もう一度あの笑顔を見るために ――光と風の黙示録 後日談――

砂海原裕津

もう一度あの笑顔を見るために ――光と風の黙示録 後日談――

若い女性の先生の後について教室に入ると、整然と席に着いていたクラスの生徒がにわかにざわついた。あたしは教壇に上がり、先生の隣に立たされる。

「今日はまず転入生を紹介します。さ、野村さん、自己紹介してください」

生徒の視線があたしに集中する。新しい仲間に対する興味と、習慣化した生活の破壊者に対する警戒心が、五十六の瞳に見え隠れする。

木目調の暖かなイメージの教室。窓の外は春の日差し。でも、教室の空気は冷たかった。それはおそらく、転入生のあたしのせいだと思う。もっとも今だけの現象だろうから気にはしない。

「野村さやかです。よろしくお願いします」

軽くお辞儀をする。先生が後を続ける。

「野村さんは小さいころから中東のサウジアラビアという国で暮らしていましたが、お父さんの仕事の都合で日本に戻ってきました。なにかとわからないこともあるでしょうから、みんなで野村さんを助けてあげてください」

はい……、と、弱々しい返事が返ってくる。返事をしていない子も数人いた。

「野村さん、あなたの席はいちばん後ろよ」

そう先生に言われて、あたしは指定された窓際の列のいちばん後ろの席に着いた。倉庫の奥から引っ張り出したような古い机にはきれいに雑巾がけされた跡があった。手さげ鞄からもらったばかりの教科書と昨日買ったノートを机の物入れに移し入れる。

あたしの前の席に女の子がいた。長い髪を頭の左右両側で結んでいる。その子が振り向いてあたしに笑顔を見せた。

「よろしくね」

その子は優しい声であたしにそう言ったので、よろしくと返した。少し安心する。この子はあたしと仲良くしてくれそうだ。

日本に慣れて、戦争を忘れる。あたしにはそれが必要だとパパは言った。それには周りに溶け込んで人間らしく生活することだ、とも言った。学校に行き、友達 とお喋りし、勉強して遊んで、普通に暮らすこと。そしてなにより、ロボットであることを知られないように気をつけなければならない。どんなことがあっても 人間でないことを明かさないように。目立たないようにすれば発覚する頻度も低くなる。だからあたしはおとなしく振る舞うようにしたのだった。


それは、小学校六年生の春のことだった。


☆ ☆


電車は減速して駅のホームにスムーズに入っていった。あたしは小さなバッグを手に取ってミルク色のドアの前に立った。電車は静かに止まり、ワンテンポおいてドアが開く。興奮する心を押さえつつ、あたしはホームに降り立った。

東京駅からの乗車券と特急券を改札口の駅員に渡し、コンコースを抜けて駅舎を出た。この町に降り立つのは中学校卒業以来、実に六年ぶりのことだ。あたしは今年二十歳になる。そして舞ちゃんも二十歳を迎える。今日は久々に彼女と会うためにやって来たのだ。

この駅の中の様子も、外の景色も、六年前とそれほど変化はなかった。小さな駅前ロータリーの中央の池、噴水。バス停に止まっている水色の路線バス。駅前派 出所の右隣にはパン屋さんがあって、学校帰りによく立ち寄った。今日は日曜日だから、夕方でも店の中に学生はいない。

舞ちゃんとは小学校の校庭、クスノキの下で待ち合わせている。小学校は駅から歩いて十五分程。約束の時間まではまだ間がある。登下校に行き来した道を思い出しながらゆっくりと歩いていく。

駅前通りの並木道を歩き、しばらくして商店街のアーケードの通りに入っていく。寂れた様子もなくたくさんの人で賑わっていた。ここも昔、よく歩いたもの だ。本屋さんを通り抜け、小物屋さんと洋服屋さんを覗くのが、下校の道草コースだった。気に入った服や小物なんかを見つけて、いいね欲しいねって言いつ つ、お小遣いが残り少ないからいつかきっと、って思いながら店を出る。それで十分だった、中学生の頃は。

