第16話

 大晦日の日、世間がカウントダウンを前に浮かれる中で、日野間優子は警察からの連絡を受けた。群馬県で発見された水死体について確認してほしい、という話だった。どうして自分にその話が来たのか、彼女は最初見当が付かなかった。群馬に知り合いなど居たかしらと暢気に考えて、弟に電話をしてみたが繋がらず、不安が沸き起こりあわてて身支度をすると飛び出すように部屋を出た。

 そこには当然両親の姿もあった。母は泣き、父は呆然としている。優子はすっかり変容した自分の弟をそこに認めた。

「高科香織さん、こちらは高科さんの弟さんに確認していただいたもうひとつの遺体の身元ですが、こちらの方と宿泊していた旅館のほうから、荷物は残したままなのに二人と連絡が取れないという話を伺いまして。何せ自殺の多い所でしたから」などと説明を付けてくれるが、優子の耳には半分も入ってこなかった。「こちらが遺書となります」

 そうして提示された便箋には、感謝の言葉ばかりが並んでいた。

 幼い頃、友達の少なかった自分によく構ってくれたこと。

 泣き虫でいじめられていた自分を守ってくれたこと。

 高科純と出会うまで、自分は優子にばかり救われていた。

 両親とも自ら一線を引いてしまった手前、優子は唯一無二で、大切な人間である。

 正孝さんに振られたことはショックだろうが、優子なら何とかなると思うよ。

 そんなことを書き連ねたものだった。丁寧なもの、書き殴ったように乱雑なものが入り混じってはいるが、これは弟の字に間違いない。

 優子はそのとき、泣かなかった。弟が死んだという事実が理解できなかったせいもあるし、あんなに順調そうに、幸せそうに過ごしていた二人が心中などと厭世的なことをすることも、受け入れられなかった。

 思いがけず、笑っていた。

 その場に居る誰もが、優子のことを見た。

 正孝さんの作った穴は、表面上もうなんともない。大きなものだったが、それを作らせるような要因が、自分の気付かないところであったのかもしれないと思えたからだ。

 しかし翔太の穴は、どうやって納得すればいい? 全く関与しないところで、勝手に居なくなってしまった。そんなものを、私はどう処理すればいい?

 わからなくなって、それが可笑しかった。

 普段どれだけ意識しなくても、弟のことを愛していたのだろうと、優子は思った。

 ただ普通に立っているのが辛い。

 誰かに頼りたい。

 そう思って、まず浮かんだのは高科純だった。彼も、姉である高科香織を失った。

 でも彼に頼るのはやめにした。高科純は翔太と仲良くしていた、いわば親友である。姉と親友を同時に亡くして、分かち合うにも差があるし、今の彼には「頼りたい」という欲求を支えられるほどの芯はないだろう。声を掛けても、ずぶずぶと埋もれていくだけのような気がした。

 それならば、正孝さんだろうか?

 しかし彼に甘えるのは、優子にとって良い方向に作用しないことは明白だった。最初はどうであれ、きっと次第に彼の隣に戻りたいという別の感情が沸き起こってきてしまうに違いない。翔太の死を、自分の利益のために使うのは嫌だったし、周囲にそう思われたくもなかった。

 両親の様を眼前にすると、彼らに手を伸ばすのにも抵抗があった。

 程よく距離感があって、頼っても支えてくれそうな人。

 優子はくずおれそうになる身体を、そうやって思考を展開させることで何とか保った。


 当然、一緒に帰ろうと両親に言われたが、優子はこれを拒否した。ぼんやり、ゆっくり、電車で帰るよ。そう伝えると、彼らも無理強いはしなかった。

 父の運転する車を見送ってから、ようやくクリスマスの喧騒からほっと一息つけたのに、年末年始も忙しないことになるな、とあえてどうでもいいことのように考えた。優子はそうして、なるべく直視しないようにしていないと苦しくて、辛くて、堪らなかった。

