青い海亀

につき

青い海亀

「…………。」

男は、今日も何も言わずに海へ漁に出て行った。男には妻がいる。もう何年も口をきいていない。潮風に混ざって野焼きの焦げた臭いが漂ってくる。男の妻は、おたき、という名だった。

 いつしか、その事は村でも皆が知っていた。話さない夫婦。不義があったそうな。いやらしい女……。つきあいも、あまりなくなり夫婦は孤立しがちだった。

「行ってらっしゃい……。」

おたきは、いつも出ていく夫に話しかける。その時だけではない。

さきほども、まだ暗い朝のうちに、

「おはよう。今日もたくさん魚とれるように。」

返事のない男に向かって、半ば独り言のように言った。

昨日も、昼になっても雨が強く降っていて、男は漁に出れなかった。

「海も休まねばな。あんたも骨休み。」

おたきは、出来るだけ話しかけている。いくら話しかけても、返事はないが、おたきは、つれない返事でもいいから、いつかはきっと返事をしてくれると、祈るように毎日過ごしていた。

 ある日、男が海から丸いものを持って帰って来た。それは、手毬ほどの大きさの青い海亀だった。おたきは、不思議に思った。小さいが海亀なら、それなりに高く売れる。以前に男が大きな海亀を捕って来たときには、

「ほっほう。これは、これは。精が付くわい。」

そう言って、やけに笑い顔が厭らしいあいつ<網元の若旦那>がひったくるように買っていった。今度も、きっとあいつが買いに来るだろう。そう思うと、おたきは我知らず身を固くした――――。


 あれは、3年前のことだ。おたきは、そのことを、一日として忘れたことはない。男もそうなのだろうか、いや、きっとそうなのだ。

 あのころ、まだ男と所帯をもったばかりだった。2人は若かった。おたきは、潮に灼けて黒く光った精悍な男に惹かれた。男もまた、漁師の師匠の娘であったおたきに、いつしか惚れていた。おたきの父親が亡くなり、身寄りの無くなったおたきと、男は自然に所帯を持った。男は言葉少なではあったが、そのころは確かに、まだお互いにたどたどしいながら、しかし、素直であるだけに一層燃えるような熱い言葉があった。2人は、磯近くの崖の下の窪みで身を寄せ合った。ある時は、魚臭い網の影で隠れるように口づけを交わした。時には、夜の砂浜で火を焚いて、その前で炎に照らされたまま抱き合った。燕の雛のように、心の底まで真っ赤に見せ合っていた。男とおたきは影まで離れないようだと、村人も噂した。男は、一層漁に精を出した。毎日が眩しいほどに輝いていた。おたきと男は、確かに幸せだった。

 春になっていた。木枯らしもすっかり去り、なんとなしに体がむずむずしてくるような、昼さがりだった。男は漁に出ていたし、おたきは晩飯の支度には少し間があった。その隙間をついて不意に、あいつ<網本の若旦那>が訪ねてきたのだった。おたきは、世間知らずだったし、あいつは、昔からの顔見知りでもあった。始めのうちは、狭い家の天井など見まわして、何やら落ち着かないように、どうでもいい話ばかりしていた。そして、そうだ。あのとき、おたきは隙を見せてしまった。忘れもしない。茶を入れ替えようと、背を向けた時だ。あいつは後ろから急に、猛々しく襲い掛かってきた……。

 抗っても、あいつは慣れているように、あしらった。事が終わり、荒い息のままで、あいつは、

「いいか、お前が誘ったのだ。だから、誰にもいうなよ。こんな狭い村では、不義した女など生きていけないぞ。」

そんなことを言った。おたきは、放心のまま乱れた着物を直す気にもならず、乾いた目を開いたままで、ただ涙だけが止まらなかった。

 黄昏のころに帰って来た男は、おたきの身に起きたことを知って激高した。

「殺してやる。」

男は、強く美しいその眼に、ありありと殺意を漲らせ、地獄に向かうかのように静かにゆっくりと、しかし、みしみしと強く、鮫突きに使う銛を握りしめた。そして、真四角に背中を怒らせて、強く足を踏みしめて出て行った。

 おたきは、朝までまんじりともせずに、戸口にもたれて座っていた。掻き乱れる気持ちのままに、海鳴りを聞いていた。そうして、もうすぐ夜明けのころになって、ようやく男は帰って来た。ずぶ濡れで、がっくりと俯いて、覚束ない足で帰って来た。その手には何も持っていなかった。

