 思わず顔が綻んだ。私以外にも、この街に自分で車を運転する人間が生き残っていたなんて。

 話しかけてみたいが、どうすればいいのだろう。

 不意に信号が代わり、車が動き始める。私は慌てて減速を切り上げ、アクセルを踏む。


 白い車は滑るように動き出し、そして左に曲がった。

 私もそれを追いかけて曲がろうとした時、ふと異変に気がついた。


「なぜだ?」


 思わずそんな言葉が口から出た。目の前には一本の簡素な道路。

 標識があって、センターラインがあって、どこからどう見ても、普通の道路にしか見えない。

 しかし、車のナビゲーションには何も表示されていなかった。私の指がタップするディスプレイには、道など無く、ただ街の区画が無表情に存在しているだけである。私有地なのだろうか? それにしてはしっかりとしすぎている。


 判断に迷っているうちに、白い車はほとんど見えなくなってしまっている。

 私は覚悟を決めるとその道に車を乗り入れた。


 道は不気味に続いていた。ナビの矢印は灰色に塗りつぶされた区画の中を静かに動いている。だがこれは道路だ。間違いなく一本の道路だった。裏道のような場所を抜けると、住宅街のような場所に出た。朝の街に人気はないが、ゴーストタウンというわけでもなく、普通に人が生活をしている様子がたしかに見て取れた。窓にはカーテン。手入れされた庭。

 機械の故障だろうか? 古い機種に何か問題でもあったのだろうか?

 今まで一度も通ったこと無い道だったが、地図を縮小して全体を確認すると、私の家と職場の直ぐ近くに存在する事がわかった。こんな場所があったなんて全く知らなかった。

 いつの間にか、白い車も見失ってしまい、私はただあてもないまま、見知らぬ街を走り続けた。


 やがて、公園の様な場所に出た。

 住宅街と違ってここはかなり荒れ果てている。コンクリート製の遊具は古代の遺跡のようにペンキの剥げた表面を露わにし、フェンスも錆びている。だが、草などはちゃんと刈られているのが奇妙だった。


 思わず声が出そうになった。公園の近くの道路に、車が何台も止まっているのが見えた。微妙に乱雑な駐車の仕方、機械のように綺麗に整列などしない。つまり人間だ。


 傍らに幾人かの姿が見えた。私の車に気がついたのか、此方を見て口々に何かを話している。

 車を停めると、彼らは物珍しそうに私の車を取り囲んだ。


 窓をあけると、冷たい朝の空気が流れ込んでくる。


 聞きたいことが沢山ありすぎて、なんて話しかければいいのか解らなかった。

 すこし間を置いてから、私の口から出た言葉は

「ここは?」というものだった。


「あんた、ここにくるのは初めて?」

「なんでここに?」車を取り囲んだ彼らは口々に言う。


「ここに入っていく車が見えて……それで、後に続いていったらここに……なあ、教えてくれ。ここはどこなんだ? そしてなぜ地図にないんだ?」


「なんだって? じゃああんた偶然ここに来たのか?」

「ああ、そうなるが……」と答えて、周囲の人間を注意深く見渡した。年配の人間が多いようだが、私より若い年の人間も居るようだ。彼らが一体どういう集まりなのかさっぱり解らない。

 ただその驚きの表情を見る限り、私の存在はかなり珍しいらしい。


「ここに新参物がくるのは久しぶりだ。ようこそ、我々の街へ」

 人々の後ろから、白髪の老人が姿を表し、落ち着いた口調でそう告げた。


「誰からも聞かずにここに来たのなら、それは奇跡にも似た確率だ。だが、その場合ここがなぜ存在するのか知らないわけだね」私は頷く。


「どう説明すればよいのか……まず、今の道路が機械によって作られていることは知っているね。交通量の多い道路は優先的に作られ、そうでない道路は遺棄される。年を走る交通網は血管の様に広がり、最も効率のよいルートを作り出す。……そして、それとはまた別に、車は最も効率的なルートを走るようにできている。するとどうなると思うかね?」

 どうなるのか……私は考える。この両者の関係には正のフィードバックがあるということだ。お互いのしっぽを加え合う二匹の蛇のように、どちらが先ということもなく、一つの方向に動き始める。当然それは網目状に広がり……

 突然、私は理解した。同時に驚きのあまり言葉を失う。


「理解したかね。ここはシステムが生み出した空白地点だ。効率と効率の隙間にある街なのだよ。ここは自動車専用の道路に囲まれていながら、通じる道路は全て廃止された。君が今しがた走ってきた道は正確には国有地なのだ。道路ではないから地図にない。地図にないからナビにない。だから自動運転の車はここに来ることはできない。市役所の職員も、警察も、ここに来ることはできない。自分の手でハンドルを握る人間しか、ここに来ることはできないのだ」


「じゃあ、ここは捨てられた街ということなのですか?」

「いいや、私は住んでいるし、住民票の住所もここだ。街としては生きている。ただ普通に生活していれば、到達できないだけでね」

「誰も、気がついていないのですか? ここの存在に」

「この街に通じる道路が廃止された時、私は驚いたよ。人間ならこんな奇妙な状況を作り出す前に気がつくだろう。だが機械にとっては違う。こういう状況を想定していなかったか……あるいはシステムに何か不具合があり、エラーチェックをくぐり抜けたか。まあいずれにせよそれは大したことではない。重要なのはこのような問題が生まれながら、だれもそれに気がついていなかったということだ。多分今後も気が付かないんじゃないかね。我々にとっては都合のいいことだが」


 私は興奮を隠しきれなかった。

 ナビにない街。人間が運転しなければ決して到達することのできない街。毎日見ていた、通勤の傍ら目に入っていたあの景色の裏側に、こんな場所があったなんて。


「この街の維持管理は我々自身で行っている。別に隠しているつもりも無いが、ここの存在を大っぴらにする必要も無いと考えている。何よりも、人が来ないのは、我々のようなドライバーにとっては有益なのだ」


 彼らがなぜここに集まっているのか、私は理解した。


「私も……走っていいんですか?」

「ああ、もちろんだとも」

「ここは人が自分の意思で走れる街なんだ」

「走ってこいよ。ここにはガソリンスタンドもあるんだぜ。持ち回りで購入して運営しているんだけれど」彼らは口々に笑顔でそう答える。


 私もつられて笑顔になると、車を反転させた。後で依頼先に電話をしよう。もしかすると、私がこの車を買い取れるかもしれない。でも今はただ、走りたい気分だ。


「この街はかなり細長い。北の方まで行ってぐるっとかえってくるルートが良いだろう」

 アドバイスに頭を下げると、私は、車のキーをガソリン駆動にセットする。


 朝もやの中に朝日が差し込む。街は静かに目を覚ます。

 キーを回すと、エンジンに生命が宿った。たちまち車は生き物になる。

 車の鼓動を感じながら、私はハンドルを静かに握った。

 そして私は走りはじめる。ナビにない街を。

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