 遺書として渡された弟からの手紙を、電車の中で読み直した。どうしてこれを直接伝えてくれなかったのだろう。何があったのだろう。私に話すには、難しいことだったのだろうか。優子の思考はどうしてもそこに行き着いてしまう。だって、こんなのって、ないよ。認めたくない。

 死んでしまったことは変わらないのに、何をどうしたってもう戻ってこないのに、どうして人はそれを悲しく思ってしまうのだろう。そんな感情の箍がなければ、自然の摂理として、もっと深く受け入れられたと思う。人間は不完全だと言うのなら、この部分は間違いなく欠陥だった。

 ポケットの中でスマートフォンが揺れる。着信を知らせるランプが灯っている。周囲を見回して、人が居ないことを確認すると優子はそれを受けた。

「もしもし」

「お久しぶりです」

 その声には聞き覚えがあったが、今は顔も名前もおぼろげである。

「どうしたの?」

 それでも今、誰かが声を掛けてくれることは嬉しかった。この通話の相手は、私の現状を知りもしない。知るはずがない。当たり前に、日野間優子として扱ってくれることだろう。

「いえ。急に、声を聞きたくなったんです」

「何それ」優子は笑ったが、それは渇いたものだった。「用事があったんじゃないの?」

「用事は、ないです」強いて言うなら、と相手は続けた。「そういえば、優子さんにちゃんと謝っていないなと思って」

「謝る?」優子はその言葉に心当たりがなかった。「何を?」

「お店、急に辞めてしまったことです」

 ああ、と思った。

 それでようやく、相手の顔も、名前も、ちゃんと思い出せた。

「別に、いいんだよ。何とかなったし」窓外を流れる見慣れない景色に視線を放りながら、何を考えるにも気力の湧かない頭のまま、思いついたことをへらへらと話す。「それより今、私どこに居ると思う? なんと群馬」

「群馬ですか?」

「何でだと思う?」

「さあ」

「私にもよくわからないよ」

 ようやく、今、泣きそうになっている自分に気が付いた。

 翔太は死んだ。

 それが、遅れて、頭の中に、しっかりと刻み込まれる。

「ねえ」

「なんですか?」

「東京に着いたら、遊ぼうよ」

「遊ぶ?」相手は驚いたような声を出した。「いいんですか?」

 その言葉の意味を理解できないほど優子も馬鹿ではない。

 その人がケーキ屋を辞めた理由は、まさしく今通話している優子に対し告白をしてきたからだ。あなたが好きです。前向きに考えてください。そのように言葉を並び立て、恥ずかしそうに、愛を伝えてきたのだ。しかし優子はそれを断った。今みたいに「よくわからない」と言って。

 事実、優子は女性から告白をされたことが今までになかった。

 だから理解も出来なかったし、受け入れられなかった。結果として、居づらくなって彼女は辞めたのだ。

「うん。今は、何も考えずに遊びたい気分なんだ」優子は呟くように言った。相手に声が届いているのかも、意識しなかった。「ナイスタイミングだよ、凄いね」

「優子さんのことなら何でもわかりますよ」

 彼女はそう言って、小さく笑った。身内を亡くしたばかりだと知らないからそう出来るのだろうと、優子は思った。今はこうして普通に接してくれることが嬉しかった。多分それは、両親にも高科純にも出来ないことだからだ。きっと正孝さんもすぐにこれを知る。そうなったら、私を「可哀想な人」として扱うだろう。優子はようやくその考えで腑に落ちる。私にはそれが堪らないのだ。翔太の存在は、死は、利用すべきものではない。それをわかってくれそうな最適の距離感は、弟を知らない人との間に出来る、このくらいのものなのかもしれない。

「じゃあ、東京に着いたら教えてください。すぐに向かいます」

「うん、それじゃあね」優子は思い出した名前を、きちんと使った。「飯田さん。また後で」

 電車に揺られながら窓外の景色を見ているうち、許容しがたい事実を落とし込むために、優子は眠った。

 何かを失ったとき、つまり弱っているときに支えてくれるものに対して人は依存する。

 あるいはそれは、甘える先を見つけた安心からかもしれない。

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梟の夢見た構図 枕木きのこ @orange344

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