長いアーケードを抜けるとゆるやかな上り坂が続く。幅の広い国道を越えてまたしばらく登ってゆくと、小学校が見えてくる。住宅街の一番高い場所にある学校からは、町の様子が一望できる。南側に面しているからいつも陽が当たっていた。

正門をくぐる。普段から門は閉められていない。入ってすぐにグラウンドが広がっている。そこでは今、少年サッカークラブが練習をしていた。元気のいい声が 校舎の壁に反響して、学校自身が声を発しているようにも聞こえた。もちろん、そんなことはないのだけれど。

校庭の奥には、大きなクスノキが生えている。太い幹が左右に広がって、そこの下だけが影になって暗い。でも涼しげな風が吹くと、さわさわと心地よい音がした。

昔、転入して間もないころ、あたしはこの木が気に入っていた。あれは、舞ちゃんに出会う前だ。


☆ ☆


最初に声をかけてきた女の子――名前を相沢麻記ちゃんと言った――が校内の案内をかって出てくれた。その日の給食後の昼休みに、図書館や特殊教室などを廻り、校庭に出た。そのコースの最後はクスノキだった。

「……すごい」

思わず言葉が漏れた。それほどクスノキは印象的な姿だった。下から見上げると、掌の半分程度の大きさの葉が深い緑色をして風に震えている。

「すごいって、何が?」

あたしの独り言を聞いていた麻記ちゃんが尋ねてくる。

「クスノキ。こんなに大きな木ははじめて見た……」

今までサウジアラビアの砂漠地帯に居住していたから、樹木自体見ることが少なかった。まして天を覆うほどの大きさの木はない。

いったい、何百年のときを過ごしたんだろう。両手一杯広げても抱えることは出来ない程太い幹は、想像できないくらいの年月を感じさせる。この日本がひどい戦争をしていたころも、もしかしたら髷を結っていた時代も見続けてきたのかもしれない。

「ねえ、教室に戻らない?」

麻記ちゃんがつまらなそうにあたしに言った。いけない、クスノキに見とれて彼女のことを忘れていた。

「うん、ごめんなさい」

謝ると麻記ちゃんは、いいよ別に、と微笑んでくれた。

「とにかく、もう昼休みも終わるから。行こう」

あたしは麻記ちゃんの後について歩きだした。お互い話さないまま校舎の玄関に向かう。

すると、視界の端に映ったものが気に止まった。校舎の陰に消えていった七人。あれは……、クラスの子ではなかっただろうか。今朝の風景をメモリーから引っ張りだして見比べる。確かに、そうだ。男子が六人と、あとは女子が一人。

何なんだろう、あれは。妙な取り合わせだ、男子六人と女子一人って。あまり普通とは思えない。柄の悪そうな男子が気の弱そうな女子を連れていった、そう見えた。

「どうしたの、野村さん。早くしなよ」

麻記ちゃんが急かす。あたしはこのことを彼女に尋ねてみようと思ったけれど、すぐにその考えを却下した。今日はじめて出会ったばかりでまだ親しいってわけじゃない。それに何となくそう思ったってだけで訊くのは気が引ける。多分、思い過ごしだろう。

気にはなりながらも、あたしは玄関のドアを開けた。


☆ ☆


七年前、大地震がこの町を襲ったときもクスノキは耐えた。校舎にぶつかりそうな枝を少しだけ伐っているけれど、クスノキはあのころのままの姿でそこにいた。

側に寄る。あのころの記憶は断片的にしか残っていない。でもクスノキの大きさに圧倒されたことはまだ覚えている。

手を広げて幹に抱きつく。幹の太さは小学生が四人で囲んでも手が届かないくらいある。当然、あたしの手のリーチでは抱えることは出来なかった。

振り返って幹にもたれる。少年サッカーはそろそろ練習が終わるようだ。コートの端に集まってミーティングをしている。

太陽は随分西に傾いた。舞ちゃんとの待ち合わせは午後五時半にクスノキの下となっている。彼女は看護婦になるために町内の総合病院で勤務しながら勉強をしている。今日は勤務を早々にきりあげて駆けつけてくれるということだった。

