京都桜井屋敷のメイドさん

九情承太郎

第1話 その侍女、微妙につき

 1587年(天正十五年)、京はようやく平和になった。

 どのくらい久しぶりかというと、応仁の乱勃発以来、百二十年ぶりである。

 三好長慶や織田信長のような実力者が政権を取った時期も、度々京を戦禍に巻き込んでいるので、平和とは言い難い。

 今度こそ、本当に平和が続く。

 大小の慶事の積み重ねが、京の民に本物の安心感を与えつつある。

 その一つが、室町時代最後の将軍・足利義昭の帰京である。


 足利義昭ほど戦国時代に翻弄された人物も珍しい。

 二十二年前、室町幕府十三代将軍である兄・足利義輝が殺されると、寺に入って武家の争い事と無縁の世界にいたはずの義昭にまで手が伸びた。

 義輝派の武将達が義昭を救出し、正統な室町幕府を再興する為の御輿として京外亡命させなかったら、確実に殺されていた。

 有力大名に担いでもらって京に帰還しようと、積極的に『僕と契約して、戦国時代を終わらせる功労者になってよ』キャンペーンを繰り返すも、三好・松永弾正連合による『足利義昭を奉じて上京する気なら、お前の領地に侵略するぞ、ごらぁ』の脅迫が効いて、誰も上京を果たせなかった。

 それから数年後。

 モーレツにアグレッシブな織田信長の援助で京に凱旋し、征夷大将軍に就任し、織田信長の尽力で敵対勢力の撃退に成功し続けたのに、信長との性格の不一致が明らかになる。

 足利義昭凱旋の最大の功労者であるから、専横される事は覚悟していたが、まさかの足利義昭全否定である。


「祝宴の催し物は、経費と時間の浪費を避ける為に、大幅カットします」

「人材登用は、信長にお任せ下さい。縁故ではなく、実力主義で最適のスタッフを揃えます」

「信長への贈答品購入を理由に、散財しないで下さい。それ結局は、信長のお金での購入でしょ」

「信長を父と呼びたいとか、気持ち悪いから止めて下さい」


 お飾りのお神輿である自覚はあるので、ハートウォーミングな方面で貢献しようとしているのに、そんな事でも全く反りが合わない。


「細川と明智は使えるので、信長の直属にします」


 しかも、使える部下のツートップを強奪。

 信長が取り掛かっているのは、室町幕府の復興ではなく、合併吸収であった。

 以前に京を支配していた三好長慶や松永弾正が真人間に思えるほどの下克上に、足利義昭は引いた。

 いくら形式だけの征夷大将軍でも、ここまで不要扱いされると、反信長同盟に加盟しちゃったりする。


 当然、京から追放された。


 信長ルールだと殺してもおかしくはないのだが、京生まれ京育ちの人にとって、京追放の方が死刑より辛いって、分かっていてやったと思う、信長は。

 二度目の京外亡命は、一次と違って、お友達が沢山出来た。十倍以上出来た。信長を敵に回す戦国大名は、増えていく一方だった。

 それでも織田信長は潰れない。

 征夷大将軍のネームバリューだけで食い繋ぐ足利義昭とは真逆に、信長は実力主義を押し通した。

 敵に回って、足利義昭は信長の凄みを十分に理解した。理解しても、足利義昭は他の選択肢を選ばなかったが。

 なんと信長死後も芸風を変えずに、『僕と契約して、戦国時代を終わらせる功労者になってよ』キャンペーンを続けた。

 ある意味、見上げた根性である。

 しかし、羽柴秀吉が豊臣秀吉にレベルアップする頃には、その芸風もいよいよ効果がなくなる。

 このキャンペーンをマジで真に受けていた最後の大物・毛利輝元も、周囲のおっかない叔父さん達に「次の天下人は秀吉なんだから、余計な欲は出さないで、秀吉に媚び売って来い」と言い含められて、秀吉に服従を誓いに上京する用意をしている。

 鈍い足利義昭でも、いい加減に気付く。


 自分抜きで、戦国時代が本当に終わってしまうって。


 ここに至って、足利義昭は芸風を変える。

 本来あるべき、征夷大将軍の仕事を始めた。

 豊臣秀吉が九州平定に出向く途中、寺を借りて会見し、島津へ降伏勧告を促す手伝いを申し出る。

 愛と平和と勇気が、征夷大将軍のお仕事である(ぽっ)。


「そりゃあ、ありがたいですな」


 秀吉は、満面の笑みで面白がった。

 既に島津は、朝廷の正式な停戦命令を無視しているので、討伐する大義名分は間に合っている。

 この状況で百年以上も全く効力のなかった『室町幕府からの停戦命令』なんか出されても、島津が丁寧にお断る事は確実。

 この程度の見え透いた売名パフォーマンス、信長なら鼻で笑って相手にしなかっただろうが、秀吉は最大限のサービス精神を発揮する。


「こりゃあ、お礼をしませんと。そろそろ、京にお戻りになりませんか?」


 追放中の京出身者なら、誰でも飛び付く話である。

 足利義昭は狂喜乱舞しかけて、辛うじて理性を保つ。

 この猿面の小男は、信長の後を継いで、あの信長より上手くやっているのである。


「条件は、なんぞ?」


 一応、彼の名誉の為に重ねて書いておくが、この時点で足利義昭は現職の征夷大将軍。実力の全く伴わない現状とはいえ、武家のトップである。

 関白太政大臣・豊臣秀吉に、へり下ったりしない。


「征夷大将軍を譲っていただけますか?」

「ダメじゃ」


 断ってから、足利義昭は己のプライドの高さに呆れた。

 前にも一度、信長から休戦の打診が来たのに、『ならば人質を寄越せ』と返答してしまい、流れている。


「高く売れると思いますがのう」


 秀吉の方は、余裕で苦笑している。

 が、誰とでもお友達になってしまう凄腕の交渉役として鳴らした秀吉である。交渉下手で名高い足利義昭とも、さくさく話を進める。


「義昭様には、独特の人徳がお有りのようで。この秀吉、見直しました」


 義昭には、全く身に覚えがない。


「流浪の身でありながら、二百名もの幕臣が未だに付き従っておりまする。これは並々ならぬ事ですぞ。他の大名が同じ憂き目に遭った場合、ほとんどがわずか数名の忠臣が供をするのみ。国外に追われた主人に従う者は、希も稀!

