第9話 球は霊なり


500台湾ドル紙幣には、野球少年たちが印刷されております。野球(現代漢語では「棒球バンチウ」)は、台湾の国技と言えるほど、深く愛されています。

WBC(ワールドベースボールクラシック)という、野球のワールドカップと言うべき世界大会でも、台湾はすでに強豪国の一角であります。

第3回大会が開かれた2013年の3月8日、台湾代表チームは大会を2連覇している王者、日本代表チームと東京ドームでぶつかりました。アウェーでの試合でしたが、台湾は堂々と互角に渡り合い、最後の最後まで勝敗の分からない、手に汗握る好勝負を演じました。

台湾の野球は、日本の統治時代(1895年〜1945年)、日本人によって伝えられました。現在の台湾には、プロ野球チームのリーグもあります。日本戦で登板した王建民投手など、メジャーリーガーも多数、活躍しています。そんな台湾の野球史の原点には、とある日本人の伝説があります。


(伝説の監督)

近藤兵太郎(1888〜1966)は、愛媛県松山市で生まれ、松山商業高校に入学し、創部して間もない野球部で野手として活躍し、主将を務めました。早稲田大学を卒業後、松山商の監督に就任し、1919年 (大正8年)、松山商を初めての全国大会出場に導きました。近藤監督はその秋、日本領だった台湾に渡り、簿記の教諭になりました。そして1928年(昭和3年)、台湾の西南部に位置する嘉義にある、嘉義農林学校の野球部の指導をすることになるのです。

「マムシにさわっても、近藤監督にさわるな」と言われるほど、おそろしく厳しいお人柄で、松山商業流の指導法で部員たちを徹底的に鍛え始めました。当時、台湾にある学校の野球部員は、本土から移住してきた日本人の子弟が大部分でしたが、近藤監督は、漢民族であろうと、台湾の先住民族であろうと、人種に関係なく、実力さえあれば誰でも公平にレギュラー選手に選びました。まったく無名の弱小校だった嘉義農林学校は、近藤監督の指導のもと、またたく間に生まれ変わり、台湾での予選大会を無敵の強さで勝ち抜きました。1931年(昭和6年)、甲子園での全国大会に出場し、初出場ながら準優勝という快挙を成し遂げました。レギュラー選手のうち、日本人が3人、漢民族が2人、先住民族の高砂族が4人という、人種の垣根を越えた混成チームの快進撃はとてもセンセーショナルでした。日本中のいたるところで街頭ラジオに黒山の人だかりができて、嘉義農林学校、略して「嘉農」に惜しみない喝采を送りました。決勝戦で中京商に敗れはしたものの、マスコミは「天下の嘉農」と評し、その健闘をたたえました。今年2月、嘉農の劇的な快進撃の実話をもとにした映画、「KANO」が台湾で公開され、連日満員の大ヒット映画になりました。永瀬正敏さんが近藤監督を熱演し、この作品でメガホンをとった馬志翔さんは、「昭和の台湾」を完全に再現しました。この映画を見た誰もが、ある種のノスタルジーに駆られることと思います。この映画は、野球の話だけではありません。台湾の水利事業に大きな貢献をした八田與一(1886〜1942)を、大沢たかおさんが演じています。八田は当時、世界最大規模の烏山頭ダムを建設し、毛細血管のように細かい水路をはりめぐらし、常に干ばつの危険にさらされていた嘉南平野の隅々までに水を供給することに成功し、台湾の大地を潤しました。


(飲水思源)

中国大陸で長年暮らした私にとって、この映画はとても新鮮でした。中国では、残酷な日本兵たちが暴虐のかぎりを尽くすテレビドラマが毎日のように放送されています。「日本統治時代の同化政策」というのは、中国人や韓国人に限らず、日本人ですら、諸外国に多大な迷惑をかけてしまった「負の歴史」と受け止めています。しかし、少なくとも台湾人にとっては、「古き良き時代」だったようです。「飲水思源」という言葉が中国語にあります。水を飲むときは井戸を掘った人の苦労を思い、感謝する。この映画には、台湾人の持つ「飲水思源」の精神に充ちあふれています。恩義は岩に刻み、恨み辛みは波打ち際の砂上に記すべきであることを、台湾は教えてくれました。逆に言えば、恨み辛みを岩に刻み、恩義を波打ち際の砂上に記していたのでは、決して関係が良くなることは望めません。


(野球とベースボール)

近藤監督は、簿記の教諭だけあって、数字しか信じない現実主義者です。野球は確率のスポーツですから、理詰めで思考することはとても重要です。なんの人種の差別もなく、レギュラーの選手を公平に選んだのも、勝利という結果のために、最も合理的な選択をしただけに過ぎません。しかし近藤監督がデータと数字しか信じない、ただの現実主義者だとしたら、人の心は動かせません。教育者たるもの、「気合い」と「根性」の神話を信じ、「勝敗以上に大切なもの」を教えるロマンティストでもあったはずです。格闘技と武道は、似て非なるものです。ベースボールと野球もまた、似て非なるものです。「野球道」というべき日本の野球は、「勝てれば良い」、「強ければ良い」という結果だけを求める力比べではありませんし、「楽しければ良い」という娯楽でもありません。近藤監督は、監督に就任したばかりのころ、無造作にグラウンドに入ろうとする部員たちに、「球場は神聖な場所だ。入るまえに必ず一礼し、感謝しなさい。」と一喝します。部員たちが試合に負けて悔し泣きをしている時も、勝ってうれし泣きをしている時も、近藤監督はいつも、「なにを泣いとる」と言って叱咤します。試合が終われば、勝敗はどうであれ、部員たちを粛々と整列させて、対戦相手に深々とお辞儀をして、感謝と敬意を示します。「球はたまなり。たま正しからば、球また正し」この信念を、近藤監督は生涯、貫き通します。


(東京ドームに咲いた大輪の花)

2013年の3月8日、東京ドームで行われた日本対台湾戦。この2日前、ある東北出身の日本人が、ツイッターにてこうつぶやきました。


「WBC、日本は初戦が台湾に決定。この試合に見に行かれる方、先般の東日本大震災への台湾からの多大な支援のお礼の横断幕やプラカードをお願いします。WBCを通じ、日本と台湾の信頼関係を深め、私達が本当に台湾に感謝している事を伝えてください」


このツイッターの呼びかけに応じた、たくさんの日本人の観客たちは、「謝謝台湾」など、思い思いの感謝の言葉を書いたプラカードを手に試合を観戦し、その模様は台湾にもテレビ中継されました。試合はもつれにもつれ、延長戦の末、4対3で辛くも日本が薄氷の勝利を収めました。台湾チームの最後の打者は、たとえアウトにされると分かっていても、果敢にも頭から飛び込むヘッドスライディングを見せました。両チーム、まさに全身全霊、魂のこもった良い勝負でした。試合後、惜しくも敗れた台湾チームの選手たちは、なぜかピッチャーマウンドに集まり、背中合わせで円陣になりました。次の瞬間、台湾チームの選手たちは一斉に、スタンドに向かって深々とお辞儀をしたのでした。野球を台湾に伝えた先輩である日本に敬意を払い、そしてアウェーにもかかわらず応援してくれた観客の人々に感謝の意を示しました。実に天晴れではありませんか。台湾の選手たちが円陣を組み、一斉にお辞儀をしたその姿はまるで、近藤監督が台湾で蒔いた種が、80有余年の時を経て、東京ドームのマウンドの上に大輪の花を咲かせたようにも見えるのでした。


合掌


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