第2話 鳩が多くて豆が撒かれぬ



 「惜しかったね」

 少年の一言で、硬直していた時間が再び動き始めた。

 「ありえねぇ」周囲の疑問を代弁するかのように、いまや少年と10メートルほどの距離が開いてしまった黒スーツの一人が叫ぶ。

 「LPMが――あのタイミングで出てくるだと? なんだ、まさか……実験の関係者か!」

 「残念。実験のことは詳しく知らないよ。施設に潜ったのはこいつを」手元の荷物を掲げる。

 「奪取するためだけど、それは依頼だし。あー、でも、ねぇ?」

 いたずらっぽい笑顔で対応する少年の表情に、嗜虐的な色合いが混じる。童顔に不釣り合いな、悪意に満ちた鋭い眼。隙を見せた相手を容赦なくいたぶる老獪さがありありと湛えられていた。

 「今のは失敗だったよ。LPMへの反応、とか。『実験の関係者』っていう発言、とか。こんだけヒント並べられたらさ、実験の方向性なんか猿でも分かっちゃうと思わない?」

 チンパンジーでもね、と頭の中で半畳を入れる。

 「マズいんじゃないのー、守秘義務とかさぁ。研究施設の雇われなんだからしっかりしないと。ま、こいつを奪われてる時点で既にお粗末だけどね」

 再び、運んでいたものを示す。布地に包まれた騒動の源泉は、他人事のように静謐を保っていた。スーツ男の何人かはこちら側に回り込む算段を立てているようで、イヤモニやジェスチャーで連絡を取り合っているように見えた。いや見えちゃダメだろ、と思う。まぁあれで全員というわけでも、総力というわけでもないだろう。いざとなれば一般人の巻き添え上等でガス弾をぶち込んででも捕らえに来る、そういう連中を相手にしている。

 依頼について『サギ』から受けた説明を思い出しながら、少年は危険がないとみて落ち着きを取り戻し始めた眼下の群衆を眺めた。


 そして嘆息する。

 常のこと、いまいち緊張感が湧かない。昂らない。

 コウフン、しない。


 「―-おい、おい。カイト」

 耳元で、ささやき声。少年が逃走しながら会話していた相手の声だった。もちろん、カイトと呼ばれた少年の周りに人影は見えない。

 「カイト。気ぃ抜きすぎじゃねーか。お前はきっと気づいてないだろうから忠告しとくが、奴らイヤモニやジェスチャーで連絡取り合ってる。おそらくだが回り込んでくるぞ。さっさと移動した方が良い」

 「トリノ。ああトリノ。君には僕の痒い所に手が届くような役割を、常に期待してるよ。こんな状況で道化を演じられても困るから黙っててくれ」

 あまりにもガッカリな助言に辟易したようで、カイトは乱暴に会話を打ち切った。陰ながら彼をサポートしてるらしいトリノと呼ばれた存在は、その場に不服そうな気配を発しながらも一向に明確な輪郭を現さず、言われたとおりに再び黙り込む。

 とはいえ、集中できてないのは事実だった。カイトは一度自分の両頬を挟み込むように平手打ちして、周囲を見渡す。商店街はあっさりと落ち着きを取り戻し、人の流れはとめどない。屋根路地の黒スーツたちはテキパキと分隊を作って散らばり、残るのは会話役として残されたらしい一人だけ。連携は取れてるんだよなぁ、とカイトはなんとなく苦労人っぽい直向きな彼らの事情を慮った。会話役が口を開く。

 「なぁ、あー……魔が差したんだろ? どこの誰だか知らないがね。君が持ち出したそいつは君の元にあってもなんの役にも立たないよ? おじさんに返そう。今なら何も無かったことにできる。何も、何もだ」

 柔和な笑みと猫なで声。緊張が隠しきれていない。情報収集を兼ねた交渉兼足止めですと顔に書いてあるような対応だったが、カイトにとって彼の発言は全く無価値だったようで、さっき自分で叩いた両頬が今になってちょっと痛くなってきたことへの滑稽な面白さに少し口の端を歪めているところであった。もう話を聞いてないとかいうレベルではない。


 「とりあえず事務所に戻ろうかな。目的は達成したし、依頼は今回もサギの仲介だしね。あいつの判断を仰がないと」

 「……」

 「聞いてる?」

 「……」

 「え、拗ねてるの? 黙っててって言われたから不機嫌になって、こうなったら意地でも喋るもんかってこと? いや、それはトリノがあいつらの反吐が出るほどバレバレな動きをわざわざ報告してきたからこれ以上喋らせるとトリノの底の浅さと愚鈍さと空気の読めなさが周知になっちゃうかもと思って」