手紙に同封されていた写真で今の彼女の顔は知っている。けれど、それだけでは今の彼女を知ることは出来ない。中学のころからどれだけ変わったか。その変化を見るのが実は今日の一番の関心事だった。

ありがとうございました……、と、少年サッカーの子供たちの声が校庭にこだました。同時に、優しげな音色のチャイムが聞こえてくる。町の中の公園や学校な どあちこちに設置されてあるスピーカーから流れてくる。『峠の我が家』。メロディーも昔のままだ、懐かしい。

このチャイムは五時の時報。あと三十分すれば舞ちゃんに会える。


☆ ☆


『いじめ』という言葉をはじめて知ったのは、転入した日から三日後のこと。新聞の教育面を読んでいて、いじめがもう三十数年も継続して問題にされていることを知ったのだ。

そして、あたしのいるクラスにもいじめが存在していたことに気がついた。

あの日、校舎の陰に連れていかれた女の子――後で国見舞という名前だと知った――は六人の男子にいじめられていたらしい。給食室の裏に積まれてある廃油の入った缶の山に突き飛ばされ、廃油まみれになったそうだ。

その日の午後に先生がこの事件についてその原因を男子六人と関係者に尋問していたけれど、ふざけていて足がもつれたため、と全員が答えた。でもおとなしそ うな国見さんが足がもつれるほど激しくはしゃぐなんて思えない。このいじめはクラス全員が公認の状態で行われていたのだ。

あたしは二週間の間に実に五回もいじめの光景を目撃してしまった。おそらくそれも氷山の一角ではないかと思うんだけど、国見さんは誰にも訴えることなく じっと耐えていた。どうして我慢できるんだろう。あたしにはわからない。こんな理不尽な行為は絶対に許せないと思う。

放課後、あたしはまたもいじめの現場に遭遇した。体育館の裏手に例によって男子六人が国見さんを囲んでいた。良く見るとそいつらに紙幣を渡している。

お金まで要求するなんて悪質の極みもいいところだ。今日こそは止めに入ろう。あたしは男子らの側に寄って言い放った。

「いいかげんにしなさいよ、あなたたち。国見さんにお金を返しなさい」

鋭い目が一斉にあたしに向けられる。

「なんだ、お前。転校生には関係ないだろ」

「いじめを見て見ぬふりはもう出来ないわ。とにかくお金を返しなさいよ」

強気に言い寄ると、男子の中の一人が前に出てきた。

「言葉に気をつけろよ。次はお前だって事もあるんだ」

それだけ言って、国見さんを連れていこうとする。あたしは回り込んで行く手を遮った。

「邪魔するな、莫迦」

男子はあたしの肩をドンと押してくる。ムッときたあたしは、仕返しに同じように男子を押そうと手を出した。

と、あ、マズい! 押し出した手のパワーが普段より五倍程強い。まだうまい具合にパワーの調整が出来てないのだ。慌てて手を引こうと思ったけれど遅かった。

男子の胸にあたしの手が当たる、と、男子は三メートル程後ろに飛ばされていった。

シン、と静まり返る。男子も国見さんも起こったことが信じられないように目を見開いている。

しばらくして飛ばされた男子が起き上がった。どうやら怪我はしてないようだ。よかった。

「さあ、お金を返しなさい」

あたしは飛ばされた彼にさらに詰め寄った。が、彼は(少しあたしのパワーに恐れを抱いているみたいだけれど)従おうとしなかった。

「莫迦か、お前。返せなんて言われてあっさり返す奴がいるか。それより、覚えてろよ。あしたからお前もターゲットだからな」

そう言うと六人は走って逃げていった。

五時のチャイムが鳴り響く。あたしは国見さんに謝った。

「ごめんなさい、取り返せると思ったんだけど」

ところが国見さんはビクッと体を震わせると、何も言わないで走り去ってしまった。

少し拍子抜けしてしまう。せっかく助けてあげようと思ったのに、あの態度は何なのだろう。あたしのパワーのせいだろうか。それとももともとそんな性格だから? いずれにせよ、なんだか損した気分だ。

