無辜の歌

ポレ田中

ハナエ、帰宅(1)

 学校から帰るとハナエはすぐに自分の部屋に籠もった。「ただいま」の挨拶もなしに一直線に部屋に向かうのは、帰宅を告げる相手がこの時間は誰もいないからだ。

 時刻はまだ午後3時を回ったばかりであるが、ハナエの部屋は薄暗い。部屋が北側にあるため日当たりが悪いのだ。キノコのようなカビのような湿っぽいニオイもしている。

 ハナエは制服を脱ぎ、ベッドの上に下着姿でゴロンと寝転がった。そして身をよじらせながら「きゃー」とか「うー」とかはしゃぐような声を出した。ハナエは今日、憧れの理科の先生と話すことができたのが嬉しかったのである。ハナエはその出来事を思い出し、しばし回想に耽っていた。

 

 掃除時間のことである。ハナエの班は理科室の掃除を担当していた。そこでどういうきっかけからであったかは覚えていないが、「爪は皮膚なのか、骨なのか」という議題が班員内で上がった。ハナエは爪が皮膚であるということを知っていたのだが、わざわざそこで「皮膚に決まっているじゃない」と口出しするようなキャラではない。普段から班員とは必要最低限の会話しかしていない。というよりは、言われたことに「うん、わかった」と返事する程度にしか連んでいないのだから、会話をしているとも言えないのかもしれない。ハナエは今日もその輪に入っていくことはせず、黙って黒板掃除をしていた。

 お調子者の男子、鈴木が「爪はかじるとカルシウムの味がするから骨だろ!」と自信満々に言っているのが聞こえた。ハナエが「馬鹿だな」と思ったと同時に2人の女子が「バカじゃないの?」と言いながら笑っている声が聞こえた。


「おーい、ちゃんと掃除しろよー。」

後ろの扉から坂崎が理科室に入ってきた。1年の理科を担当している先生だ。髪の毛は少し天パがかっていてモジャッとしているため、生徒の間では「モンジャミン」というあだ名がつけられている。今日は月曜日だから髭はキレイに剃られているが、金曜日になるとだいぶ濃く髭が生え揃う。歳ははっきりとはわからないが28か29あたりだろう。身長は172センチと言っているのを前に聞いた。痩せ型のためハナエは坂崎のことを「おそらく冷え性だろうなあ」と推測している。


「先生!爪って骨ですよね?だって噛むとカルシウムっぽい味がしますよね?」


 掃除するように促されているにもかかわらず、それに返事もせず、鈴木は坂崎に質問を投げた。坂崎は呆れた表情を見せつつも少し笑って「はい?」と鈴木の顔を覗き込んだ。


「え?違うの?マジ?」

「え?なに?骨じゃないの?」

「は?意味わからなくね?」

「……マジかよ。」

 

 鈴木は「絶対認めない!」「あり得ない!」「絶対に爪は骨だ!」とでも言いたそうな顔でキョロキョロと周りの班員の顔を見ていた。2〜3秒の沈黙のあと、「皮膚だよ」「皮膚だから」「骨なわけないじゃん」と班員たちは鈴木にツッコミを入れた。坂崎も一緒になって「骨じゃありませ〜ん」と言って鈴木をひやかした。するとハナエ以外のみんなが笑った。


「西田もわかってたよな?爪が皮膚だってこと。」


 坂崎はハナエの側まで歩いてきて、後ろからそう話しかけた。ハナエはビクッとした。まさか話しかけてくるとは思っていなかったのだ。そして、顔がどんどん紅潮していくのが自分でもわかり焦った。


「そうですね。爪は、はい。皮膚だと、思います……。」


 ハナエは精一杯になってそう答えた。坂崎は笑って、

「はーい!わかってないのは鈴木君だけでした〜。」

と、言った。班員たちはみんな笑っていた。鈴木も照れながら笑っていた。ハナエも少し笑ってみせた。


−−。


「西田もわかってたよな?」

「西田もわかってたよな?」

「西田もわかってたよな?」

「西田もわかってたよな?」

「西田もわかってたよな?」


 ハナエは坂崎に話しかけられたシーンを、何度も繰り返し思い出した。目を閉じるとしっかりとそのときの映像が浮かんでくる。何度も何度も思い出していくうちに、最初はジタバタと動かしていた手足が動かなくなってきて、だんだんと股間の辺りがモヨモヨとしてくるようになった。この感覚は何度か体験したことがあった。ハナエは股間に手を押しつけ「静まれ!」と念じた。しかしその不思議なモヨモヨとした感覚が収まることはなかった。ハナエはうつ伏せになって股間を枕に押しつけた。悪いことをしているような気がした。隠しカメラが部屋に設置されていたらどうしようとも思った。でも、モヨモヨとした感覚がすごく気持ちが悪くて、枕に股間を擦りつけずにはいられなかった。

 

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