偽霊能者に馬糞を食わせろ!── 井上円了 『おばけの正体』

山本弘

第1話

井上円了

『おばけの正体』

国書刊行会 1987年

1800円


 井上円了(一八五八-一九一九)は仏教哲学者で教育家。京都の慈光寺に生まれ、東京大学で哲学を学んだ。一八八七年に哲学館(のちの東洋大学)を、一八九九年に京北中学校(のちの京北学園)を創立するなど、教育に力を入れた。

 一九〇四年より東京都中野区に、哲学思想を表現した哲学堂公園を建設している。『妖魔夜行』シリーズ(角川スニーカー文庫)を書いていた頃に僕も訪れたことがあるが、なかなかユニークな場所で面白かった。

 彼はまた、『妖怪学講義』などの著書があり、「妖怪博士」として有名だった。もっとも、当時の「妖怪」という言葉は今とは違い、化け物だけではなく、超常現象全般を指していた。

 円了の思想は、宇宙は「真怪」すなわち「超理的妖怪」だというもの。これは不可思議や不可知の異名であり、天地のすべては一滴の水にいたるまでみんな神秘的な超常現象なのだという。その他にも、火の玉のような物理現象、狐憑きのような心理現象を、円了は「仮怪」と呼んでいた。

 実際に存在する現象の他に、虚怪、すなわち本当は存在しなかった超常現象がある。それはさらに誤怪(誤認によって生じた現象)と偽怪(人間によって創られた偽の現象)に大別される。

 民間に信仰されている宗教の多くは迷信、すなわち誤怪や偽怪であり、正しい信仰を守るためには迷信を打破しなくてはならない、と円了は説いた。そこで彼は、誤怪や偽怪を暴く活動に精を出した。

 本書『おばけの正体』は、明治三一年に出版された『妖怪百談』に大幅に追記し、大正三年に新版として出版されたもの。僕が持っているのは一九八七年に国書刊行会から復刻された版である。ここには、円了自身が見聞したり、知り合いから聞いたり、新聞などから収集した、超常現象のように見えてそうではなかったという事例が多数集められている。いわば明治大正時代のデバンキング本なのである。

 まずは誤怪の例から。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というやつで、夜中に幽霊や人魂と遭遇したと錯覚したという話が多い。当時は今と違って町に明かりが少なかったから、夜道は暗く、本物の人間や木などが幽霊と誤認される例が多かったようだ。墓場に女の幽霊が出るというので調べてみたら近くに住む男性の家に通っている女性だったとか、夜道に大きな怪物が立ちふさがっていたがよく見たら松の大木を載せた大八車だったとか、白いものが近づいてきたので刀で斬りつけたら風で転がってきた提灯だったとか、畑のそばに人の形をしたものが立っていたので恐ろしくなったが昼間見たら大根が干してあっただけだったとか……他にも、火の玉のように見えたものがガラス戸に反射した灯火だったとか、夜中に山の中に鬼火が見えたので行ってみたら乞食の老人が焚き火をしていたとか、誰もいない部屋からキーキーと音がするので調べてみたらネズミが糸車で遊んでいたとか、全般的に脱力系の話が多い。

 いくつか変わった例を。

 神奈川県の秦野地方で、墓場の近くにある古い木から、経を読む声が聞こえてきた。ちょうどお盆だったので人が集まり、店なども出るほどの人気になった。盆が終わってから世話人たちが相談して切り倒してみると、切り口から血が流れ出た。木の中からは、切断された蛇と、熊蜂の大きな巣が出てきた。血は蛇のもの、読経の声は蜂の羽音だったのだ。

 南千住の寺の境内で、快晴なのに木から雨のしずくがぽつりぽつりと落ちてくることに、近所の人が気づいた。ここは昔、刑場だったことから、首をはねられた囚人が地獄で泣いているのだと評判になった。実は近くを鉄道が通っており、汽車の発する蒸気が木の葉に当たって凝結し、しずくとなって降っていたのだ。

 群馬県の小学校で、開いたまま運動場に置いてあった傘が、風もないのにころころと転がっていた。生徒たちも教員も、化け物のしわざと思って恐れ、近寄ろうとしない。校長が近寄って傘の裏を覗きこむと、蛇が傘の骨の間に入りこんで動いていた。

 越後の田舎に妖怪屋敷があった。この屋敷の裏から、毎夜、拍子木を打つ音がすると評判で、地元の人たちは狸が拍子木を打っているのだと信じていた。円了はこの屋敷を探検し、音のする場所を確認した。翌日、同じ場所を調べてみたら、大きな竹の筒が立っていた。屋根の上の雪が解け、水滴が筒の中に落ちて音を立てていたのだ。

 どれも分かってしまうと「なあんだ」だが、即座に原因の見当がつかない。分からないとさぞ不気味に思えることだろう。原因が解明されなければ、そのまま怪異伝承として語り継がれていたはずである。

 その他にも、怪獣――今で言うところのUMAの話もいくつか。捕らえてみると大きなイタチだったとかテンだったという話である。カメラがあまり普及していなかったせいか、心霊写真の話は二例しかない。

 八代海で見られる怪光、不知火しらぬいなども、当時は原理が解明されておらず、妖怪とみなされていた。もっとも円了は、「海水の互いに打合う時に塩分の摩擦によりて起る光」と、明らかに間違った推理を披露しているが(現代では、海面の空気の温度差によって生じる蜃気楼という説が定説である)。

 面白いのはむしろ偽怪――人間が起こす現象である。

 空から石ころや木の枝などが降ってくる、現代で言うところのファフロツキーズやポルターガイスト現象の例もいろいろ出てくる。いずれも人間によるいたずらで、犯人が石を投げているところを目撃されている。