ちょっとため息をついて、あたしは帰ることにした。


翌日からあたしに対するいじめが繰り広げられることになるとは、そのとき思ってなかった。あのときのあたしはあまりに安易な行動を取ったのだ。いじめを甘く見すぎていた。それは後日わかることだ。


☆ ☆


辺りはすっかり紅く染まってしまった。サッカー少年たちも帰ってしまい、グラウンドは寂しくなった。土曜日とはいえ、こんなに子供がいないものなのかな。昔はもっと遊んでいる子がいたような気がするけれど。

あと十五分か……。少し退屈してきた。早く来すぎちゃったな。でも乗ってきた特急列車が約束の時間に間に合う唯一のものだったのだからしょうがない。待ち合わせ場所を別のところにすべきだっただろうか。

少し涼しい風が流れる。クスノキの葉がサワサワと揺れる。そのとき、その風に乗って泣き声が耳に入ってきた。

どこだろう。周りを見渡す。風は体育館の方向からだ。するとあっちから聞こえてきたのだろうか。

あたしは体育館のほうへ歩いていった。泣き声は次第に大きくなっていく。

裏手に回る。すると体育館の壁のちょうど真ん中辺りに四人の子供の姿を見つけた。泣いている子は三人に囲まれている。

さて、どうしたもんだろうか。いじめの現場だと推測するけれど、何が行われているのか良く見えない。ヘタに声はかけられない。昔それで失敗したことを思い出す。

ともかく、近寄ってみる。いじめでなければ別に問題はなし、そうであれば注意すればいいのだから。もちろん、逆効果にならないよう気をつけながら。

「どうしたの? どうして泣いているの?」

きわめて優しく、いじめだという疑惑の念を捨てて尋ねる。囲んでいた三人があたしに目を向けた。

「関係ないだろ、どっか行けよ」

「だって、その子泣いているんでしょ? どこか怪我でもしたの?」

「いいから行けよ、邪魔だから」

怪しい。やっぱりいじめていたんだわ。

「どうして邪魔なの? あなたたち、その子をいじめていたんじゃないの?」

「うるさいな、そんなことお前に関係あるのかよ」

「いじめの現場を目撃して無視できる程、あたしは冷たくないから。さあ、どうしてこの子が泣いているのか、説明してもらいましょうか?」

あたしがこんな風に強気な態度をとると、加害者側の三人はつまらなそうな表情になった。あん? 不思議な反応を示すのね。

「おい、行こうぜ」

と、リーダーっぽい子が二人に言って立ち去ろうとする。ああ、ちょっと待ってよ、まだ話は終わってないわよ!

呼び止めようとすると、背後から大きな声が襲ってきた。しかも懐かしい声が。

「慎太郎くん! あなたこの前の約束はどうなったの!?」

舞ちゃんだ。振り向くと彼女が怒っている様子で歩み寄ってくる。

「ヤバ、あいつだ。逃げるぞ」

彼女の姿を見つけるや否や、男の子三人は一目散に逃げていった。

「まったく、あの子は何度注意してもああなんだから。もう一度言って聞かせなくちゃ」

ため息を一つついて、今度は泣いていた子の前にしゃがみこんだ。

「朗くん。また泣かされてたの? 言ってるじゃない、少しは言い返しなさいって。反抗する気持ちがなければいつまでも同じことが続くのよ、わかるでしょ?」

泣いていた子――朗くんは弱々しく頷いた。

「さ、もうお家に帰って。そして、今日のことは必ずお母さんに言うのよ。また明日にでも私からお電話するからね。それがあなたにとっていいことだから」

朗くんの肩を軽く押して送りだす。彼は涙をぬぐってとぼとぼと歩きだした。

その姿が角を曲がって消えたのを確認して、舞ちゃんはあたしに向き直って、にっこりと笑った。

「お待たせ、さやか」


☆ ☆


みんなの態度の豹変ぶりは驚きを通り越して感心してしまった。前日まで優しくしてくれていた麻記ちゃんも翌日から一言も口をきいてくれない。

おかしい話だ。こんなことをして何のメリットがあるのだろう。誰が喜ぶわけじゃない、哀しみと憎しみしか生まれ出ないのに。

毎日嫌がらせが続いた。本当にばかばかしい嫌がらせばかりで、あたしは無視することにした。けれど、彼らにしてみればあたしのリアクションを楽しむことが目的なのだから、あたしが無視すれば無視するほど、嫌がらせは激しくなってゆく。