 どうしてか、お分かりか?」

「いいや」

 ちょろい事で名高い足利義昭は、身を乗り出して秀吉の話に引き込まれる。


「故郷から、離れたくないのでござる」


 言われて義昭は、身を捩って顔を覆う。


「故郷から離れるくらいなら、主君をも捨てる。これも人の情ゆえ、責められませぬ。だというのに、義昭様の側には、二百名もお供をしておる。羨ましいですなあ。こういう忠臣達には、上に立つ者として、なんとか報いてあげたいものです」


 義昭は男泣きの最中に顔を上げ、苦渋の決断を告げる。


「よし。分かった。秀吉の養子になって、天下を継ぐ」

「懲りないお人ですなあ」


 常に天下に王手をかけた段階で人生の大半を過ごしたせいか、政治面では、もう常人の発想をしてくれない。


「いや、秀吉殿とて、近衛家の養子になって、公家の仲間入りをしたではないか」

「そりゃあ、実力に見合う官位を得る為の、裏技です。義昭様は、征夷大将軍のまま、京にお戻りください」

「…このままで、よいのか?」

「この秀吉、位人臣は既に極め、武力財力共に古今未曾有の蓄えがあります。義昭様は、何も心配せずに、秀吉めの仕事ぶりを、京で見届けて下さい」


 秀吉が、この交渉で何を得るつもりなのか、義昭は全く分かっていなかった。

 続けて秀吉は、義昭にとって美味すぎる話を切り出す。


「京の南、山城の一万石を差し上げます。家臣共々楽隠居するには、十分かと」


 義昭の頭に、差し出された旨みが染み込んでいく。


「もはや政に煩わされる事もなく、京でゆるりとお過ごし下さい。かつては京都奉行でもあった秀吉からの、ささやかな贈り物でござる」


 何の憂いもなく、京で余生を送れる。

 理解すると、義昭は秀吉に対して自然と頭を下げていた。

 頭を下げたまま『ありがとうございます』を連呼する足利義昭を見下ろし、秀吉は満面の笑顔で酒宴の用意を促す。



 豊臣秀吉は、歴史上最初の、征夷大将軍を軍門に降らせた人物となった。



 帰京していいよと言われても、すぐに帰京出来る訳ではなかった。

 何せ、小規模ながらも室町幕府の機能を従えている。各地に『帰京する事になりましたので、暫く休業します。引越し先に落ち着き次第、連絡致します』との文を送り、厄介になった大名と別れの宴を催し(宴会費用は相手持ちだが)、家臣達に当地での身の整理をする時間を与え、とうとう十月に京への帰郷を果たした。