 「分かったもういい! 口を開けば中傷だなテメェは! 最初に言葉を刃物に例えた奴はほんとにセンスが良いと思うよ」

 「そうだね。僕の言葉は日本刀だから別に使い方間違ってないけど」

 「日常会話が殺陣じゃねぇか。道理でお前と話してると傷つくことが多いわけだ」

 傍目にはたった一人の少年が声だけの相方と漫談を始める、という珍妙な光景に、完全無視を決め込まれた対岸のスーツ男は歯噛みする。しかし奇怪なコンビが一貫して覗かせる余裕から、どうやらこれが彼らの平常のペースらしい、ということだけは誰にとっても想像に難くなかった。

 「まぁ、まじめな話、事務所戻るのが最優先だろ。そのためには追っ手を巻かなきゃいけないけどな。やることは変わらねぇ。《リープ》くらいならまだまだ使えるからさっさと動こうぜ、カイト」

 「うーん、最優先と言えば、言葉を刃物に例えるってくだりはもう少し広げられたと思わない? 話のテーマとしてはなかなかだと思うんだよね。『日常会話が殺陣じゃねぇか』でオチつけるのは勿体無いよ」

 「お前そんなほのぼのひとコマみたいなウィットの掘り下げを最優先に持ってくんな。優先順位の感覚ぶっ壊れすぎだ。いやつうか俺のオチは秀逸だっただろうが! お前のフリが弱かったんだよ綺麗に料理した方だわボケ!」

 「そうかな。うん、確かに日本刀じゃパンチ弱かったか。ギロチンの方が良かった? いやそれだと『じゃあ会話してる俺死ぬってことじゃん!』とかいうテンション芸にトリノすぐ持ってくでしょ。それがオチになると思ってる辺り古いんだよなぁ。控えめに言ってクソなんだよトリノの笑いは」

 「俺のセンスを一方的かつ根本的に否定してるそれが控えめ!? お前の言葉普通にギロチンだよ!」

 「はいはい、直前の言葉ひとつ拾ってびっくりマーク多めのツッコミするとライトノベルの読みすぎだと思われるからやめて」

 「おっお前らぁ! いい加減にしろよ!」

 いかにもモブらしい元気な喚き声が飛んできたことで流石に不毛なやりとりは中断された。10メートル先の会話役スーツ男である。『お前ら』と呼びかける辺り、とうやら目下のところ透明人間状態であるトリノも敵対存在として認知することにしたらしい。

 ちなみにカイトはこの段階で、全く興味を感じないなりにやたら長く付きまとってくるこの会話役を心の中で勝手に『松林』と名付けていたが、それが松林自身に知れることはないだろう。

 「なに? 今すごく大事な話をしてるんだけど」

 カイトが応じる。

 「意味の無い嘘つくんじゃねぇ。オチがどうのこうの言ってただろうが。大事な話なワケあるか」

 「会話のオチ以上に松……あんたの存在が大事とは僕にはとても思えないけど。あんたの役割、足止めと情報収集でしょ。もうすぐ武装を整えてあんたの仲間が大勢こっち回り込んでくる。この議論をやめるにせよもっといいオチがつくまで粘るにせよ、あんたに構う意義はこちらには全く無い」

 「正論だけど議論はもうよくねぇか」トリノが呟く。

 「交渉の余地は本当にないか?」

 「……」

 松林の発言。

 ここに来て、交渉。なんとなく時間に空白が生まれる。

 「……?」

 

 何か、妙な。

 妙な、直感。


 『依頼』を実行する立場のカイトにとって、にべもない対応をして然るべき場面ではあった。もともと交換条件を出すために奪い取ったものでもない。仕事なのだから完遂せねば、という意識は当然働く。

 だが、取るに足らないと思っていた人間に意外な特技を見出した瞬間のような奇妙な、自身の行動を省みさせるだけの何か脅迫的な『間』が、言外の松林の気迫にはあった。

 まるで、自宅マンションで降りる階を間違えた時のような、ハッとさせられる違和感。全体的な何かが少しずつズレている―-ここは本当に、ありふれた、取るに足らない場面か?