「…………。」

男は、それから何も言わなくなった。男とあいつの間に何があったのかは分からなかったけれど、男はひどく傷ついたのだと思った。おたきの胸に鋭い痛みが残った――――。


 男はその海亀を、どこからか買って来た大きな甕に入れて飼いだした。男は毎日海亀の世話をした。漁へ行く前には、甕に新鮮な海の水を満たしてやった。漁から帰れば、魚の切り身を海亀に与えた。やがて、男の気持ちが通じたのか、海亀は男の足音がするだけで、甕の上に顔をのぞかせるようになった。海亀は、少し大きくなった。おたきも、いつしかその黒い濡れた瞳が可愛らしく思えてきた。おたきは、男が漁に行っている間、海亀にいつも話しかけるようになっていた。

「お前に親はいるのかい。海に帰りたくないかい。でも、辛抱しておくれ。あの人には、お前しかいないみたいだ。私なんか……。」

「今日は、風が強いよ。少し波が高いね……。これくらい、大丈夫だと思いけどさ。」

海亀は、黙ってじっと、おたきの眼を見つめてくれる。その瞳を見ているだけで、いつも胸の中に吹いている乾いた風のようなものが、つかの間止んで、少し暖かくなるように思えるのだった。


 ようやく嵐は止みかけていたが、まだ海に白い牙のような荒い波が高かった。おたきと男の住む小さな漁村の誰もが、漁を休んでいた。曇天にまだ風は強く、砂除けの松はびょうびょうとなっていた。おたきは、その時、雑穀を炊いていた。男は、海亀の甕のそばで漁具の手入れをしていた。

どんどんどん、戸板が風に鳴った。男は放っておいた。

どんどんどん。また、戸板が鳴った。

「おーい。おるんじゃろっ。」

誰かの声が、ごうごうと鳴る風の音の中で、聞こえた。

がたがたと、男が戸板を開けると、あいつが風に髪を乱されながら立っていた。

「海亀っ、おるんじゃろっ、それっ、売ってくれやっ。」

あいつは、泣いてるのか笑ってるのか分からん顔で、海亀を売れと言った。男は断った。しかし、あいつは執拗だった。おたきは、雑穀の鍋が吹きこぼれているのも分からず、あいつを睨みつけた。それを見たあいつは、にやりと、笑った。

「…………!」

男は、黙ったまま、あいつの胸を突き飛ばした。

「なにするっ!」

小屋の内には怒号が満ちた。男たちと、建物と、どちらかが壊れてしまうのではないかと思うほどにそれは激しかった。

「あんた!」

そのとき、ひと塊となった男たちが倒れ込み、強くぶつかって海亀の甕が倒れて割れてしまった。男は、そのときに体のどこかを強く打ったらしく、体を曲げてもがいている。

「ん。」

あいつは、土間に這いつくばりながら、目ざとく海亀を見つけた。

「ふんっ、もろうていくわっ。」

そう言い捨てて、あいつが小屋をがたがたと飛び出そうとしたとき、

「痛っ、こいつめっ噛みよった!」

海亀がその鋭い嘴で、がっきと、あいつの手を噛んだ。あいつは噛まれたままの血まみれの手を、激しく振り回した。

「こいつめっ、こいつめっ、死ね、死んでしまえ!」

そうしてあいつは、小屋の外にあった、おたきがいつも小魚などを捌いている俎板代わりの平らな大きな石に、海亀の頭や甲羅を何度も何度も打ち付けた。

「……くそっ。」

やがて、動かなくなった海亀の嘴から手を外したあいつは、黒い憎悪に顔を歪めながら、ふらふらと帰っていった。海亀の頭は砕け、甲羅は無残に割れていた。血まみれになった石の上やその周りには、海亀の肉と内臓の一部が飛び散っていた。

「う、う、う……。」

おたきは、不意に込み上げてきた悲しみに、その場に泣き崩れた。今まで堪えてきた思いに、胸が突き刺されたように痛んで、あふれ出る涙をどうしようもなかった。

 男は、あいつが海亀をたたき殺すのを、小屋の戸の縁に掴まって、ざんばらの髪をして、荒い息を堪えて、じっと黙って見ていた。


 いつしか、風は収まっていて、海は静かになろうとしていた。おたきは、しばらく泣いた後の海を見ていた。男もだらんとした海亀の死骸を抱き上げたまま海を見ていた。空と海の間は判然としない。肌寒い潮風は、涙に濡れたおたきの頬に冷たかった。おたきには海鳥が見えていた。海鳥は空を飛んでいるのか、海を飛ぶように泳いでいるのか、どちらでもいいとおたきは思った。その時、砂浜に座り込んでいたおたきの左の肩に懐かしい重さのある温かさが触れた。男は海亀の死骸を抱えたまま何も言わずにおたきを上から見つめた。その眼は深い海のように優しく強かった。そしておたきの肩に置いた掌に力を込めて、しかしやさしく華奢な肩を掴んだ。

