第5話 鴻鵠の志 1


 「ハハハハハ。もう駄目だ。死のう」


 子供に悪影響を与えるとしか思えない内容の発言が、子供が泣き出しそうな声色で響き渡る。何度か木霊した声は周囲の空気を淀ませるほど失意や怨嗟に満ちていた。

 『鷺の浮き巣』で人知れず報告会が行われていたのと同刻の深夜。場所は数時間前に一人と一匹から突如襲撃を受けた件のLPM生体応用研究センターである。広大な敷地に二十以上の研究棟を格納する、人の世に大きな影響力を持つ最先端科学の発信地にして理系産業のロールモデル。

 潤沢な設備が合理的、画一的にデザインされた、良く言えばすっきりとまとまり、悪く言えば殺風景なセンター内――その中央にある第一会議棟。政治家が立てば即座にカメラのフラッシュが殺到しそうな演壇を備え付けた、百人単位で定期の研究報告会を行う為の空間だったが、今は演壇と最前席の間のスペースに二人の人間がいるだけだった。


 「センター長、気を確かに。まだ何とかなります」がっくりと膝をつきうなだれる白衣の人物の肩を、同じく白衣の部下らしき者が揺する。二人は上司と部下、大規模な施設を束ねる研究センター長とその職員である研究者という関係ではあったのだが、現在上司側の人間に地位からくる威厳や鷹揚さのようなものは全く感じられず、笑っているのか泣いているのか無表情なのかもよく分からない。年齢に対して白髪が目立つ以外は、理知的でスマートな印象を与える、紳士的な風貌――しかし現在は悲嘆に呑まれ見る影もない。

 「アハ、ハハハ、そうだね。うん、落ち着こう。ところで猿子ましこクン。ユークリッドが残した『学問に王道無し』という言葉だがね、あの言葉って学問をするのに楽な道が無くて、誰もが必ず通るべき過程があるって意味で使われるだろう。しかし、だったら『学問に王道有り』でも全然構わないじゃないか。なんだ、ん? 馬鹿にしてるのか。プトレマイオス王もその程度のこと絶対つっこんだだろう」

 「門前かどまえセンター長! 気を確かにとは言いましたがそんな前々から気になってたみたいなことを吐露するほど悩みの無い状況でもないです! 気を確かに!」

 「うるせぇ」

 「なっ……四十過ぎのいい大人がうるせぇって……」

 「猿子クン」

 そこでピシャリと会話が遮断されて、言葉が反響をやめた。

 「君は、責任という言葉を知ってるか」

 センター長――門前飛鳥かどまえあすかは腹這いのような格好からゆっくりと体を起こす。生者の魂を糧とする幽鬼のような、獰猛にぎらついた眼光。権力と地位の味を知り、富と名声で腹を膨らます世界に生きる人間の眼だった。瞬間的にコミカルな空気が一掃され、猿子と呼ばれた研究員は電流の速さで掌の汗腺が開くのを自覚する。

 「責任だよ。分かるだろう。『鴻機』からのバックアップ無しに今のセンターの研究環境は有り得ない。資源も土地も広告も、すべてはお上の支援あってのものだ。トップを任されてる私の立場を考えてくれよ。だって? ハ。気でも狂ってないと笑えない冗談だ。だから笑ってるんだよ。ハハハ」

 発言そのものは全く失意の渦中にありながら、語気からそのまま溺れ死ぬ気は微塵も感じられない。猿子は、溺れもがく水難者が救助に来た者を逆に水中に引きずり込む映像を脳裏に描いた。喉の渇きにつばを飲む。

 「『鴻機』――、『鴻鵠機構』、ですか」

 「そうだ。《コウノトリ》誘導実験は大きなプロジェクトだっただろう。私が直接指揮を取ったことも含めてな。万事うまくいった。あれだけアレンジメントを重ねて入念に準備したのもすべて、今回の実験が『鴻機』から直接の依頼だったからだ。絶対に失敗できない、だから気合を入れてたんだ。十四回目のアレンジメントで欠伸をしてた赤原あかはらと欠伸を噛み殺してた城原しろはらをプロジェクトから外して外注部署に回してやったのも私の気合の表れだ。それを、その研究成果を――」

 「は、はい」

 十四回目のアレンジメントは爆睡していたのでそんなこと全く知りませんでしたとは口が裂けても言えない猿子は静かにうつむいたが、門前は両目を見開き、血涙でも流しかねない形相で空へと慨嘆を吐き並べる。