 久しぶりに目にする京の紅葉を愛でながら、足利義昭一行は、北野天満宮を目指す。

 軟弱な足利義昭にしては珍しく、引越しの旅による肉体疲労を無視しての直行である。

 十月十日。

 北野大茶湯の、最終日なのだ。


「この機を逃すな! 進めや進め!」


 もう昼時である。

 あと四半刻も馬を進めれば着くペースではあるが、足利義昭のテンションは変な方向でマックスに達した。

 京ですれ違う多くの人々が、かなり友好的に出迎えてくれたのである。「ヲカエリナサイ」の声が途絶えない。


「あんらあ、あんな人を許すなんて、関白はんは、お優しいどすなあ」 

「へえ、この人がノコノコと戻って来られる時代なのだ」

「生き延びていやがった!?」


 貴人への出迎えというか奇人・珍獣扱いではあるが、

この人物の帰京は、平和のパロメーターとなった。


「なんかワシ、以前より大事にされてないかい?」


 悪い空気は一切感知しない事で名高い足利義昭は、人々の笑顔を素直に受け入れた。素晴らしき京人の笑顔を疑うなんて、とんでもない。

 馬の上で大人しく感涙していてくれれば周囲の家来衆も楽だったのに、手を振り返したり丁寧に挨拶したりと、やや馬の速度が鈍りつつある。

 急ぎたいけど急げない、まさに足利義昭らしい、歯がゆいゴール前となった。

 帰京の興奮に加えて、ゴールは空前絶後の茶会イベント・北野大茶湯。

 関白太政大臣・豊臣秀吉が、十月一日から十日間、大規模茶会を催しているのである。


 二カ月以上前から、秀吉は開催の旨を発表している。


「秀吉が秘蔵する名物を披露するから、茶道をしている者は、身分の差、出自、国の内外に関わらず出席しなさい。茶道具が足りなくても構わない。

 服装も履き物も席次も、適当でいい。

 腕に自信があるなら、秀吉に見せるように。

 これほどの茶会イベントに参加しない奴は、以後は茶道を許さない」


 最後のは無茶というか、著名茶人への参加強制の為だろう。

 ストイックな方向に進化して来た茶道を、コミケと同じ方向性で大規模開催する訳で、名人級からは素直に祝福されないイベントになってしまった。

 実際、千利休は初日に途中で撤収し、秀吉の不興を買っている。

 一般の茶道愛好家からも、「いや、それ茶道には不向きやろ?」と見抜かれ、初日の動員数は、千人。

 普通のイベントなら成功だが、秀吉のお祭り基準からすると、『大失敗』である。

 そうとは知らずに、お祭りが大好きな足利義昭は、十日目の北野大茶湯会場に到着しつつある。

 お祭りが大好物で、経費削減・時間短縮を言い出した信長と喧嘩した事もある、真性の足利義昭である。

 帰京と同じくらいに、北野大茶湯への参加を待ち望んでいた。

 北野天満宮の鳥居が見えてくると、足利義昭は馬上から家臣達にド級のドヤ顔をして宣言する。


「主役は最後にやって来るとは、この事だ」


 今度は何を勘違いしておいでなのだろうかと、家臣達は気を揉んだ。この主君は受動的だと奇跡的にツいているが、能動的だと破滅的にツいていない。


「余は、茶人としても天下を取ってみせる」


 家臣達の顔に哀れみの表情が浮かんだので、義昭は慌てて見解を述べる。


「考えてもみよ。戦国武将の中で、茶道に打ち込む時間が最も多かったのは、まず間違いなく、この足利義昭じゃ。一番無駄に生き延びて趣味に熱中してきたこの義昭こそ、この茶会で十番目くらいには目立てる、かもしれない」


 家臣達に憐れまれて少しはマシな理性が働いたのか、脳内ランキングが現実的になった。

 義昭の悪い病気が未発で済みそうな塩梅で、足利義昭は、北野天満宮の鳥居に着く。

 馬から降りると、茶道具を持ち運びさせる部下数名を連れて、鳥居を潜る。

 そのまま何事もなく普通に進み、本殿で主祭神である菅原道真に参拝する。

 賽銭箱に小銭を一枚投げ込みながら、足利義昭は首を傾げる。


「あのう、道真様。何やら違和感を感じるのですが、何でしょうか?」


 賽銭箱を監視している神職が、代わりに冷たく答える。


「ここは百年以上前に、麹製造の利権争いで足利家に焼き討ちされていますので、その怒りが充満しているのかと」

「そうじゃなくてだな…あ、茶会はどこで開かれておるのだ? どこにも其れらしい姿が見えぬ」


 鈍い義昭でも気付く程に、北野天満宮の敷地内は普通だった。


「今日まで予約が入っておりましたので、空いたまま何方も…え?」

「ぬ?」

「まさか、知らずに来たのですか?」

「何が?」

「初日で終わっていますよ、北野大茶湯は」


 初日の一般客動員数、千名。

 ザ・豊臣秀吉にとって、それは敗北だった。エンターテイナーとしての自負が、潔い敗北宣言をさせた。


「余なら絶対に、十日間続けるのに」


 足利義昭は、本気で言っている。

 呆れる神職と家臣達の気持ちを代弁するように、横から突っ込みが入る。


「初日の夕刻に、肥後で国人一揆の報せが入りましたゆえ、関白殿下は催事を断念したのでしょう」


 偉い人に声をかけ馴れている男の声だった。

 その老いた侍は、どこからどう見ても、ただのおっさんの風貌をしている。

 田舎に行けば百メートル四方に三人は見掛ける類の、おっさん顔である。

 しかし、その装束に付いた家紋は、見逃せない。

 三つ葉葵かと見えたが、三つ葉葵をシンプルにデザインし直したような片喰紋だった。

 元は三河松平家の家紋であったが、酒井家の三つ葉葵の方がカッコイイからと交換した家紋である。

 そして、酒井の名を天下に轟かした武将は、一人しかいない。


「酒井忠次?!」

「顔を見て思い出して欲しかったなあ」


 姉川の戦いでの戦勝報告で、二人は顔を合わせている。

 朝倉軍に最初に突入した部隊の将として、義昭から直々に賞与を貰っている。酒井忠次にとっては征夷大将軍から直接褒められた輝かしいイベントなので、今でも思い起こしてニヤニヤ可能な記憶なのだ。


「済まぬが、そちの顔は、平均的にも程があるぞ。家紋がなければ、絶対に誰にも分からぬ」

「そうですけどね」


 とはいえ、家紋を見て征夷大将軍に個人名を言わせただけでも、武門の誉、と思いたい。


「ま、という訳で、京にいる武将は、肥後に向けて加勢に行かされたか、待機中です。某は暇だったので、将軍様の先回りをして、ここで迎えの準備を」

「本当に?」


 忠次は礼装ではないし単身だったので、義昭ですら騙されなかった。


「いえ、武家の少ない所で暇を潰していたら、偶々出食わしただけです」

「意外じゃのう。毎度先陣を切りそうな武名じゃが」


 酒井忠次の戦歴には、白星ばかり。

 徳川家康が武田信玄にフルボッコにされた『三方ヶ原の戦い』の時ですら、酒井忠次の部隊だけは相手を返り討ちにしている。

 猛将・柴田勝家も、五倍以上の兵力で寄せて来た北条勢も、蹴散らした経歴を誇る。

 勝率だけなら、上杉謙信をも超えている。

 本能寺の変から逃れて三河に戻った徳川家康が、信長の敵討ち部隊を編成する際には、先鋒に選ばれている。もしも秀吉の中国大返しが失敗に終わっていたならば、明智光秀を倒す功績は酒井忠次が取っていただろう。