あれから三日目、その日もピリピリと変な緊張を続けたまま午前中の授業が終わり、昼休み、あたしは国見さんにこっそりと呼び出しをうけた。誰も多分気づいてないと思う。

「あの……、図書館の奥に来て欲しいの……」

すれ違い様に呟くように彼女は言った。普通の人だったら聞き取れないほどの小ささで。機械の耳だからこそあたしには聞こえたのだ。

給食を食べ終わって、あたしが教室を出ようとすると、出口を三日前に国見さんをいじめていた男子六人が塞いでいた。

「……、通りたいんだけど」

こう言っても聞いてくれない。にやにやと厭らしく笑っている。これはどうあっても通してくれない嫌がらせなんだわ。

「通してよ」

「どこに行くんだ?」

六人の中の一人――この前押し倒した子、名前を宗像くんと言った――が聞き返す。

「関係ないでしょ、あなたには」

「お祈りでもしにいくのか?」

クスクスと教室中から笑い声が聞こえてくる。

「ここでやってみせろよ。床に額を擦りつけてさ」

イスラム教の礼拝のシーンを何かのテレビ番組で見たんだろう。サウジアラビアはイスラム教徒の国、あたしも教徒に見えたのか。いや、そんなことは関係なく言ってるんだろうな。まったく、くだらない。

「あたしはイスラム教徒じゃないわ。そんなことしないわよ。いいから通してよ、急いでるんだから」

「通ってみろよ」

宗像くんが不敵に笑いながら言う。無防備に手をポケットに突っ込み、入り口から一歩あたしに近寄る。まるで力ずくで押し退けろと言わんばかりに。

「ほら、通ってみな」

三日前だ。あのとき、あたしが誤って強い力で彼を押し倒した。あれをまたやらせようとしてるんだ。でも何故? そうするメリットはどこにあるんだろう。

押し倒す。それも力一杯。周りはどう反応するだろう。怖い、あんなに恐ろしい力を持っている。まあ、それでロボットだとはわからないだろうけれど、むしろ暴力を振るうことに対する恐怖が生まれる。

その後。この事件で誰が悪いかを先生が判断する。ただ行く手を阻んでいただけの彼らと暴力を振るって強行突破したあたし。どう見てもあたしが不利だ。そうしてあたしは先生に悪いレッテルを張られ、いじめに対して誰からも保護されなくなる。

多分、これだ。八十パーセントは間違ってないだろう。としたら、ここであたしが手を出すのは墓穴を掘ることになる。

「もういいわ、通してくれなくて」

ヘタに騒いだりせず、あっさりと諦めることにする。そのほうが相手はシラケてしまってこの場は納まる。これで自分たちのしていることが馬鹿馬鹿しいことだって気づいてくれるといいんだけど。そんなことにはならないか。

でも、国見さんには悪いことをしたな……。

とおせんぼされたのはやっぱり悔しい。国見さんがこれであたしのことを信用してくれなかったらと思うと本当に悔しい。

席に戻る。こうなってはどうしようもない。もっと目立たないようにしなければいけないんだし、いじめを甘んじてうけるしかない。いつまで我慢が持つかは保証できないけど。

だってどう考えたって理不尽だ。いじめられている子を助けることが悪だというの? それはおかしい。みんなと強調して一人の子をいじめなければならないの? そんなことは決してないはずだ。なのに、あたしは国見さんを助けたことで報復を受けている。