 「よりにもよって、奪われた、などと。何だそれは。夢か? ああ。夢だと思ったよ。正直今でも思っている……今すぐこの認知された世界が泡沫のごとく消えないかとね。ここ数日はアンカースリープもできないほど昼夜を徹した働きっぷりだったから無い話ではないと思うんだが。一週間前からフルトプラゼパムせいしんあんていざいも服用している。あれは副作用が出にくくて良いんだ」

 「た、確か、警備部の……松森の班が……」

 そう呟きながら猿子は、しまったと思った。

 いや、しまったどころではない。大失態だ。最重要の研究サンプルが盗まれた。そんな重要な情報は真っ先にトップの耳に入るに決まっている。

 脳裏に浮かぶ映像。臨時ニュース。ヘリでの空中撮影。無線から悲鳴。商店街だった場所に引かれた、鳥瞰すると赤いモールのように見える線。

 閉じられた棺桶。

 門前の声に灯る炎の色が、変わったような気がした。

 「当然、聞いているとも。嫌なことなら嫌というほど耳にするさ。失敗したんだろう。まったく、本当に、本当に! 曲がりなりにも補佐なら少しはハッピーな情報を持って来てくれ。同じ補佐でも花鶏あとりクンは『鴻機』となんとか話をつけようと単身本社へ向かってくれたじゃないか。見習うとかないのかね」

 猿子は押し黙った。猿子同様にセンター長補佐官である、花鶏メズ。比較の相手として、これ以上ないほど癇に障るチョイスだったことが明白に窺える。立場上とれる最大の反駁として沈黙を選んだ部下に、門前は鼻を鳴らす。

 「ふん。松森ね。私はそもそも警備部の連中自体好かんよ。普段から暑苦しい格好をしてセンター内外の見回りなどと……セキュリティとして原始的にも程がある。しかも今回だ。まさに出番というタイミングであそこまで役に立たんとはね。侵入者の捕捉すらままならず、サンプルを取り返す、というも、こなせないっ!」

 途切れ途切れの感情が瞬間的に沸点を超え、怒号と共に最前列の会議机が蹴り飛ばされる。大きく位置のズレた机を、猿子は目を細めて眺めていた。息を切らして、歯噛みして、門前はさらに、両の掌を机に叩きつけた。

 そのまま、硬直する。キックバックとしてやってきた耳が痛いほどの静寂に、猿子は少し、余分なことを考える暇ができた。

 ――死者の思念とは、どこへ行くのだろう。

 例えば、『意識のハードプロブレム』という命題がある。タンパク質と脂肪、神経の集積体である人間の脳。そこからどのような仕組みで主観的な意識体験が生まれるのか、というものだ。現在の脳科学に対してほとんど揚げ足を取るような、あるいはその至らなさに追い打ちをかけるような、意地の悪い論題ではある。

 そもそも神経を通した電気信号で腕が動いているのだと説明されたところで、その知識に主観的な実感は伴わない。客観的かつ無機的に物体の運動状態を観測することとは異なり、個人のすべての観測条件を包含する主観そのものの成り立ちを客観的に分析するなど、机上の空論以外の何物でもないのだ。

 が、しかし。机上論であるがゆえに、その楽しげな妄想から派生する仮説は枚挙にいとまがない。LPMについて研究を進める過程で、意識体験や感情運動を粒子的に解釈する発表があった。まさしく今二人がいるこの第一会議棟で、忘れるはずもない、さきほど話に出た花鶏あとりメズは現在のポスト――センター長補佐筆頭――を手に入れるきっかけとなったスピーチを行ったのだ。

 その内容は当時全く新しい方向性からLPM解釈を行うもので、新機軸でありながら矛盾が無く、《単純化》という現行の常識が確かな市民権を得るまでの叩き台となった。当時25歳という若さでそれだけ影響力のある発表を行った彼女は一躍、時の人となった。

 堅実に、ただし非凡な発想と機転の利いたプレゼンでキャリアを積んだ花鶏メズ。誰もが憧憬と嫉妬の眼で見る花鶏メズ。器用貧乏で腰巾着気質な自分が、縁と付き合いの長さで門前飛鳥の傍らにいるのとは話が違う。LPMという恐怖の破壊者がすべてを更地に返した茫漠たる大地の上に、彼女は己の手で歴史を作った。――比較されて、気持ちの良い相手であるわけがない。

 そんな彼女が提唱者となった『意識運動粒子理論』だが、おおまかに言ってそれは、LPMの存在を素粒子よりさらにミクロな『クオリア粒子』とでも呼ぶべき物質で説明するものだった。この『クオリア粒子』が意識体験のきっかけになるもので、電荷を持った原子とうまく作用することでその粒子が充満する空間に意識体験が生まれる。脳や脊髄は発生したその意識をもとにして、DNAで組織構造を縛られてLPMのように自由にふるまえない動物の身体を動かすために必要な電気信号を飛ばすためのコンバーターのようなものでしかない、と。

