「帝都の夜に潜む罪」書き下ろしアナザーストーリー!

富士見L文庫

番外編 書き下ろしアナザーストーリー

貴音たかね、入るよ」

 早朝。

 長屋の戸をからりと開け、瑞垣みずがき青海あおみは幼馴染みの暮らす長屋に足を踏み入れる。

 幸いにして主の敷嶋しきしま貴音は今日は女性を連れ込んでいないようで、やけに眠そうな顔でのっそりと煎餅布団から身を起こした。

「何だよ、こんなに早い時間から」

「こんな時間って、もう九時だよ」

「俺は明け方に寝たんだよ」

 青海は貴音が挿絵を手がけた新聞が刷り上がったので、それを持ってきたのだ。

「九時? おまえ、会社は?」

「昨日、警察に詰めてたから今日は休み」

「へえ、平日が休みとはいいご身分だな」

 青海は東都日報の新米探訪員。探訪と仕事を説明すると不審な顔をされるが、要は市井を歩き回って新聞記事にするネタを集めてくる係のことだ。これを社に戻って記者に渡すと、記者が上手くまとめて記事にしてくれる。

 一方、貴音は東都日報と契約している絵師で、新聞記事にちょっとした挿絵を描いたり、今となってはかなり珍しい錦絵新聞という絵入りの大判の新聞に、記事に添える迫真の浮世絵を描いたりしている。その端整なご面相に反しというか比例してというか、貴音は凄惨な事件の絵がとりわけ上手く、通称は『血みどろ貴音』と呼ばれていた。

