第4話 どこにも行けない足

 けれど、僕はそれを見送る。

 彼女も律儀に電車が過ぎるのを去ってから線路へ飛び出した。

 急に目的を見つけたみたいに走り出す。

「なお、待って!」

 なおは線路脇の草むらに飛び込んで、しばらく走った。風が通り抜けたように草むらが傾いていく。カンカン、カンカン。カンカン、カンカン。追いかけようとした矢先、遮断機が降下を始めた。なおの目的が分からなくて僕は立ち尽くしたままだ。

 カンカン、カンカン。カンカン、カンカン――

 電車が通過する。ここへは止まらない快速列車だ。風を巻き起こして去っていく。

 遮断機が上がってからも僕は立ち尽くしていた。目を凝らして草むらを見つめた。

 何も見えない。彼女の白い足が見当たらない。

 彼女が帰ってくるのを待って、僕はそこにずっと立ち尽くしていた。

 一時間もすると疲れてきて、空腹を思い出して僕は帰路へついた。彼女はきっと帰ってくる。僕はなおを信じている。だから今は、家へ帰ろう。


   ***


 なおのいない夜は物足りなかった。

 結局、翌朝になっても、学校から帰ってきても、なおの姿はどこにもなかった。 

 彼女は線路へ消えてしまったのだろうか。

 僕が名前を呼んだことが気に障ったのか。

 それとも、僕は彼女の誘いに乗り切れなかったのだろうか? 

 チャンスを無駄にしてしまったのか。

 あのとき線路で死ぬべきだったのかもしれない。

 そう思うと、後悔と焦りに胸が痛んだ。

 なお。もう一度会いたい。次は絶対について行くから。

 眠れないまま夜を過ごして、明け方になって始発前の駅へ向かった。

 早朝の町はしんとして、一足先に冬を迎えたように冷え込んでいる。

 僕は線路へ立ち入って、彼女の消えた草むらを歩いた。彼女がどこかに潜んでいる気がして、時折名前を呼んだ。隣駅へどんどん近づいている。彼女の気配は感じられない。

 貨物列車や回送列車が来るんじゃないかと警戒したけど、まだその様子もない。

 もし近づいて来たら、僕は今度こそ列車に身を投げようと思う。

「なお。なお、なお」

 答えて、合図をしてほしい。

 もし、きみが僕にもう一度会いたいと思うなら。

 僕をどこかへ連れて行ってくれるなら。

 お願いだから、返事をして。

 心の中で念じても、何も手ごたえはない。

 僕はプリクラの彼女を思い出す。

 繊細さを感じ取れない明るい顔をしていた。

 あの子は線路に身を投げたとき、一体どんな表情をしていたのだろう。

「なお……」

 どんどん空が明るんで、人通りも多くなる。

 そろそろ線路から離れたほうが良いかもしれない。焦って、恥ずかしくて、僕は注意力を欠いていた。

 足が何か、ぬちゃっとしたものを踏んで、きっと犬の糞だと思って顔をしかめた。

 嫌々足元を確認する。それは、確かに犬の糞に思えた。でも違う。もっとどす黒くて、大きなものだ。蝿が飛び回っている。しなびたような、だけど水気のある、ふしぎな汚物だった。なにか布が引っかかっている。ようやくそれを理解して、体中が怖気立った。

 足。これは足だ。なおの足だ。僕と暮らした彼女の足。だけどとてもそんな面影はない。

 腐って、どろどろになってしまった皮膚。体液を吸った靴下は使い古した雑巾のような色をしている。匂いはよく分からなかった。僕は草むらを出て、眠気不足の頭を抱えた。僕は彼女と再会を果たした。彼女は見つけて欲しかったのだろうか。

 僕は近くのコンビニの公衆電話でJRに電話をした。たぶん遺体の一部を見つけた。場所だけ告げて電話を切る。ああ、なんだかすごく疲れた。

 ここから隣町の駅のほうが近い。そこから電車へ乗って帰ろう。今日は学校をサボろう。

 でも家にも居たくない。どこかへ行こうか。一体、どこへ。

 なおとはもう会えないだろう。彼女はどこへ行きたかっただろう。これから僕が行くはずのどこへも彼女は行けない。死んでしまうとはそういうことだ。僕はまだどんな遠くへだって行けるんだ。生きているとはそういうことだ。

 それは、きっと喜ばしいことだ。僕には全く、どこへ行きたいかなんて分からないけど。

 あまり馴染みのない隣駅へ向かう。

 もう始発が停まっていて、朝帰りの人や出勤の人がまばらに乗っている。

 発車まであと十五分。

 僕はそれを見送って、次の電車をホームでじっと待っていた。

 やがて次の列車が来るとアナウンスが流れる。

 僕は黄色い線の外側に立って列車を待った。このまま足を前へ踏み出せば、僕は彼女と同じところへ行ける。カンカン、カンカン。カンカン、カンカン。

 すぐそばで警報機が鳴っている。僕を後押ししているように。

 黄色い線の内側へ下がるようアナウンスが告げる。

 線路を軋ませ、なじみの緑のラインの埼京線が流れ込んでくる。

 僕の後ろ足は点字ブロックを踏んでよろけた。

 きっとこの足を踏み出して僕はいつでも彼女へ会いにいける。

 そう思うと、今日じゃなくてもいいと思った。今日はもう面倒臭い。

 それよりポテトチップスが食べたい。コンソメ味がいい。

 僕はがらがらの電車に乗って住み慣れた町へ運ばれていく。

 何も、今日じゃなくてもいいんだ。

 僕はこの足を動かして、いつだって、どこへでも行けるのだから。

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どこにも行けない足 詠野万知子 @liculuco

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