第6話 聖母

 生きた聖母像だ、と思った。

 ヨウはアパート・ビリジアン一○一号室の合い鍵を持っている。

 ナエにそれを渡された頃は、勝手に部屋を整頓したり料理をしたりという癖を重宝されていたのだ。歩く掃除機とか、歩く炊飯器とか、歩く洗濯機とか、そういう何かだと思われていたらしい。

 今朝、ナエの目覚めるところに居合わせようと思って、そっと合い鍵で家にお邪魔した。後ろめたい気もしたが、ヨウには目的がある。

 もし寝覚めの様子を見て具合が悪そうなら改めて忠告するつもりでいる。

 試薬のバイトはやめてまともな仕事を探すべきだ、と言うつもりだった。

 ナエの部屋へ行く前、ヨウは久しぶりに繭の部屋に入った。

 ナエの大事な繭は以前と変わらぬ姿でそこにある。

 誰にも触れられていない繭の表面は曇っていて中の様子は窺えない。

 ヨウがシュウの寝室に足を踏み入れたのは過去に四回ある。

 ナエが居合わせたのは一度だけで、一年以上前のことだった。

 スエナ医科工業の商売のことは一時大きな話題だったが実物を見たのは初めてで、繭が想像よりも小さかったことに驚いたのを覚えている。

 