 青海は貴音と幼馴染みで同じ長屋に住んでいるため、こうして新聞社と貴音のあいだの連絡係としてかなり重宝に使われていた。

「あのさ、花見に行かない?」

 自分の持ってきた刷り上がったばかりの新聞を上がり框に起き、青海はそう提案する。

「花見?」

 欠伸混じりに呟いて、貴音は不思議そうに首を傾げた。

 もとより綺麗な顔立ちをした男だが、寝起きのところなど奇妙な艶を感じさせる。

「誘う相手を求めてんじゃねぇか?」

「で、でもね、国府台じゃ桃が見頃なんだって。ほら、今、美人画描いてるんだろ? 何か参考になるかもしれないし」

 三和土から身を乗り出した青海は新聞の一点をとんとんと叩き、それからはっとする。

 近づいてきた貴音がそれを手に取るより前に、さりげなく新聞を脇にやって「どうかな」と強張った笑みを浮かべた。

 貴音は青海の真意を探るようにじっと目を眇め、それから首を縦に振った。

「いいぜ。おまえの奢りならつき合ってやる」

「僕の奢りって、おまえのほうが収入はいいじゃないか」

 ぼやきつつも、誘ったのは自分だったのでそれ以上の文句はなかった。

「どうせ市川くんだりまで行くんだ。弘法寺でも見物しよう」

 市川までは昨年の夏に鉄道が開通したばかりで、このあたりから出向くのもだいぶ便利になった。

 弘法寺というのは市川にある日蓮宗の有名な寺で、千年以上の歴史があると聞いている。生粋の江戸っ子の青海も、そこまで足を伸ばしたことはなかった。

「弘法寺って、涙石があるんだっけ?」

「そうだ」

 貴音が嬉しげににやりと笑う。

「昼間だけど、怖いのは、僕、ちょっと苦手だなあ……」

「四六時中しっぽり濡れてるってだけだろ」

「し……そういう誤解を招くような言い方はよくないと思うんだけど」

「何だ? これくらいで赤くなるなんて、だからおまえは奥手なんだよ」

 ついむきになり、唇を尖らせて反論する青海をよそに、貴音は手早く着物を着替えて羽織を一枚羽織った。

 白い膚に、艶やかな髪。それから切れ長の目。

 どこをどう見ても貴音は美形で、こうして家に閉じこもって四六時中絵を描いているのが惜しくなるくらいの色男だ。

 普段はこちらがびっくりするほど延々と引きこもり、食事さえも差し入れで済ませる貴音が、珍しく出かけるのに乗り気なのは意外だった。

「行こうぜ」

 神田の町はさすがに人々が動きだし、賑やかだった。

「さて、本当に涙石は濡れてるのかね」

 貴音の紅い唇がにっと綻び、刹那、青海はその表情に見惚れてしまう。

「……どうかな」

 弘法寺は千個以上の石からなるという石段があるが、そのうちの一つがいつも濡れているため涙石と呼ばれている。

 その由来は、幕府の時代にまで遡る。

 日光の権現様の造営のために使用する石材を伊豆から運ぶ途中、船が市川近辺で動かなくなってしまった。そこで困り果てた担当の役人は、幕府の許可を得ず、その石を下ろして寺の石段を作ったのだという。けれどもその責任を問われた役人は石段で切腹させられ、そのときの血と涙が沁みて今でも濡れているのだとか。

 どちらにしても薄気味が悪いが、本当に今でも濡れているかどうかは確かに気になってしまう。

「でも、僕たちの目当てはあくまで桃の花だからね。いい?」

「はいよ」

 東京駅に着いた二人は切符を買おうとして、貴音が不意に足を止めた。

 ……あ。

 見るからに仕立てのよい礼服に身を包んだ男性の姿を認め、その伶俐な顔立ちに見覚えがある気がして青海は眉を顰める。

 そうだ。

 あれは、当代の清澗寺せいかんじ伯爵じゃないか……。

 貴音はというと気づいているのかいないのか、駅弁を売っている老人と何かを話している。

 そもそも、その血筋だけを考えれば、貴音は青海とは違う世界の住人なのだ。

 貴音はそれなりに名門として知られる清澗寺伯爵家のご落胤だが、幼くして捨てられ、絵師である安和家に預けられた。

 そんな貴音が生家に対する様々な思いがあるようなので、できるだけ、清澗寺家の話題は避けていた。

 なのに、こんな偶然があるなんて。

 今日だって花見に誘ったのは、貴音の挿絵が載った新聞には清澗寺家の話題が大きく載っていて、どうしても見せたくなかったからだ。夕方になれば一杯引っかけて新聞など見向きもしないだろうから、それまでをしのごうと思ったのだ。

 視線を落とす青海に気づいたらしく、草履を突っかけた貴音は「ほら、早くしようぜ」と声を掛けてくる。

「国府台の桃見物と来たら、かなり混むらしいからな。ちゃっちゃと行って旨いもんでも喰おう」

「……うん」

 少しばかり元気をなくしてしまった青海を見て、貴音は微かに笑った。

「そうへこむなよ」

「え?」

 貴音が慰めてくるとは至極珍しく、青海は目を見開いた。

 いったいどういうことだろう?

「清澗寺財閥が、社運を賭して名古屋のとある企業と交渉を始めるってのは有名な話さ。これだけ大きな取引となると、当然のことながら財閥の総帥がわざわざ出向くはずだ。おおかたおまえが見せたくなかった記事ってのも、それに関してのことだろ」

「……見出ししか見てなかった」

「やっぱりな」

 貴音の返答に、青海は「あ」と呟いて思わず口を噤む。

 今のは完全に、鎌を掛けられたのだとわかったからだ。

「今の、どうしてわかったんだ?」

「新聞を見せたくない様子だったから、清澗寺家に関する大きな記事が載ってると踏んだ。俺の推理もあながち間違ってなかったらしいな」

 間違っていないどころか、いつも、貴音の推理力には助けられてばかりだ。

 しかし、それを自分に対して発揮されるとは夢にも思わなかった。

「……ごめん。」

 気を回しすぎていたことを知られてばつが悪くなったが、からかわれるかと思いきや、予想に反して貴音は微かに唇を綻ばせた。

「なに、それくらい大したことじゃない。旨いものといい女で手打ちにしてやるさ」

「旨いものはともかく、いい女は僕には無理だよ」

「仕方ないやつだな。でも、おまえが新聞を隠したわけを考えてたから、十分に気は紛れてる。有り難い話だよ」

 それならば、それでいい。

 貴音なりの遠回しな感謝の言葉を耳にして、青海はほっと胸を撫で下ろす。

 こんな気分で出かけられるのなら、天気も相まって今日はいい花見日和になりそうだった。

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