第7話 思慕

 雨を待っていた。

 ライブハウスの屋上が好きで、ナエはコンクリのそこに横になるのが好きだった。

 そうしていると体の下で誰かが演奏している音が衝撃になって壁を伝ってびりびり震える。

 ライブハウスなんて誰かが勝手に呼び出しただけで建物自体に音響を考慮した工夫は何一つない。音は漏れ放題でとても観客に聞かせる音楽なんて奏でられない。

 客のほうも音を目当てにする人なんて居ないはずだ。

 それはナエにも言えたことで、目的は音楽というより振動だった。

 びりびり痺れる建物の上に居るのが好きだった。

 見上げた向こうまっすぐにある空は今日も快晴の灰色で、到底雨なんて降りそうにない。ともすれば、今すぐにでも降り出しそうにも見える。この町の空で天候を知ろうなんて無理な話だった。

 不明瞭な音楽が振動になって体に触れる。硬い屋根の冷たい感触が少し心地よい。

 このまま眠ってしまいたいような鈍い眠気が訪れる。

 でも目を閉じても眠れなかった。

 眠るならシュウのそばがいいな、とナエは思う。

 シュウは今も繭の中で眠っている。

 眠っている間は、何度も何度も夢を見ている。

 仮死の眠りのずっとずっと深い所で、シュウは死ぬ夢を見続ける。

 夢の中で殺され続ける。

 ナエはもうずっと前から夢のほうこそ現実感を持って感じられるようになっていた。起きている時間は、睡眠に備えて心身を疲れさせるためにあるようなものだ。夜眠る時間を待ち望みながら毎日暮らしている。

 それは空白だった。日中の空いている時間に働いてもっとシュウの環境を良くしてあげることも可能だろうが、働くなんていう意欲的な行動ができるほど意識がはっきりしない。

 だからいつもぼんやりと昼を過ごす。いつも夜を待っている。

 今日はいつもより頭がはっきりしていた。

 見た夢の影響が強かった。

 この手で引き鉄を引いて、銃口から飛び出した弾丸が、あの男の頭を破裂させるのを見た、そのせいだ。失敗したけど、次は大丈夫――今日はいつもより一層夜が待ち遠しい。何度も何度も、あの男をやっつける所を想像する。それからシュウのところへ言って呼びかけるのだ。

(「シュウ、ぼくやったよ。ぼくあいつをやっつけた! もう怖いものなんてないよ。だからシュウ、もう起きていいんだよ!」)

 ナエは口元を綻ばせる。

 どこかでカラスの飛ぶたくましい羽音がした。体の下では今もドラムやベースの低い音が建物の中で弾けているのが解る。振動は心地よくて離れがたいものだったが、ナエは体を起こして建物の側面についている梯子を下りた。

 雨は降りそうにない。

 匂い屋へ行こう、と足を向けかけ引き返す。

 まだ家に香が残っているし、誰かと喋りたい気分でもなかった。あの店の店主はお喋りだ。どこかへ行こうかと考えたけれど結局アパートに帰った。

 帰った部屋にヨウが居た。ナエの上機嫌がそこで一度途切れた。

「頻繁に来るね」

「話したいことがある」

「何?」

 ヨウが来たせいでまた部屋が整頓されている。

 ドアを開けたとき丁度床に散らばった衣類を回収している所だった。

 白衣のままだから仕事が終わった後なのだろうか。

 ナエは仕方なく小さなパイプ椅子に腰を下ろす。

「今朝の話のことだけど……」

 ベッドをソファ代わりにして座って、衣類の山を横に置いて、ヨウは躊躇いがちに切り出した。その割に次の言葉ははっきりしていた。

「俺には信じられない」

「いいよ信じなくて」

「それがナエの思い込みじゃない証拠はどこにある?」

「何?」

「シュウの夢を共有したくて、こんな仕事続けてるんだろう?」

「そうだよ。シュウの夢に入れるから」

 同じことを二度説明させるのか、とうんざりしながらナエは言う。

 だけどシュウのことを考えると、ナエの心は満たされる。

「ずっと遠かったシュウがこのときだけはすごく近くに感じられる。シュウの心に触れられる。ぼくとシュウは、夢の中で一緒に居るんだ。それがぼくは嬉しい。でもシュウは悪夢を見続けてる。だからぼくがこの悪夢を壊してやる」

「それが、シュウの夢じゃないかもしれない。証明なんてできっこない。心配なんだよ。ナエが思い込みでシュウを救った気になっているなら可哀想だと思う」

 途端にむっとしてナエは言い返した。

「思い込みなんかじゃない! ヨウも試したら良いよそしたら分かるもん、自分じゃない誰かの夢の中だって、ちゃんと理解できるんだよ」

「じゃあ、シュウ以外の夢にも入れる?」

「できる、多分」

「多分?」

「できるよ!」

 嫌なことを言うやつだ、とナエは苛立つ。

 はじめは便利だと思っていた。勝手に食事を作ってくれるし洗濯物を出してくれるしおまけに部屋を掃除する、無料でハウスキーパーを雇った気がした。

 それが最近じゃ何かと余計なお世話をしてきて、その理由がわからないからナエは苛立つばかりだった。今だってなんでこんなことを言うのか解らない。もし例えば本当にナエの思い込みだったとしても、今に満足しているのだから放っておいて欲しいのに。

 ヨウは言った。

「じゃあ、俺の夢も見て。できるだろ? そしたら信じる」

 誰かに信じてもらう必要なんてない。

 だけど「できる」と言った手前、ナエは断れなかった。

「できるよ――」

 答えながら、内心では凄く悔しかった。

 今日はシュウの夢のあいつをぶち殺してやるつもりで居たのに。

 でも良い、慌てることはない。

 あの男は逃げやしないのだ。いくらでも機会はある。


 

 言った――ヨウは不満そうなナエを前に、ふうと息を吐いた。

 今朝からずっと考えていた。

 他人の夢に感応し同時に体験する、それは本当に可能だろうか?