 明治四一年に福島県の白江村で起きた事件。ある屋敷で、空から木の実や石ころが降ってきたり、台所道具が座敷に転がり出すといった怪事が続発した。神の祟りではないかと言われ、加持祈祷もしたが収まらない。

 その村の渡辺という人物から手紙で相談を受けた円了は、この家の家族構成を詳しく聞き、という一五歳の下女が怪しいとにらんで、彼女の動作に注意するよう、手紙で渡辺に指示した。すると案の定、怪異が起きるのはいつもおこうがいる時であることが分かった。そこで彼女を他の家に預けたところ、怪異はぴたりと止んだ。

 東京にいながら、手紙だけで事件を解決してしまった円了。まさにアームチェア・ディテクティヴである。

 これなどは現代でもちょくちょくある事件だが、反対に、現代ではあまり耳にしないタイプの事件もある。

 当時、神社や仏閣には鶏を奉納するところが多かったのだが、雌鶏を奉納しても、いつの間にかみんな雄鶏に変わってしまう。信者は、神や仏の力によって雌鶏が雄鶏に変わるのだと信じていた。しかし、円了はある人からからくりを聞いた。近所で鶏を飼っている住民が、雄鶏より卵を産む雌鶏の方がいいからと、自分の家の雄鶏とこっそり交換してゆくのだ。

 信州諏訪大社の境内にある杉の古木から、夜中になると「オーイ、オーイ」という声がして、通りかかる人を驚かせていた。実はこの木には大きなほらがあり、近所に住む物好きがそこに隠れて通行人をからかっていたのだ。それが発覚したのは、この男がうっかり洞の中で寝てしまい、朝になってしまったからだ。出ていくと見つかるのでどうしようかと、男はタバコを吸って考えていた。するとその煙を見た者が、神木が燃えていると勘違いして桶に汲んだ水を洞に注ぎこんだもので、男はびっくりして飛び出してきたのだ。

 伊予の国にある教会の出張所では、万病も祈願すれば必ず治ると吹聴していた。この門前に足の不自由な男が現われ、毎日這って参拝し、「ドウゾ神様この足をなおして下され」と祈願していた。ところがある日、逃げ出した馬が走ってきて、蹴られそうになった男は慌てて立ち上がって走り出した。巡査がこれを見とがめて問い詰めると、男は足が悪いように装っていたことを自白した。教会と密約して、祈願によって足が治ったように見せかけようと企んでいたのだ。

 現代なら「バカニュース」として話題になりそうな事件である。

 妖怪がらみの詐欺事件もあった。

 呉市の豆腐屋に、毎夜、油揚げ一枚だけを買いに来る者がいた。店の主人が怪しんで、ある夜、問いただしたところ、「我は当市外に住する古狐である」と答えた。稲荷を信仰していた主人は大喜びで男を歓待する。男はそのお礼にと、裏の稲荷堂に金を包んで置いておけば、必ず二倍にしてやろうと約束する。主人がそれを信じて一〇銭を置くと、翌日には二〇銭になっていた。五〇銭を置くと一円になっていた。その次には数十円を置くと、消えてなくなって戻ってこなかった。

 狐と思わせるために、わざわざ油揚げを買いに来るところからはじめるという手口が秀逸で、感心させられる。かなりの知能犯だ。

 僕が本書のエピソードいちばん好きなのは、こんな話である。

 備前大分町に住む婦人が妊娠し、ある教会に行ったところ、妊娠している胎児は鬼の形をしており、神に祈祷しなければ恐ろしい鬼の子が産まれると脅される。彼女が驚いて夫にそれを告げたところ、夫は祈祷してもらうように指示して妻を教会に行かせ、自分は餅の中にあんの代わりに馬糞を詰めたものを作った。

 夫はその餅を持って教会に行き、祈祷のお礼にと差し出した。二、三人の者が餅を食べようとしたら、中から馬糞が出てきて驚いた。問い詰められ、夫はこう答えた。

「我が妻の胎内に鬼の子がいることが分かるなら、この餅の中に馬糞のあることの知れぬはずはない。もし餅の中も見透かすことが出来ぬなら、胎児の分かるべき道理がないと、その鑑定の当否をためさんと思うてこの餅を差し上げたのである」

 なかなか懐疑精神の旺盛な夫ではないか。現代でもこういう人間ばかりなら、霊感商法も流行らないだろうに。

 様々な事例から浮かび上がってくるのは、妖怪ではなく人間の本性だ。しょっちゅう錯覚し、不思議なことがあるとすぐに神や霊や妖怪のせいにする。いたずらや詐欺で他人を騙す者がいて、それにあっさりひっかかる者がいる。それは現代人も変わらない。

 円了はこう述べている。


 だんだん沢山なる妖怪の種類を集めて研究して見ると、色々面白い事が出て参ります。社会の内幕や人情の秘密が皆分る様になりてきます。言葉を換えて申せば人の心を解剖して見ることが出来ます。(中略)局外の者に取っては妖怪など社会現象中の一小事の様に見ゆれども、間口は狭くても奥は千畳万畳敷でありて、実に広大無辺の研究であります。何と申しても人間の心全体が、妖怪の幻燈仕掛に出来ておりますから、ちょっとした心の燈を点じても、直ちに色々の妖怪が現われてきます。ゆえに社会万般の現象は大抵皆妖怪の現象と申しても差し支えありません。諸君よ、ナント妖怪の学問は滅法界もない広大の研究でありて実に驚くばかりではありませぬか。


(山本弘)

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