 外見だけ見ると、そうは見えないが。


「今年で齢も六十になり申した。目もかなり悪くなってきましたので、引退します」

「引退?」

「今は引継ぎ作業だけに専念しております。それすら九割方終わりましたので、今は隠居先を探しつつ、観光に精を出しております」

「勿体無い!」


 義昭は悪い病気が再発しかけたが、自身も引退して京で余生を過ごす身の上だと思い出し、忠次との会話を続ける。


「いや、老齢で目が悪くとも、軍師として働けるのではないか? 小田原や奥州との戦が、まだありそうではないか」

「う〜ん。これは他の方に申してもなかなか信じて貰えぬのですが…うちの殿は、軍師が要らんのです」

「なぬ?」


 忠次は立ち話が面倒になってきたので、将軍様を本殿に誘って適当に座りながら話し続ける。同時に懐から神職に金子を渡して、場所代にする。

 いつもは猫並みに座る場所には煩い義昭も、今回ばかりは気にしない。


「突出して戦に長けておりますので、軍師が必要ないのです。本多正信が側でそれらしい事はしていますけど、秘書役ですな、実際は。戦に関しては、殿より上手い策を思いつける奴はおりませぬし、軍勢を手足のように動かす手腕も、誰も及びませぬ。

 例えば、仮に徳川四天王や十六将がいなかったとしても、殿は、今と同じく最高位の武将として知られていたでしょう」


 徳川四天王の筆頭である酒井忠次の申しように、足利義昭は生唾を飲み込む。

 そこへ、北野天満宮から二人分の茶と菓子が出る。


「金をケチらずにくれてやると好意を寄せてくれる連中は、大好きです」

「まあた、関白殿下みたいな事を」


 忠次は、征夷大将軍が秀吉を呼び捨てにしなかった事実を、重く受け止めた。声音に敬意が籠っている事も。

 顔にも態度にも一切出さないが。

 


 足利義昭と酒井忠次の再会は、丁度一年後になった。

 1588年(天正十六年)、十月。

 京での豊臣氏の本邸兼政庁・聚楽第(じゅらくだい)の北門入り口前で、今度は義昭の方が先に気付いた。


「今度は顔で気付いたぞ、酒井殿」


 言われた忠次は、坊主頭を叩いて照れた。


「よかった。てっぺんに家紋でも掘ろうかと考えておりました」


 双方、一応出家して頭を丸めている。

 出家と言っても、引退表明の一環に過ぎないし、武家社会と切れた訳ではない。髪型とファッションが、やや僧侶っぽくなるだけである。


「本当に引退したのだな」


 義昭は、若い別嬪の侍女に手を引かれて歩く酒井忠次を見て、この武将は引き時を間違わなかったのだと悟った。


「文字も読めない程に、目が悪くなりました。外出はしたくないのですが、美人に手を引かれると、話は別ですな」


 侍女の方は、くすりと笑って斜め後ろに下がる。


「文字は見えぬが、侍女の美醜は分かるのか?」

「本日会ったばかりですので、まだ体の隅々まで検分した訳ではありませぬが、関白殿下のお墨付きで貰った女人ですからな。間違いはないでしょう。たぶん」


 侍女が、微妙なジト目で忠次を見る。


「美人じゃ。面喰いの関白殿下に、抜かりはないわ」 


 義昭の太鼓判に、侍女は爛々とした笑顔でガッツポーズを取った。小袖から余分に露出した二の腕には、かなり逞しい筋肉が付いている。


 若くて美人で体も色々豊かだが、義昭は何故か信長の飼っていた鷹を連想してしまった。


「おお、やはり、お礼を言いに参上して良かった」


 引退して京に骨を埋めたいという忠次を、秀吉は面倒を見ると宣言した。家康に相談はしていない。

 秀吉は家康の有力な武将に対して領地・官位・物品を惜しみなく勝手に与えており、家康も黙認している。

 中でも引退する酒井忠次への待遇は異例で、西陣本丸町に屋敷を与え、在京料千石と世話係の侍女を与えている。


「面倒見がいいのう、関白殿下は。わしでも足元に及ばぬ」


 聚楽第の北門を通りかかった武将たちは、『あんたは誰の足元にも及んでないだろう』という声を押し殺して我慢した。


「将軍様こそ、思い切った事を」


 足利義昭は征夷大将軍を辞し、室町幕府を正式に終わらせた。僧侶に戻って昌山と改名したが、誰もその名で呼んでいないので、引き続き足利義昭で通す。酒井忠次も一智と改名したが、以下同文。


「死ぬまでは、辞めなくても良かったのでは?」

「ふふふふふ、分からぬか? 現役の征夷大将軍よりも、元征夷大将軍の方が、身軽で美味しいぞ。何せ全ての儀式・祭礼に経済的責任を負わずに済む上に、賓客として呼んで貰える。これに気付いた余は、いや、わしは偉い」

(征夷大将軍としての経費負担を朝廷から迫られてビビった頃に、知恵を吹き込まれただけだろ)