 一年と数ヶ月前のその日ヨウはバイトの帰りで食材を買ってナエの部屋を訪ねた。

鍵がかかっていなかったためにそのまま入り、ナエの部屋のドアをノックしたが返事がない。

「ナエ?」

 ドアを開けるが部屋に姿はなかった。

 二階に上って、ヨウはナエの声を聞いた。

 ドアの向こうからだ。

 誰かに話しかける声で、はじめは先客がいるのだと思った。

 ヨウは深く考えもせずドアを開けた。途端に身を竦めるナエの後姿がそっとドアを振り返る。ぱっと身を反転させて背後に何かを隠すように――守るように、立ちはだかった。

 反射的な行動のようで自分でも驚いたように目を丸くして、そのときやっとナエはヨウに気がついた。

「ごめん、声が聞こえたから――」

 ヨウのほうから見たそれは、ただの大きな丸いオブジェだ。

 少女は全身の緊張を解いて笑いかける。

「悪いね、気付かなかった」

「いや。……誰かと居た?」

「ああ、うん。この部屋はシュウの寝室で……紹介まだだったよね? 来て」

 招かれてヨウは躊躇いつつも踏み入った。

 近づくにつれそれが何かを知る。

 スエナ医科工業製のゆりかご、長期低体温睡眠装置

 同時に管理と維持の大変さに思い当たり、信じられない思いでナエを見た。

 ナエは繭のほうを向いていて、それは幸せそうな横顔でそっと外殻に触れた。

「シュウ。ヨウを紹介するね」

 現れる窓の向こうに人の体の一部が覗く。

「ぼくの友達だよ。紹介するのはじめてだね。ヨウ、ぼくのママ、シュウだよ」

 今まで聴いたこともないような穏やかで甘い声だった。

 ヨウは立ち尽くしたままそれを見ていた。

 繭の中で体をまるめる、まるで胎児のような格好をした少女の裸身。

 ぼくのママ? そう言われなければどう見ても姉妹だった。

 昏々と眠り込む、あるいは死んでいるようにも見える無意識の少女の体を前に、ヨウは反応を返せなかった。

 この繭の中で人が生きているのだと信じがたかった。

 それを受け入れているナエにも違和感を覚えた。

 でも、何か事情があるのかもしれない。

 例えば現在の段階で治療不可能な病を持っているとか――次々と可能性を上げつつ何ひとつ納得できなかった。

「どうして眠っているの?」

 純粋な疑問をぶつけるとナエはヨウを見上げて不思議そうな顔をした。

 なんでそんなこと聞くのだろう、という顔だ。

「シュウはずっと眠れなかったから、今ようやくたくさん眠ってるの」

「もう、どれくらい?」

「五年……ううん、もうすぐ六年」

「起こさなくていいの?」

「うん。だってシュウはすごく気持ちよさそうに寝ているから、起こしたらかわいそうだ」

「そう……」

「うん。ヨウ、今後はこの部屋に入らないで。あまり他人に触れさせたくないから」

「わかった。ごめん、今後は気をつける」

 この頃ヨウはすでにナエの夢見の悪さとその原因を知っていて、だから繭を見て腑に落ちた。

 繭の中で身動きひとつせず結晶になったような少女の姿はいっそ神秘的で、まさに生ける聖母像だ。ナエはこの聖母像のためにどんな苦難も試練と言い換え受け入れてしまうような気がした。そうすることで聖母像を独占することを、許される気持ちになるのかもしれないと思った。

 幸福を享受するために苦難があるほうが、人は受け入れやすいのだ。

 少なくともナエにとっては、苦しいのは当たり前のことだった。

 だってこんなに幸せなのだから。



 ナエの部屋に入る。

 いつ起きたのか家主は目覚めてしかしベッドの上にじっとしている。

「おはよう」

 返事はない。

 ヨウは冷凍庫の氷をグラスに落として冷蔵庫のボトルから水を注いだ。

 よく冷えた水がさらに冷たくなった頃、ベッドの上で天井を見上げている少女の目の前に差し出す。

 体を起こして受け取って、ナエはそれを一息で飲み干さんばかりに喉に流し込む。

 仰け反った喉が水を嚥下した。

 一筋二筋、唇の端から溢れた水が肌を滑る。ヨウはその水を目で追っていた。顎から首筋へ、そして鎖骨を流れて肌着に染みていく。

 グラスから口を離してナエは息を吐いた。何度か咽て、大きく呼吸を繰り返す。

「大丈夫?」

 今までに見たことのない様子に尋ねる。

 グラスを返してナエはヨウを見上げた。

 その瞳は妙に輝いている。

 でも目の周りの皮膚はくすんで疲労を明らかに示していた。

「あのね、シュウを救えるかもしれない。ぼく、ママを助けられる」

「何?」

「今日は失敗したけどきっと明日はもっとうまくいく。すぐには無理かもしれないけどこの調子でいけばきっと大丈夫。大丈夫だよヨウ。ぼく、きっとシュウを守ってあげられる」

「ナエ」

「うん?」

「夢の話?」

「うん」

 ヨウは背の低い木製の椅子に腰掛けて少女に目線を合わせた。頬が少し上気して、喜び興奮したように口元を綻ばせている。そっと額に手を当てて、ヨウは言った。

「ちょっとのぼせてる」

「そうかも」

「何があったの?」

「いつもと違うことが起きた」

「どんな、違うこと?」

「ぼく、武器を持ってた。あいつを撃った。今日は失敗だったけど、今度は大丈夫、あいつが死ぬまで撃つから」

 ヨウはナエの前髪を分けて視界を広げてやる。

 広くなった視界にヨウを入れて、幼い子供のするようにはしゃいでいたナエが口を閉ざした。

 今やっと目が覚めたような気分で、自分の口数の多さにナエは驚いていた。

「ヨウ……おはよう」

「今日は、様子を見て、おかしかったら忠告するつもりで来たんだ。正解だった、やっぱり辞めたほうが良い。他の仕事で補えないなら俺も手伝うよ」

「だめだよ迷惑かけられない」

「シュウの繭を守りたいなら他にも方法があるだろ?」

 ヨウはベッドに腰掛けてナエへ語りかける。ナエは膝を胸へ寄せて抱え込む。

「それができない理由があるの?」

 ヨウの問いにたっぷり逡巡した後少女は控えめに頷いた。

「聞かせてくれる?」

「うん」

 そう答えたもののナエは暫く言葉を発さなかった。それでもヨウはじっと待つ。せっかく除けてやったナエの前髪が俯いたせいで元通りになって視界を邪魔していた。

「あのね、もしかしたらヨウは信じないかも。だけど、ぼくには分かるの。ぼくが見る夢は、ぼくの夢じゃない。ぼくが見てるのはママの、シュウの見ている夢なんだよ。シュウの見ている夢を夢に見ている」