 2人は海亀の死骸を乗せて漁船を出した。男は遠くまで漕いだ。おたきもずっと黙っていた。やがて夜になって天に星が満ちた。海は鏡のように凪いでいて船舷をぴちゃぴちゃ叩く小さな波の音だけが聞こえた。おたきは船首に座っていた。男は船尾に立っていた。2人のあいだには海亀の死骸が黒く沈むようにあった。2人はその黒い塊を長い間見つめていた。星と海と2人と死んだ小さな海亀だけが静かな世界に唯存在していた。夜は静かに更けていた。おたきは海亀の死骸をただ見つめていた。男は降るような星空を見上げた。流星が一つ落ちた。また一つそして遂にふたすじの星が揃って落ちた時に男は呟くように言った。

「……こいつを見つけた時に分かったんじゃ……。甲羅ん中に、儂の言いたいことが全部つまっとる……。大事にしてやろうと思うた。……いつか、一言でも話するような気ぃがしとった……。」

おたきは黙って聞いていた。少し大きな波が二人の乗る小舟をじゃぶんと、揺らした。おたきは左手の指の先で黒く沈んだ海亀にそっと触れた。

「可愛かったんよ……。私も。」

「おたき……。」

男が船縁を握るおたきの右手を手探りしながら握った。ほっとする温かさがある。おたきが見上げると、そこにはまるで星のような光を湛えた瞳で静かに見つめる男の顔があった。

「すまんかった……。儂には……出来んかった。今も思い出すと憎くて憎くて胸ん中に火が燃えとるようじゃけど。けどもどんなやってもなんも変わらん気がしたんじゃ……。」

おたきは、あの時本当はどう思っていただろうか。誰を殺してほしかったのか。あいつか。自分自身か。その時、はっと、おたきは思った。青い海亀が自分たちの業を背負って代わりに死んだのだと。

「あんた……、あの時から、私……」

おたきは男の手を両手で握り返した。自分自身の業が許せなかった。どこかで自分を憐れんでばかりいなかったか。男のことを本当に考えたことがあったか。

「言わんでええ。……その先、言わんでくれ。」

男は泣くような顔をしていた。その瞳は優しくなにかを得たのか失ったのかどこか突き抜けた悲しみを湛えていた。

 そのとき海の上を渡って爽やかで暖かな夜風がすーっと吹いていった。夜風はおたきと男の周りを、まるで纏わりつくように包んで吹き抜けた。

 二人はしばらくお互いをただ見つめ合った。視線を少しでも外せば暗い闇の中に自分も相手も溶け込んでしまいそうな気がした――――。

「……。」

そうして、おたきの眼から悲しみの融けた涙が流れた。その涙は、おたきの心にあった裂け目を満たしていった。生き死には浜の真砂のように尽きないけれど、どの命も誰かの心の中で強く鋭く輝いているだろう。私の命も、割れてしまった過去も、死んでしまった海亀も、どうしようもなく悲しいけれど、それでも。

「おたき。……許せんでもええ。ええから、そのままで生きて行こうや。そうやって、みな昔からやってきたのかも知れんわ……。」

おたきは涙を拭おうともせずに、すっと見上げた。

「あんた……。」

二人は海亀の死骸を共に抱き上げた。

――――どぶん。

二人は海亀を船縁から夜の海へと還した。海亀のあげた飛沫が二人の顔を濡らした。海亀は、ゆっくりと揺れながら暗い海をどこまでも沈んでいく。二人は、いつまでもそれが見えるかのように見つめていた。


 おたきは思った。果てしない海の底には闇へ続く洞窟がある。きっと青い海亀はその洞窟を抜けて海亀の墓場へ行くのだろうと。そこには青い蒼い甲羅ばかりが重なっていて、とても綺麗な美しい死に場所が広がっている。決して人の入り込むことのない秘密の輝きがそこには満ちている。私たちもまた心の中にそんな墓場を守っている。見送った人や埋めた思いたちの眠る青い墓場を守っている。いつか誰しもが眠るその死に場所で海亀と男とおたきは眠るだろう。その日まで二人寄り添って、ひたすらに日々を生きて行こう。あの青い海亀のように。寡黙に、しかし美しく生き生きと生きて行こうと。

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