 内心の推理には触れずに、忠次は別口で切り込む。


「それは、信長公と組んでいた時と、同じ境遇では?」

「若い時は、己の幸せにすら逆らうものじゃ」

「つまり、今思い返すと幸せだったと?」

「うむ」


 足利義昭はセンチに涙ぐむ。


「明智光秀に殺させるのではなかった」

「そんな冗談が言える時代になりましたか」

「どうして皆、冗談にして流すのかのう」


 足利義昭は、生涯『明智に信長を殺させたのは、この私』と言って憚らなかった。本気にしたのは毛利輝元ぐらいである。

 義昭の不謹慎な自意識に悪戯したくなったのか、通りすがりの織田家男児が、義昭の背後から低い声音で声をかける。


「お前かあ、信長に光秀を嗾けたのは?」


 声はあんまり似ていなかったが、振り向いた義昭は、信長そっくりの顔が睨み付けているのを目にして固まった。


「出た〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」


 腰を抜かして座り込み、這って逃げようとして転がって堀から落ちる。

 忠次の侍女が、その場からは一歩も動かずに、袖に隠していた糸を放って義昭の五体を縛り、宙吊りにする。

 忠次は、神妙な顔で、侍女に問う。


「活。将軍様が落ちた音が聞こえぬ。聚楽第の堀は、そんなに深いのか? それとも、実は水練な方であったか?」

「いえ、落ちる前に助けました」


 聚楽第の堀は深さ三メートル。

 水が張ってあるので大事はないだろうが、美人と讃えてくれた元将軍様を助けないような不義理は出来ない。

 侍女の活が糸で義昭を引き上げる様を、忠次は悪くなった目でジッと観察する。


「甲賀者とは察していたが、うどんを手から出す忍術を使うとは。食えるのか?」

「糸です! 糸! 下手に触ると切れますから、お下がり下さい」


 足利義昭は無事引き上げられたが、まだ近くに信長似の男が居たので、聚楽第の中に逃げ込んだ。

 それを見送ってから、信長の顔真似をしていた武将は、持ち前の爽快系笑顔に戻る。


「見逃していいのか? お主には、殺す権利があると思うが?」

「出家する前でしたら、殺していましたね」


 二人とも、笑って笑い事にした。

 活が糸を仕舞い終えて着衣の乱れを直し、忠次の手を取り直した頃合で、信長似の侍が声をかける。


「お礼も言えない男は、助けなくていいのですよ」

「その場合は、お礼を取り立てに行きますので、構いませぬ」


 活の強かさに、聚楽第で庶務をこなす苦労人・柘植与一(つげ・ともかず)は苦笑する。


「酒井さんと寝食を共にしても、手篭めにされずに済みそうな人で良かった」

「八っさん、人聞きが悪い。わしはエスパニア語で言うところの、カバレロ(紳士)だから」


 柘植与一、旧名・織田与八郎は、少年時代から酒井忠次という男を知り抜いているので、聞き流す。

 信長の従兄弟の中では、珍しく人当たりの良い器量人として以前は名を知られていたが、秀吉が政権を取ってからは冷遇され、柘植姓を名乗っている。ちなみに織田家傍流の人間は本家と区別をつける為に、よく柘植の名を使う。


「活殿。初日だけで、何回触られました?」

「乳を二回、尻を二回、太腿を一回、乳首を一回」

「…活。八っさんは、どんな目でわしを見とる?」

「『死ねばいいのに』と罵倒したいのを、義理で堪えている目です」

「それは活の目であろう?」

「ご覧になります?」


 途端、靄のかかった忠次の視界に、活き活きと輝く女の大きな瞳が現れる。

 今日会ったばかりの老いぼれ名将を面白がる、無邪気で気の強い鷹の目。その眼光は、距離も年月も飛び越えて、忠次の心に飛翔する。

 煌めく眼光に気圧されるように、忠次の視力がやや戻る。


「ふむ、二十歳という自己申告に、偽りはないな」

「どんな目が見えました?」

「わしの正妻の二十歳の頃と比べて遜色のない、美しい顔だ」


 というよりわざわざ正妻の若い頃に似た侍女を選んだ秀吉陣営に、忠次はチョイとイラついた。


(彼奴等は、人の人生に踏み込み過ぎている。心魂を強奪せんとする外道どもが)


