22. ETの飛ぶ月夜

 西陽が岩肌へと鋭く射し込む夕暮れ。私は海岸沿いの曲がりくねった坂道を自転車で登っていった。目的地は、この山の上にある灯台。


 ゆっくりとペダルを踏みしめる。

 ハルくんはあんなに軽々と自転車でこの坂を登っていたのに、いざ私がやってみると全然前に進まない。自転車に乗るのにも、やっと慣れたと思ってたのに。


 小さい頃から自転車に乗れないことがコンプレックスだった。

 捻くれ者の私は、それでもバスや電車で何処へでも行けるんだから構わないと思っていたんだけれども、そんな私を変えたのが映画『ET』の自転車に乗って空を飛ぶあの有名なシーンだった。

 テレビでそのシーンを見た小学五年生の私は興奮をそのままに、隣に住むハルくんの所まで駆けて行った。


「ハルくん、私、自転車に乗りたい! 自転車に乗って、ETみたいに空を飛ぶんよ!」


 そしたらハルくんは向日葵みたいな眩しい笑顔で笑った。


「エエよ。練習、付き合ったる」


 それから私たちは毎日、学校帰りに自転車に乗る練習をした。


「あかん、アカンてもう――離さんといてって言ったやろ」


「大丈夫やって。少しぐらい手ぇ離したって。」


「アカンて。ちゃんとつかまえといて! 絶対離したらアカンからな?」


「はいはい。じゃもう一度」


 だけども、ハルくんは意地悪だから、離さないでって言ってるのに、すぐまた手を離す。


「ほら、乗れるやろ?」


「もう、嘘つきー!」


 そう、ハルくんは嘘つきだ。離さないでと言った手もすぐに離してしまう。


 私はハルくんの家の前に停まった可愛らしい赤い自転車を思い出す。

 私たちはずっと一緒だよと言ってたのに、幸せにしてくれると、言ってたのに。

 ねぇ、あの子は誰なの? あの赤い自転車の子は――


 私は足に力を込めた。するとガタン、とその足を踏みはずす。ペダルがカラカラと空回りし、私は無様にも地面に転がっていた。


「あいたたたた......」


 擦りむいた膝と手の平がヒリヒリ痛む。起き上がりながら自転車を見ると、後輪のチェーンが外れていた。


「やだっ......嘘っ!」


 目に涙が滲む。やだ。やだ。どうして? 自転車ならさほど苦ではないが、歩いてここから家に帰るとなるとかなりの距離だ。私は手を錆と油まみれにしながら必死でチェーンをはめた。


「良かった......ハマった!」


 四苦八苦しながらもなんとかチェーンを後輪にはめると、私は涙と汗まみれの顔で、錆と油だらけの手で、再び自転車をこぎだした。辺りはもう、すっかり暗くなっている。波音だけが響く夜の坂を、しっかりとペダルを踏みしめる。


「うぐっ......ぐっ!」


 涙が止まらない。


 ――離さんといてって、もう二度と離さんといてって、言うたのに......!


 ――もう、一人で走れるやろ?


 ――走れんよ。一人でなんて走れんよ。嘘つき。嘘つき――!




 無我夢中で自転車をこいだ私は、ついに坂の頂上についた。自転車を停め、空を見上げる。今夜はスーパームーン。一年のうちで最も満月が大きく見える日。


 澄んだ星空に怖いくらい大きな満月が輝いている。

 私は叫んだ。


「こん阿呆ーーっ! 馬鹿ーーっ!」


 波の音の中へと消えていく私の声。

 チカチカと瞬く星空。


 そしてひとしきり叫ぶと、私は自転車にまたがり先ほど登って来た道を引き返した。


「ああああああああああああっ!」


 下り坂をスピードに任せて降りていく。周りの景色がどんどん流れていく。風が気持ちいい。

 なんだか心の中がスッキリして、胸のモヤモヤが全部どうでもよく思えた。

 ふと空を見上げると、まん丸お月様が、ぽっかりと口を開けて笑っている。


 全身に風を感じながら、私も笑った。今ならきっと空だって飛べる。いつか見た、あの映画みたいに。そんなETの飛ぶ月夜に、私は決意する。一人でもペダルをこいで行くって。一人でも走っていくと、私はこの月と自転車に誓った。

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