クスクスと息を殺した笑い声が聞こえてくる。あたしの前の席、麻記ちゃんと数人の女子がひそひそと話しては笑っている。と、一瞬、麻記ちゃんがあたしに視線を送った。

いや……、あれは本当に麻記ちゃんの目なの? 冷たく軽蔑するような厭らしい……、三日前の彼女とは別人のように見える。この三日間、まともに会話してなかった。それはこの瞳のせいなの? なんて、ひどい。

見たくない。あたしは机に顔を伏せた。


☆ ☆


「私、今、『たんぽぽの会』という団体に参加しているの。いじめられている子供やその親御さんからの相談に応じたり、いじめ側の子供に言い聞かせたりして、いじめを陰湿化させないようにしているの」

「陰湿化させない?」

小学校を出て、舞ちゃんの自宅に向かう。今日は舞ちゃんちに泊めてもらうことになってるのだ。辺りは大分暗くなり、街灯が道を照らし始めている。

「そう、いじめって昔からあるんだけど、今のそれとは性質が違っているわ。つまり、昔はいじめっ子もいじめられっ子も友人関係の範囲内だったのよ。おじい さんとかに話を聞いてみると、いじめられたからってその人を恨んでないって言うの。それどころか今は友人として付き合っているらしいわ。それを聞いて、な ぜ今とこんなに違うんだろうって考えたの」

「それが陰湿化ってわけね」

「うん。いろいろ原因はあると思うけど、まとめればお付き合いが薄くなったことと憎しみの欲求不満から来ていると思うの。知ってのとおり、今核家族などで 一世帯辺りの人口が減っているわ。それに親と別居することでもご老人の二人あるいは一人の世帯も増えている。これは一世帯がお付き合いできる範囲を狭めて いるの。たとえば、遠くに出勤しているお父さんと、パート勤めのお母さん、子供は一人っ子でほとんどの日が塾通い。この状態だと、たしかに人と接すること は多いけれど、それは単なるすれ違いの関係で、深い交遊はない。それが問題なの。お父さんもお母さんも子どもに対して人との接し方を見せる機会がないも の。子どもは人との接し方がわからないから、自分なりに工夫するわ。でも、子どもはまだ他人の気持ちが完全にはわからないの。だから、自己の満足と安全を 図るために周りを排除しようとする。だからってすべてを排除は出来ないわ。やがて居心地のいいグループに加入することになる。その排除する方向はグループ のタイプにそぐわない人物――つまりいつも独りぼっちでどのグループにも入ってない子どもに絞られるの。いじめはこうして始まるのよ」

「憎しみの欲求不満っていうのは?」

「今の子どもは感情を表に出すことも両親から見せてもらってないわ。子どもの前では決して怒りを露にしないお互い中途半端な関係のままであやふやに毎日を 過ごしているだけ。そういうのを見ているから、いろんな感情の出し方がわからなくて蓄積されていくの。喜びや楽しさなどは蓄積されても不満にはならない。 もちろん後で無感動な子になっちゃうけどね。でも、怒りや憎しみは蓄積するとストレスになるわ。本来怒ることで発散されているのに怒り方がわからない。だ から、本能的にいじめを始めるの。一種の適応機制なのよ。いじめれば優越感を味わえるし、暴力を振るえば体力的にも発散されるわ」