 酒井忠次が引退しようと、豊臣秀吉が全国に戦争禁止の命令を出そうと、忠次の戦は終わっていない。

 戦火の上がらぬ戦が、続いている。


「ご主人様。お返事が、まだです」

「その目、既にわしに惚れておるな」

「そんな都合のいい話、ある訳ないじゃないですか」


 呆れた活が、顔の間近なポジションから離れる。

 忠次は、柘植与一が居そうな方向に声をかける。


「八っさん、活は今、どんな顔しとる?」

「仕事に戻ります。活殿に迷惑をかけないで下さいね、酒井さん」


 つれない態度が、返事だった。


「お二人を聚楽第の中に案内します。私が活殿の手を握り、活殿が酒井さんの手を引く。これで完璧」

「八っさんがわしの手を引いて、わしが活の腰帯を引いて行こう」

「わたしは、ご主人様を無力化しながら付いていきますので、柘植様、案内をお願い致します」


 そう言って活は、忠次の襟首を摘んで持ち上げる。


「わしゃあ、仔猫か」



 酒井忠次の運ばれ様が話題になったのか、謁見の間には最優先で通された。

 入った途端に、上座で秀吉が笑い転げる。


「死ぬ、死ぬるわ、この…」


 笑いで腹筋が捩れて、会話にならない。


「よし、活。関白殿下が笑い死ぬまで、このままの姿勢を保て」


 秀吉は笑い続けるが、小姓たちがイラっときたので、活は空気を読む。


「いえ、疲れましたので」


 活は忠次を下ろすと、手を引いて秀吉の正面に立たせてから、斜め後ろで畏まる。

 忠次も畏まり、秀吉も深呼吸をしてから座り直す。


「で、屋敷の礼か? 何時でも良かろうに、受け取った当日に、挨拶しに来るとはのう」

「後回しにする気には、なれませぬ。しかも、歩いて半刻もかからぬご近所ゆえ」

「で、どうじゃ活は? 夜が未だでも、佳い女だと分かるであろう?」

「手の握り具合が、絶妙ですな。引かれて街を歩くと良い心地でして。てっきり、お迎えが来たのだと勘違いして、心中で殿や家族にお別れをしておりました」

「まあ、たいして違わんな。完成した聚楽第は、見事であろう? …もう見えぬか?」


 聚楽第は曲輪も備えた平城ではあるが、美しい白壁と金箔瓦の装いで、京の景観を損なわないデザインとなっている。

 天皇陛下の行幸が可能という条件を基に建築されており、美観のみならず内部もゴージャスで快適な居住環境が整えられている。

 城の化粧をした、宮殿なのだ。


「完全に見えなくなる前に目に焼き付けようとは試みるのですが、眩しいので却って目に悪いですな」

「そら悪いことしたなあ。詫びに何かして欲しいか?」

「柘植与一が足利義昭を脅かした件で、お咎めなきようお願い致します」

「頼まれなくとも、咎めはせぬ。笑い話じゃろう、あれは。他にないか?」

「活の素性をお聞かせ下さい」


 活が、目を丸くして忠次を見る。


「昼前に聞いた活の自己申告と、殿下から伺う素性に、相違の有るや無しや、確かめておきたい」


 秀吉が、やや顔を顰めて首を傾げる。


「天下人から褒美を貰える機会に、侍女の身の上話を所望か。死に水を取ってくれるかもしれぬ御仁の事であるから、確かめたいのも分かる。が、釣り合うのか?」

「某は今日より活と二人で屋敷に寝起きします。活が某に惚れて『抱いてくださいまし! お情けを! 子種をいただきとうございます! もっと!』と夜戦に及ぶ可能性が」


 忠次のジェスチャーと物真似入りの話の途中で、活は突っ伏して顔を隠して震える。笑っているのか怒っているのか、不明。


「うむ、なるほど」


 秀吉は、爆笑を堪えて相槌を打つ。


「今の某では、活の仕掛けた夜襲には、抗えませぬ。出来てしまいますなあ、この歳で子が。で、肝心なのは、生まれてくる子の行く末でございます」


 忠次は、伏せて震えている活の項を、器用に撫でる。


「申告通り、近江甲賀の侍、小山十兵衛の娘という経歴が真であるなら、問題はありません。生まれてくる子は、酒井家の子として扱います」


 忠次の手に伝わる活の血流は、勢い良く波打っている。

 だが、乱れはない。


「そこまで考えて助平を致すのか、お主」


 変な方向で、秀吉が感心する。


「秀吉はもう、的に当てる事だけを考えて、射って射って射ちまくっておるのに、お主は子が生まれる事が前提か。あやかりたいのう」

「して、返答は?」

「活の自己申告の通りじゃ。外連はないぞ。…で、お主はどういう外連を警戒しておったのだ?」


 忠次は活の項から手を離すと、話を続ける。


「ややこしい血筋であった場合は、他の対処を考えておりました」

「ややこしい血筋?」


 秀吉が、嫌な予感がして尋ね返してしまう。


「例えば、織田と浅井の血を引く女人だったりすると、ややこしいですな。高貴極まる血筋ですので、後世、その母子に酒井家が喰われてしまうやもしれませぬ。某なら、寺に預けます」


 秀吉は、ジト目で忠次の小癪なオヤジ面を睨む。


「寺に預けても、足利義昭のような目に遭うわ。この秀吉なら、己が側に置くぞ」


 この頃、秀吉は織田信長の妹・市と浅井長政の間に生まれた美姫・茶々を側室にして、毎晩励んでいる。

 天下人にしか作れないハーレムを堪能していた秀吉が、俄かに一穴主義者と化して茶々一人に集中砲火している。

 今度こそ、当てる気である。



「というか、もう遅いぞ、忠次〜」


 秀吉は、視力の悪い忠次にも分かるレベルで破顔満面。


「え? え?」

「秀吉と茶々の間には、お主の諫言でも引き裂けない、鎹が出来ちゃったのだ!!」


 でゅふふふと笑う、気色悪い天下人。


「あー、もう待てるか、このやろー。期を見て大々的に公表しようと思ったが、我慢できぬ!」


 秀吉は、仁王立ちし、大音声で宣言する。


「茶々が、俺の子を身籠ったーーーーー!!!!」


 忠次は、軽く失望しつつも、次の策を脳内で巡らせる。

 吉報に沸き立つ周囲の喧騒には構わず、この後の展開の先の先を見据えようとする。


「おめでとうございます」


 平伏する忠次の間近に、秀吉が一足で距離を詰める。活が身を起こして、座ったまま少し下がって忠次を見守る。

 秀吉が忠次の耳元に、小声で伝える。


「お主には先に言うておく。子は、男だ。京の陰陽師は、こういう判定で違えた事がない」

「おめでとうございます」


 その意味に、徳川家康第一の家臣は、表面的には普通に祝った。


「という訳で、忠次。お主の主人には、天下人になる順番は回ってこないぞ。何せ、秀吉、秀次、茶々の子、という天下人の継承が、三代先まで決まってしまった。ここまで将来が決まると、家康殿も腹芸はすまい。今川義元や信長様に大人しく従ったようにな」


