第8話 孫文の知音
中国の春秋時代、
初代中華民国の臨時大総統、孫文(1866 ~1925)は、「建国の父」と呼ばれ、中国大陸と台湾、双方から支持される稀有の革命家です。私は中国に赴任中、広東省中山市にある孫文の生家を訪れる機会がありました。孫文は中国において「
(学者と革命家と僧侶)
孫文がイギリスに亡命中の1896年3月16日の事です。
孫文は、ある日本人とロンドンで知り合い、たちまち意気投合。 よほど気が合ったのか、お酒を飲めない孫文が、大酒飲みの彼と毎日のように語りあうようになりました。 その日本人は、政治家でもなく、財界人でもありません。 紀州、和歌山生まれの一介の学者です。
その日本人は1900年にイギリスから日本に帰国しますが、
翌年の2月13日、孫文は和歌山市内にある彼の家にまで足を運び、旧交を温めました。かの孫文が知音と評した彼こそは、
紀州が生んだ巨人、
熊楠は生涯、一切定職につかず、学位も取らず、裸一貫でアメリカやイギリスに渡り、生物学、菌類学、民俗学など、好奇心のおもむくまま、ひたすら学問を貪った大博士であります。
先日、理化学研究所の小保方晴子さん率いる研究チームが、新型の万能細胞(STAP細胞)を作成し、イギリスの科学雑誌「ネイチャー」に掲載されました。後日、この細胞の論文について、なにかと物議を醸しました。
この世界的権威のある科学雑誌、「ネイチャー」の歴史は古く、1869年に創刊されています。26歳の南方熊楠は、イギリス留学中に「東洋の星座」という題の論文を「ネイチャー」に寄稿し、1893年10月5日号に掲載されました。これを皮切りに、熊楠は植物や民俗学など多分野での論文を「ネイチャー」に次々と発表しました。生涯に一度でも「ネイチャー」に論文が掲載されることは、研究者として大変に名誉な事です。「ネイチャー」に掲載された熊楠の寄稿文は、その数なんと51篇。まさに圧巻の記録であります。
熊楠がロンドンに滞在中、孫文以外にもう一人、親交を深めた人物がおります。
熊楠とロンドンで知り合ってから30年にわたる間、膨大な書簡のやり取りが記録として残されております。 それは手紙というより、もはや論文と言ったほうがいいような質と量です。熊楠は、土宜法竜あての書簡の中で、自然科学と仏教的縁起が融合した世界観を図に顕しました。文系も理系も、貪欲に学んだ熊楠の思想をそのまま形にすると、直線と曲線が幾重にも重なり、あたかも曼荼羅のような模様を描きます。この図はのちに「南方マンダラ」と呼ばれました。
(ふたりの共通点)
紀州は、日本史が生んだ二人の天才と縁深い土地であります。 一人は紀北の伊都の郡、高野山に入定された弘法大師空海。 そしてもう一人、南紀の田辺に眠る南方熊楠。
生まれた時代も、活躍した分野もまるで違いますが、 この二人の生き方は、どことなく似通っているのです。 両者とも、幼少より神童の誉れ高く、エリートの道を進むも、 名門の大学を中退します。 教室で学ぶことより、山野を
時の天皇陛下のおぼえめでたく、 それぞれ拝謁するご縁をいただいております。816年、 嵯峨天皇は、高野山を真言密教の道場として、弘法大師空海に下賜されました。 1929年、昭和天皇が田辺湾の
(マクロのいのち、ミクロのいのち)
文字で明らかにされた仏教を
空海が見守る密教の聖地、高野山。熊楠が保護運動をして守った、粘菌の宝庫である原生林、熊野古道。和歌山県にある、この二つの場所が併せて世界文化遺産に登録されています。 お二人が見つめる世界には相通じるところがあり、時空を超えた知音と言えるでしょう。命あるかぎり、われわれの誰もが、この世に留学している留学生です。先輩たちのように、貪欲に学びたいものです。
この惑星には、和歌山県という教室があります。
合掌
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