すごい。感心してしまった。これが昔いじめられていつも怯えててあたしの陰に隠れつづけていた子なのか。会っていないわずか六年の間に舞ちゃんはずいぶん変わっていた。

「……どうしたの、さやか」

「えっ? なにが」

「ぼおっとしてたみたいだったから」

「うん……、舞ちゃん、変わったなって思ってて」

「そう、かな」

明るい街灯に照らしだされる舞ちゃんの姿。六年前から背丈も体格も変わってはいない。でも、瞳はしっかりと前を見据え、堂々と胸を張って歩いている、そんな感じがする。

「舞ちゃん、頑張ってるんだ」

「うん。最近ちょっと疲れが来てるけどね。でも好きでやってることだから楽しいよ」

「そっか……。よかった」

角を曲がる。もうすぐ舞ちゃんちだ。懐かしい風景が広がる。

「今度はさやかのこと、聞かせてね。そのために明日、有給取ったんだから。一晩中、ね」

よかった。舞ちゃんがこんなに元気で。舞ちゃんがこんなにいい笑顔をしていて。そして、舞ちゃんと親友になれて。

もう、何度も訪れたことのある舞ちゃんの家。あたしは再び、やってきた。


☆ ☆


再び、国見さんから呼び出される。どうやら約束を守れなかったことは怒っていないようだ。今度は放課後、同じく図書室で。

今日の『帰りの会』は、うまい具合に算数ドリルの日だった。課題を早く終えた者から帰っていいことになっている。あたしはいちばんに終えて、いじめっこたちの妨害を受けることなく図書室に行くことが出来た。

待つこと十五分。国見さんがやってきた。どうやら走ってきたらしく、ハアハアと息が上がっている。その息を整えて、おもむろに頭を下げた。

「ごめんなさい!」

「え……、あの……?」

混乱する。何か、あたしに謝るようなことをしたんだろうか。記憶にないことを謝られても困ってしまう。

「ごめんなさい、ごめんね。わたしのせいで……」

「あの、国見さん? なんで謝ってるのかわからないんだけど……」

「ごめんね、ごめん、ごめんなさい」

あたしの声が聞こえないのか、何の説明もなくひたすら謝りつづける。しかも、やや涙声で。これじゃああたしがいじめてるみたいじゃない。

あたしは頭を下げつづける彼女の肩を掴んで無理やり上げさせた。

「待って。どうして謝ってるのか、説明してよ。そんなに泣きながら謝り続けてたら、あたしに非があるみたいに見られるわ」

目の端に涙を溜めている彼女。謝っている態度は真剣そのものだった。悪い子じゃない、それは確信できた。

「……わたしを庇ったりしたせいで、今度は野村さんがいじめられているから……」

「う、ん……。別にあなたを庇ったからだとは思ってないわ。いじめられていたのが誰であっても庇ってたと思……」

「そうだとしても」

と、あたしの言葉を遮って国見さんは言った。

「今はわたしのせいだもの。わたしがもっと強かったら野村さんに迷惑なんてかけなかったのに……」

そう言って、またごめんなさい、と頭を下げた。

……この子でよかった。ふと、そう思った。ただあたしの感情に従うままに庇ったってのに、国見さんはこんなにまで想ってくれている。ほんとうに、優しい子なんだわ、心の底から。そんな子を庇ったことに対して、安堵感を覚えた。

「もう頭を上げて、国見さん。あなたが謝ることじゃない。あなたがいじめっこ側にいないだけで十分よ。ね、だから、もう謝らないで。あたしはあんないじめっこたちに負けたりしないから」

国見さんはようやく謝るのを止めた。そして、顔を上げて、涙目のまま微笑んだ。その笑顔に、一瞬どきっとする。なんだろう、この感情は。不思議な、いや変な反応。こんなのははじめてだ。

きっと、この子とは長く付き合うことになるんだ。なんとなく、そう感じた。それはさっきの変な反応とつながりがあるんだろうけれど、深く追求しないことにする。いつか、わかることだろう。そんな気がする。

「ね、国見さん。自己紹介させて。あたし、野村さやか。よろしくね」

ちょっと不思議そうな顔をした国見さんは、涙をぬぐって右手を差し出した。

「わたしは、国見舞。ありがとう、よろしく」


握手をして、舞ちゃんは最良の笑顔をあたしに見せてくれた。それは今までで――二十歳になる八年間で最高の笑顔だった。

そして、もう一度あの笑顔を見るために、あたしは舞ちゃんとずっと友達でいようと、このとき、決心したのだ。


「さあ、さやか。おかえりなさい」

舞ちゃんちの玄関を開けて、舞ちゃんはそう言ってあたしを迎えてくれた。おかえりなさい。もう一度あの笑顔を見るために、あたしは舞ちゃんのもとへ帰ってくるんだ。きっと、これからずっと。

「ありがとう。ただいま」

もう一度あの笑顔を見るために。きっと、これからずっと。

               <了>

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