 ここで秀吉は、自前のよく響く明るい声に戻して、忠次の肩を親し気に叩く。


「めでたいついでに、お主も隠居を取り消して、秀吉の直参に成らぬか? 最低でも二十万石はやるぞ?」


 秀吉の催した喧騒に気付いて顔を見せた石田三成が、秀吉の大盤振る舞いに苦笑しつつ、忠次の顔を見て、一歩下がる。


「いえ、既に頂いた在京料で、充分にございます。計画通り、京で遊んで暮らします」

「またまたぁ…」


 口説きにかかる秀吉には目もくれず、忠次は活の尻を撫で始める。


「…あのう、ご主人様。関白殿下が、まだお話中です」

「殿下の武勇伝を聞かされて、滾ってきた。夜戦になるやもしれぬ。陽のあるうちに、精の付く物を仕入れて、夕餉に出してくれ。さ、帰るぞ。夜戦じゃ夜戦じゃ、ほいさっさ」


 尻を撫でて急かす忠次を、活は再び襟首を摘んで持ち上げる。


「殿下、これにて失礼いたします。茶々様には、活が日に一度は安産をお祈りすると、お伝え下さい」

「う、うむ。ありがとう。ほんにありがとう」


 忠次も、一応は秀吉に別れの挨拶をする。


「さらばです、殿下。某は、七人目を作りに帰ります」

「うらやましいぞ、この助平爺!」

「殿下にだけは、言われたくないですな〜」


 好き放題言って、酒井忠次は聚楽第を後にした。


 

 聚楽第の北門を出ると、活は忠次の体を堀の上に片手で吊るす。


「誰がいつ、ご主人様に発情したと?」


 活さん、激怒なう。


「上司と同僚が三十人は居る場所で、よくも、よくも、よくも、この糞ジジイ」


 忠次の頭上に走馬灯が現れ、三方ヶ原で武田軍三万に半包囲された時の記憶が、しつこくリフレインする。

 信長に『背に目が在るが如し』と称された程に抜け目ない忠次は、活は無闇に怒らせてはいけない女だと見切りをつける。


「あれは、活がわしに惚れた場合を想定して、分かり易い解説を試みた結果でありまして、決して活の性生活に踏み込んだ訳ではなく、あくまで仮定の話でありまして、あ、やめて」


 活が手を離す。

 堀の中にではなく、地面に。


「付いてくるなよ、ばぁーか」


 忠次の手を引かずに、活はズンズンと帰路につく。


「…奥仕えは無理だろうな、あの性格では」


 活の気が鎮まるのを待つ気がない忠次は、うろ覚えの地理知識と乏しい視力を頼りに、歩みを進める。


「北に真っ直ぐ行けばいいだけだ」



 聚楽第の人々が『祝 茶々様懐妊』に湧いて、宴会になだれ込もうとも、石田三成は仕事を続けた。下戸なので、平気である。

 個室で左手に小田原城周辺地図を大きく広げ、右手には、布陣させた各部隊への事細かな兵站計画書が書かれていく。来年以降に勃発するであろう北条征伐の戦略は、既に細部まで煮詰められ始めている。

 検知と兵站整備に史上稀な才覚を発揮するこの男は、軍師・黒田官兵衛が描いた戦略図に、兵站の血流を与えていく。

 二十万を超す豊臣方兵力の、来年以降の戦役は、既に割り振りが決まっている。


「あー、佐吉が、わしを祝うのをサボっとるわー」


 便所に寄った秀吉が、宴会に顔を見せない石田三成の仕事部屋に寄り道する。

 三成の広げていた地図を目にすると、酔眼を俄かに真顔に戻す。


「他の酔っ払いに見られると、面倒じゃ。仕舞っておけ」


 今の処、小田原北条家は上洛して豊臣秀吉に臣従を誓いに来ないだけであって、豊臣軍がフルボッコにする名目がない。名目以外は、全て準備中。


「北条に情報を売りたい奴が、偶に来るでよう」


 超弩級巨大城塞・小田原城を落とし易くする最大の準備は、攻略準備を悟らせない事。本気で守備を固めた小田原城は、上杉謙信が十万を超す大軍で攻めても落ちなかった名城である。北条が籠城に備えて備蓄を増やさぬように、攻める素振りは一切見せない方針だ。

 現在、この件に関わっているのは、数名のみ。

 石田三成は、厭々仕事を中断し、書類を仕舞いながら二人きりの時でしか聞けない話題を振る。


「どうして酒井忠次を殺しておかないのですか?」

「はあ〜ん?」


 秀吉は、石田三成、旧名・石田佐吉くんのビビリに、哀しい顔をする。


「せっかくの下ネタ仲間を、殺せってか?」 

「殿下の寛大さに甘えて、京で腫瘍になる気満々じゃないですか」

「今のわしの周囲にゃあ、そんなのばかりだで。珍しくもない」

「あの顔は、大将首を前にした、武将の顔でした」

「そら、侍女の尻を揉んでいたからだろ」


 話を流そうとする秀吉に、三成は仕方なく話題を切り替える。


「秀康様は、どうなさるおつもりで?」


 徳川家康の次男・秀康は、五年前に人質として秀吉の養子になっている。現在は豊臣の姓も継いでおるが、他にも後継者候補の養子が数名いるうえに、実子も生まれる可能性がある。

 持て余してしまう。


「返す」 

「受け取りますか?」


 返品保証期間を、とっくに過ぎている。

 家康は既に、三男の秀忠に後継者教育を施し始めており、秀康が徳川家に出戻ると騒動の種になる。


「それじゃあ、嫡男に恵まれなかった名家を継がせる。秀康に恥はかかせん」


 主君の気配りに微笑みながらも、三成は最後に聞きにくい事を持ち出す。


「徳川とは、争いませんか」

「無茶言うな。石川数正が来た時の事を覚えておるか? 徳川家康の片腕! 素晴らしき忠臣、石川数正! 一族総出で秀吉に鞍替えし、徳川軍の全てを教えてくれた素晴らしき石川数正!!」