 ナエは確信しているが、もし違ったら今度こそ、強引にでも止めさせようと考えている。

 毎晩死ぬ、そんな生活から切り離したかった。

 夢の話だと軽く言われてしまうかもしれない。

 だが、この二年でナエの精神状態は明らかに弱っていた。

 そしてシュウへの執着心は深くなるばかりだ。

 ヨウはシュウに憤りを抱く。

 娘を一人残して眠りに逃げた、責任を放棄した母親の姿。自分を置き去りにした母親を慈しみ守る娘の姿。

 不快だった。ならば自ら遠ざかり視界に入れなければ済むだけの話だ。

 自分本位な話だった。

 その体温に触れた小鳥の死骸を見たくなかった。

 あの時の気持ちとなにも変わっていない。

 ヨウは仕事の休憩時間にここへ立ち寄っていて、会えなかったら夜にまた来るつもりで居た。ひとまずの用件は済ませたので夜にまた落ち合う約束をする。

「じゃあ、今夜ヨウの家に行くよ」

「わかった。待ってる」

「あとでぜったい、謝らせてやるから」

 悔しそうに言うナエに、ヨウはすぐに「ごめん」と呟いた。

 そうじゃない、と怒る声に追い出されて仕事場へ向かう。

「あ」

 ふと気付いて空を見上げる。その鼻先に雫が落ちる。

「雨だ」

 ヨウは濡れまいと駆け足で勤務先へ向かった。



 ヨウを追い出した部屋のドアの前に立っていたナエは、一度息を吐いて閉じかけのドアを最後まで閉めた。扉に背を預けて目を閉じる。

 ため息。少し頭痛がした。喋るのは疲れる。シュウのことに関すると口数が多くなる。むきになるのを自覚する。それを知っててヨウが話を振ってきたのも分かってる。だけど冷静には居られない。

 だってぼくはシュウが好きだ。

 ナエは呟いて、ドアを開けた。

 音を立てないように一つ一つの動作を慎重にして二階へ向かう。

 シュウの繭の部屋へ。

 シュウの部屋は常に微弱な駆動音に満たされている。

 それがまるでシュウのバイタルサインみたいでナエは少し安心する。

 寝室の唯一の家具である化粧台へ向かっていって、その上に転がるいくつかの香から真新しいものを選ぶ。

〈Wanna Be Mother〉と銘打たれたミルクの匂いのする香に火をつけて、灰皿にマッチ棒を棄てた。マッチ箱には羊の絵が描いてある。どこで貰ってきたのかは忘れてしまった。

 化粧台の鏡には香のラベルを使って一枚の写真が貼り付けてある。

 塗りつぶした真っ青の、ただそれだけの、一目には写真とも分からないものだ。

 サイガに貰った空の写真だった。

 二年の時間は写真を褪色させているはずだが、それでも信じがたいほど鮮やかな色をしていた。

 少女はふいに鏡に映った自分の目の色を見比べる。

 サイガは大げさだ。ナエの目はもう少し灰色味を帯びていた。

〈Wanna Be Mother〉の香りが部屋に広がってく。

「シュウ……」

 囁いて敬虔な気持ちになる。

 ナエは繭に添い寝するように体を床に横たえて天井を見上げた。

 繭に擦り寄って、触れたところに窓が開く。シュウの肌の白が視界に飛び込む。

 綺麗だな、とナエは思う。

 童話の世界のお姫さまみたいに、綺麗。

 ほんのり温かいけど見た目ほど柔らかくない繭の表面に額をつける。

 駆動音が聞こえる。シュウの心臓みたい。今もシュウは夢を見ているだろうか。

「シュウ。ごめんねシュウ。今夜は一緒に居られない。本当なら今夜にでもあいつをやっつけてあげたいのにな。シュウを一人にしたくないな。シュウ。ぼくが居なくても寂しくないよね」

 シュウは答えない。綺麗な横顔のまま眠り続けている。

 臍の緒を腹につけたまま、体を縮こまらせて、胎児に戻った姿で、心配ごとは何もなく、不安なことは一つもない――そんな平穏な見た目からは想像ができない深い意識の中で、シュウは殺され続けている。何度も何度も死に続ける。

 部屋は柔らかいミルクの匂いに包まれていた。ナエはすぅと深呼吸する。

 香りが繭に及ぼす影響はごくごく僅かなものでしかないが、それでもシュウの精神が少しでも安らぐようにとナエは気を配っている。

 安眠の香や、照明や、物語を読み聞かせたりもしたっけ。思い返して笑う。

 こうやって添い寝もした。どうしたら悪夢が出て行ってくれるのかずっと分からなかった。シュウの夢が安穏としていたことは一度だってありえなかった。

 シュウには夢のほうが居心地が良かったのだろうか。

 殺されずに済む現実よりも?

 裏切られた気分になったことは何度もあった。

 だけどそのたびナエは、どうしたって、許す気になってしまうのだ。

「シュウ。シュウ。おやすみ……」

 繭に体を寄せて、ナエは目を閉じる。

 いつの間にか雨が窓や屋根を打ってリズムを刻んでいた。

 リズムは心臓の音に似ていて心地よい。

 シュウの心音に包まれているみたいで、気付けばナエはうたた寝をしていた。

 昨晩飲んだ薬の効果は切れていて、殺される夢は見なかった。

 夢も見ずに眠っていた。

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