日輪を追う者(旅する人間)

 すでに周りは明るかった。空には日輪のほかに何もなく、そして、どこまでもどこまでも青かった。

 今日も、絶好の日であった。遮る物は何もなかった。空も日も、そうして自分の行く末さえも。

 ここは地の果て。ここより先には何もなく、ここより後にも何もない。己がこの荒れ野に挑んでから、すでに二週間余りが経過していた。食はすでに尽き、水は後三日。もはや、頼るべき物もない。馬もらくだもコンパスも、地図――それはもともとなかったのだが――もない。そんなもの、最初から持っては来なかったのだ。

 なぜこんなことをしたのかと今更ながらに考えてみた。少なくともコンパス程度は入手しておくべきだったと、頭のまだまだ賢しいところが嘆いていた。

 そんな気持ちを醒めた笑いで潰してく。いまさらそんなことを言っても仕方ない。それに己はそれを望んでここに来たのだ。

 何も頼る物もなく一人あること。それを望んでここに来た。

 思えば生まれたときより人任せにしてきた人生であった。

 誕生も成長も、ましてや労働さえも。

 何一つ自分で決めることができなかった。

 自分で決めたという自覚が持てなかった。

 己の人生は機械的であると思えた。

 だからといって役に立つ機械まで捨ててくることはなかったんじゃないかと思う。

 思うのは、きっと心の方だ。そっと胸を押さえてみた。

 そうだな。――そうだ。たしかにそうしていればよかったな。

 やがて己は同意した。確かにその方が良かったに違いない。そうしてそっと考える。

 きっと心がそんなことを言うのは疲れ切っている体を思いやってことなんだろう。実際己の体は歩くのがやっとのふらふらだった。そんな心に思いやられた体は、こんな馬鹿げた冒険を考え、始めた能なしの頭を恨み、憎んでいた。全身の痛みがそう訴えていた。そんな自分の残り二つに己は呼びかける。

「君たちは生きて、痛いことさえなければ、いいんだろう?」

 それが己の今までの人生だった。それを己自身で拒否したのだ。そうだ。今不平を零している心がまずはじめにそれを望んだのだ。こんな風でいたくないと。体だって本当のところ、それを望んでいた。己の力を試してみたいと。頭はむしろそれに引っ張られた形だった。

 だが、ここにきて己の心と体は頭を見捨て、裏切った。いや、よくもここまで我慢していたと言うべきか。

「けれども、残された頭としては、寂しいことだ」

 頭をかきかき呟く。頭に巻いた白い布はすでに厚く塩をふいている。髪も布の中で硬く固まっていた。思えばずっと足に鈍い痛みを感じていた。いままでずっと休み無しで歩きづめだったのだ。こんなに長く歩いたのは生まれて初めてだ。疲労と苦痛は急に臨界点を越えた。もう一歩も歩けない。

 だから、もう、歩くのは止めよう。己は糸の切れた人形のようにその場に尻をつく。そうして、ばらばらになっていた己はようやく一つになった。

「……」

 気持ちよかった。ようやく本当の自分に成れたような気がする。大きく息をついた。あたりを見渡す。どこまでもどこまでもなにもない。空にも日輪以外に何もない。どこまでもどこまでも澄んだ空。

「ああ、これが見たかった」

 今までもこの景色を見ていたはずなのに、飽きるほどこの景色の中にいたはずなのに、いまさらになって、そう思える。

 頭はきっと、この景色が見たかったんだろうと思う。

 心と体と一緒に、この景色を見たかったんだろう。

 写真や絵、想像ではなく、実際に足を運び、実際にそこを歩き、実際にそこの中で、

この景色が見たかったんだろう。

 心はそう思い、体もそれに同意する。この疲労も痛みも意味があったと。

 つかの間、己は幸せだった。

 そうしてこの景色を見た後に、素直にこう思える。

「ああ、生きていたい」と。

 けれども、それはかなわないことだった。

 己には、至高の幸福の後に底のない絶望が待っていた。

 せっかく、今まで思えなかったことが思えるようになったのに。

 いままで背を向け続けてきたものにようやく向き合うことができたのに。

 なんてことだと心が叫び、体が己の肉体能力のふがいなさに震え出す。

 そんな中、頭だけが冷めていた。

 いや、幸せだった。

 幸せの絶頂だった。

 生の意味を知り、打ち震えていた。

 死の恐怖を知り、打ち震えていた。

 今まで己はそんなことさえも知らなかったのだ。

 そうしてそれはすばらしいものだった。

 ほんとうにすばらしいものだった。

 今までの人生が無価値に思えるほどすばらしかった。

 いや、今までの人生は無価値であった。それがわかった。

 そうして、今このことさえも無価値だった。それがわかった。わかってしまった。

 だからこそ、幸せなのだった。

 とても、とても、幸せなのだった。


 ――この物語はここで終わる。

 このあと、奇跡が起きて彼が救い出されまた再び元の生活に戻って今思ったことを忘れ去ったとしても、死ぬ前に思い直し、やはりもとの暮らしの方が良かったと思ったとしても、もう、すぐ何秒か後に何も考えられなくなったとしても、それ以外のどのようなことが起ころうとしても、

 彼の幸せは何も変わることはない。


 彼は勝利したのだ。それ以外に、何をたたえよと言うのか?

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これら十三編 remono @remono1889

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