 おどけて言葉を続けようにも、秀吉は酔いが醒めてしまった。


「迂闊じゃった。自惚れておったわ。自分自身の人誑し伝説を、過信しておった。石川数正から徳川家康の内情を吹き込まれた結果、わしは負けてしもうた」


 秀吉の弱気に、三成の家康への憎悪が増す。


「徳川家康と戦う気が、失くなってしもうた。うちの軍勢で五分に戦えるのは、黒田と堀久、島左近ぐらいか。いや、左近は楽隠居中か。せっかく育てた賤ヶ岳七本槍も、実力が分かるだけに及び腰よ」


 秀吉は、家康よりも味方の不甲斐なさに不快を示す光秀を、見咎める。


「佐吉、お主は馬鹿にするが、勝てない相手とは戦を避けるのが正しい反応じゃ。僅かな勝機を見出して図ろうなどと、却って身を滅ぼすぞ」

「そうであろうと、戦わねばならない場合があります」

「わしが死ぬまでは、大丈夫じゃ。そう目くじら立てんでも、ええわ。わしが死んだ後は、好きにせい。信長様が死んだ後の秀吉みたいに、好きにやれ」


 三成は釈然としない。


(天下を取ったのに、徳川に食われるのを待つだけのようではないか)


 美顔を苦々しく歪める様を肴に飲み直しながら、秀吉は佐吉に訓示を垂れる。


「暇を見付けて、忠次に会いに行け。智慧者で知られる名将から、何ぞ下ネタでも教えてもらえ」

「殿下。あの男は、隠居しているようには、どうしても見えませぬ。某の恐れすぎでしょうか?」

「佐吉、お主は人を見る目が確かなのに、戦だけは鈍いの」


 秀吉は、小姓から新しい徳利をひったくるが、思い直して突き返す。


「あれはな、京に残って殿を勤めておるのよ。佐吉みたいなせっかち者が、家康を背後から襲うのに備えてな。たまらんわ、あの心意気」



 天下人からリスペクトされまくっているとも知らず、酒井忠次は帰路で迷っていた。

 真っ直ぐ北へ歩けばいいものの、着いたかどうかが分からない。只でさえ怪しくなってきた視力に加え、日没が近い。


「いやあ、面倒見のいい関白殿下が、面倒見の悪い人材を寄越すとは思わなかった。死因は『尻の撫で方が足りなかった』にしとこう」

「ご主人様の死因は、『減らず口を叩き過ぎた』です」


 至近距離で、活の声が。


「おや居たのか」

「ずっと側に居ましたよ。でなきゃ一度も人にぶつからずに済む訳ないですよ」

「怒っても仕事を果たすのは、誠に立派だ」

「もっと褒めてくれていいですよ」

「早く便所に行かせてくれたら、もっと褒める」

「ちょうど屋敷に着きました」

「ひょっとして、弱気を吐くまで、同じ場所を歩かされたか?」

「お帰りなさいませ、ご主人様」


 活が、忠次の手を取って誘導を再開する。


「さあ、厠はこちらですよ」

「なあ、怒り方を変えてくれないかな? これは体に悪い」


 厠で用を済ませると、居間に連れられて夕食となった。

 四隅に蝋燭が灯され、忠次の視力でも夕食を見分するのに困らない光量が確保される。

 赤飯に猪肉の味噌漬け、玉ねぎの酢の物に、茄子の漬物。汁物は大根の味噌汁。デザートに梨。二人分の膳が、揃えられている。


「ほう、作ったのは、活か?」

「聚楽第の料理人に連絡をして、運ばせました。以後も三食届けて貰えるように差配しました」


 食事は作らないと言っているに等しい。


「便利だなあ、関白殿下」


 忠次は、怒らせない発言を心がける。

 二人して「いただきます」と合唱し、箸を付ける。


「あ。わたし、別の場所で食べるべきですね」


 活が、ここで忠次との身分差を思い出して膳を持ち上げる。

「いいよ、そんなの。どうせ飯も一人で食えなくなれば、一緒に食うんだから」

「…はい」


 活は、ご主人様の仰せに従う。

 忠次は少々溢しただけで、自力で食い終えた。

 活が白湯を出し終えると、提案を一つ加える。


「わたしは薬学も収めておりますので、目薬を作れます。差してよろしいでしょうか?」

「よかろう。差して差して!」


 忠次は、素早い動きで活の膝枕に顔面ダイブする。


「ご主人様。仰向けにならないと、目薬が差せません」

「それは初耳」


 忠次は180度回転すると、目を見開いて活に任せる。左右一滴ずつ目薬を差され、染み渡る成分に快感を覚えながら、忠次は肝心の質問を初日の最後に発した。


「偏屈爺いの世話をする仕事なんぞ、どうして引き受けた?」

「戦働きよりマシです。京に定住できる好機でもあります」

「わしが長生きしたら、婚期を逃すぞ」

「一度しましたので、もう充分です」

「出戻りか? 死に別れたか? 夜の相性が悪かったか? 特殊性癖?」


 活は、忠次の口の中に、目薬を垂らす。


「苦あああああああああああぁぁぁぁ!!!!??」

「風呂の用意をしてきます」


 のたうち回る忠次を放って、活は浴室へと消えた。


「う〜ん。これは手こずるな」


 ひょっとして、秀吉でも手に負えない女を押し付けられたのではないかと、疑ってみる忠次だった。 

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京都桜井屋敷のメイドさん 九情承太郎 @9jojotaro

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