 ヨウは慎重に問い返した。

「どうして、そう分かる?」

 ナエが首を振る。

「理屈じゃなくて……感覚。曖昧だけど。でもちゃんと確かめた。サイガには契約があるから詳しいことは聞けないけど、多分間違いない」

「どういうこと」

「他人の夢を同時に経験するための薬だと思う」

 ヨウは、何も言えずにいた。

「だからね、ヨウ。心配しないで。ありがとう。ぼくは大丈夫。だって」

 ナエはもう俯いていなかった。前を向いて、強い眼差しでどこかを見ている。

「だって毎晩死んでいるのはぼくじゃない、シュウなんだ。本当に怖い思いをしてるのはぼくじゃない、シュウなんだよ」

 眼差しは何かを射んばかりの鋭さをその青に浮かび上がらせていた。

 ヨウは聞き手に徹している。ナエがこんなに饒舌なのは初めてだった。

 ヨウは聖母像を思い浮かべる。

 ナエの支え。ナエの目的。ナエの喜び。ナエの重荷。

 ナエの神さま。

 繭の中で眠り、死ぬ夢を見続ける。

 もし彼女の話が本当だとしたらシュウの望みは明確にならないだろうか。

 ヨウはしかしナエに言い出すことができない。できるわけがない。

「ヨウ。ぼくはシュウを守る。今度こそあいつを返り討ちにして、今までの分たっぷりし返しして、そして――そしたら、シュウをやっと起こしてあげられる。悪夢を追い払ってやる。そしたらもう何も怖くないから。ぼくが追い払ったって分かればシュウはぼくのこと認めてくれる」

 強い目はいつしか縋るような色に染まっていた。ヨウのほうへ身を乗り出して、不安か期待かその両方かにナエは落ち着かなくなっていた。

「ぼくの話わかってくれた?」

「うん……わかったよ。ごめん」

「ひとつ言うこと聞いてくれたら許してあげる」

「何?」

「手、貸して」

 ナエはヨウの左手を両手でそっと持ち上げる。

 彼の親指から手首までを左手で支え、右の手では中指から小指にかけてを受け持った。その形で引き寄せて、同時にナエも体ごと近づく。何にも触れられていない人差し指が一瞬びくついて、でもナエは解放しなかった。それに食いついてゆるく噛み付く。舌先で指紋の凹凸を感じて関節の上の皮膚に歯を立てた。

 ヨウは爪で口内を傷つけまいかとそればっかりを心配して、まとわりつく唾液もその温かな感触も不快に思わない。口が塞がっているせいで鼻から控えめに出入りする呼気がヨウの手の甲をくすぐった。

 今まで経験した中で最長の時間、それでも多分ほんの一分に満たない間、ナエはヨウの指を舐めていた。それが唯一の食事と定められているみたいな執着だった。

 ようやくヨウの人差し指を解放して、少女が大きく息を吐く。

 俯いたままで呟いた。

「ごめん洗ってきて」

 小声だった。

 照れたり後悔したりするくらいなら最初からやらなければいいのにと呆れてヨウは部屋を出て二階へ向かう。「朝食作るよ」と言い残した。

 ナエの部屋の水道を使わなかった理由の一つはそれだったし、もう一つはナエも自己嫌悪に身もだえする時間が必要だと思ったからだった。

 一人になって、ヨウは息を吐く。

 ぼくの話わかってくれた? ――わかるわけがない。

 少女の部屋の扉を背にして思う。

 悪夢を追い払う? そんなことが、出来る訳がない。

 そう思うのに、ヨウは思ったままを口にしてナエを傷つけることが怖かった。

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