 つまり、この仮説に基づけば、空間中どこにでも『クオリア粒子』さえあれば意識が発生する。人間や動物の脳以外の部位だって、動きを制御されてるだけで意識は持ち得る。それらが『核』をつくる特定の条件を満たして周囲の粒子さえも制御すればLPMが生まれるのだという考え方。

 もし、もし感情や思念までも、微細な粒子の働きで説明できてしまうのだとすれば。

 例えば死者の脳内から抜け出た『クオリア粒子』と物理的に脳内で触れ合えるのであれば――人は死者の声にさえ、耳を傾けることができるのではないか。

 死者の思念が、今我々に影響しているということはないのか。


 「馬鹿なことを考えているだろう」

 馬鹿なことを考えていた猿子に、体勢を変えないまま、門前が呟いた。考えていたことが、どうやら同じだったらしい。こういうシンクロニシティだって、『クオリア粒子』を使えば説明できるんだよな、とさらに思う。

 「死者の声など、聞こえてたまるか」

 「……案外、聞こえてるのかもしれませんよね。僕らが自分の意識として認識している個が、誰かの『クオリア粒子』と混ざっているかもしれなくて。既に、ずっと、僕らは……意識体験を共有して、感情を更新して、思想を繋ぎ続けている、とか」

 「素晴らしい。次の学会に君の論文を推薦しておくからぜひ発表してくれ。人類は子々孫々まで頭の中の秘伝のタレを注ぎ足し続ける串カツ屋のような生き物だとね」

 「センター長……あの、

 「どうだ。出来る男は皮肉も一級品だろう。猿子クンは少し人を見習うことを覚えたまえ。もうすぐ花鶏クンが『鴻機』から何らかの指示を貰って来る。君もいざという時にあれくらい自発的にブレイクスルーを獲得できなければな、うん」

 「

 「そんなことはなあっ!」

 怒号が響いた。

 「私が、一番、知っている」

 事件があってから初めて、そして唯一、門前が語った本音は、理性の歯止めが利かないほどに熱を帯びていた。

 長い長い反響を経て、門前の両目には手負いの獣のような鋭い眼光が戻っていた。真実は再び閉ざされたのだと、猿子は思う。こんな門前を、果たしてどれだけの人間が知っているだろうか。知っていてあげられるだろうか。

 門前飛鳥を、『非情』と見定める者は多い。例えば彼はセンター長に就任してから、立場を守るためならどんなことでもやってきたし、合理的に利益を追求する姿勢は彼が牽引するセンター全体の運営方針でもあり、研究に関して部下の妥協や甘えを許したことはほとんどない。使えないと判断した人員は即座に部署異動を行い、不満や不平が目立つ者にもペナルティを課すという徹底ぶり。現在の研究環境を維持するために彼が払ってきた注意は相当なものだし、その意味ではまさしく地位や権力に固執していると言えるだろう。

 だが彼が固執する地位も、権力も、利益も――決して、彼自身のために蓄えられたものではない。猿子は門前がLPM生体応用研究センターのトップとなる以前からの付き合いだ。『単純化』が起こる前、大学の研究室で量子論を教えていた頃から、彼は後輩や助手や生徒に厳しく、そして指導には愛があった。

 猿子の知る限り、門前飛鳥という男は。

 同分野の研究をサポートしあい、助言をしあい、批判をしあう、どんなささいな関係者でも――家族と同様に考えていた。

 「急ぎ過ぎたのかな、私は」

 冷静を取り戻した無表情で、なおも門前は言う。

 「何よりもLPMをいち早く理解すること。謎を紐解くことが、誰にとっても望ましいと信じて疑わなかった。使命だと……」

 責任。

 「それで、取り返しのつかない被害を出した。私はこれから、どうすればいい」

 責任という言葉を知っているか、とさっき訊かれた。

 立場を担保にした責任なら、こんな世界にいて、当然、嫌というほど知っている。そんなものを守るためだけに、ずいぶん色んな人に媚びへつらってきた。

 だが、あなたを激高させるほどの責任なら、答えは、ノーだ。

 猿子はそう思い。




 「お通夜なら喪服着てやってください――と、まぁ案外向いてるのかもしれませんがねぇ、白衣。お焼香とかで汚れても大丈夫そうですし」

 



 あまりに軽薄な言葉に、思考は遮られた。


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