 どれだけ経験を積んだ人間でも陥る気の緩み。性格上、カイトにとって油断は珍しいことではなかったが、それでも致命的なミスに繋がることは避けてきた。しかし、それがいつまでも続くものか。事態を収束させる機械仕掛けの神が、今この時も健在なのか。

 この取るに足らない者の言葉が、どうしてこうも直感に訴えてくる。

 カイトの脳裏にイメージされるのは、最終的に天まで届こうかという巨大な建造物を叩き崩すためのピタゴラ装置。それを起動させる、ドミノの一枚目。

 考え無く、仕事として奪い取ったこの荷物が――仮に、そうだとするならば。

 ならば、この道の先は。

 ならば、取るべき行動は。



……ちなみに、第三者的視点から語るのであれば。

この一連の逡巡は、時々発動する、カイトのどうしようもない『癖』だと言えた。



 「おい、カイト。お前まさか」

 不穏な空気を感じて口を挟みかけたトリノを、カイトが掌で制す。

 「ちょっと静かにしてくれ、松林。今真剣に考えてるんだ」

 「相棒の名前を間違えんな! つうか誰だよ松林って!」

 「ごめん、今のは素でごちゃまぜになった……ねぇ! 交渉の余地は、無いでもないよ!」

 「ま、マジでか!」

 声高に前言を撤回したカイトに対して、松林はあからさまに狼狽した。

「お前らには何か交換条件……要求があるってことか? だが、今回の盗みは依頼でやったとか言ってたよな」

 「うん。だから、僕らと交渉は出来ない。でも仕事を依頼した人間には心当たりがある。僕らへの依頼には必ず仲介人が付くんだけど、その子クセが強くってお得意様も多いし、新規の依頼人は慎重に取る感じだし。こういう荒い仕事はだいたい依頼人の検討もつくってわけ。依頼主をここで教えるから、あとはそっちで交渉すればいい。ここで持ち物を返すことはできない」

 「お前らへの依頼人が何者なのか、そして要求の如何によるってことか……」

 依頼主を明かすという、あまりに不自然な譲歩。しかし彼の中でなんの歯車が噛み合ったのか、本来真っ先に不審がるべき立場の松林は大して気にもしていないようだった。

「ぶっちゃけると、どういう理屈かいまだに分からねぇが、俺らも俺らでLPMを味方につけるような野郎と敵対はしたくない。事を荒立てずに交渉が上手くいくなら、それに越したことはねぇよ」

 「利口だね。じゃあ、僕らへの依頼人とそっちのトップとでお話し合いってことになるけど」

 カイトはそこで、トリノの呆れたようなため息を聞いた。至極当然の反応だと思った。同時に、こんなの個人の趣味なんだから責めるなよ、とも。

 そうして、なるべく飄々と、何でもないことのように言った。

 「僕らの依頼人はおそらく――《ラプトル》。お得意さんだよ」


 《ラプトル》とは。

 噛み砕いて述べると、主に《単純化》によって生じた国家、あるいは民間への脅威を、武力によって排除する掃討組織である。担当する脅威の種類で幾つかに部署が分かれており、《単純化》以降、対策機関として設立が急がれた。警察も自衛隊も、枠組みは残しつつその傘下へ併合されたようなものだ。しかしその著しく盛り上がってしまった権力だけに市民との窓口になるようなことはなく、直接の介入はあくまで武力排除が希求される状況にしか出来ない、と限定されている。

 

 「……は、は?」

 カイトの端的な報告を受けて、やがて松林の表情から色が失われた。

 実感はまだないだろう。『事の重大さ』というやつは不思議なもので、脳ではなく体中を巡る血液が最も早く理解する。ドクドクと、じわじわと体中に変調をきたし、やがて理解がそこに追いつく。今彼は飲みきれない重さの鉛の球を、崩れ落ちそうになりながら嚥下している最中だ。邪魔するのは良くないよな、と思いながらカイトは追い打ちをかける。

 「とっくに目を付けられてたんだよ。残念だけど言われるまでもなく、これ以上事は荒立たない。交渉の余地があると言ったけど、それは交渉だ。勘違いしちゃいけない。分かる? 命乞いをするんだよ」

 説明する。説明する。淡々と。必要がないほど淡々と。

 それは敵対者の首を徐々に絞めゆく所作でもある。カイトの嗜虐性はここへ来て、急速にピークへと上り詰めた。

「あんたらの実験はとっくに、『《単純化》によって生じた脅威』認定をくらってるんだ。なんて例えたら良いんだろうね――警察にアジトを特定された麻薬密売組織、とか? まだ甘いか。警察だってもう《ラプトル》の下部組織みたいな扱いだもんね。何より自由に振るえる武力の桁が違う。それでもこうして、依頼を通して研究成果を収奪させるという明るみに出ない方法を選んだのは――あんたらの表向きの名義と研究分野が世間に与えてる影響が甚大だからだ。つまり、これは警告だね。言い方を変えると、もし『次』があるようなら《ラプトル》は迷わず牙を剥く。全火力を投入して持ち得る手管を全て駆使して、お宅の施設の敷地を更地に帰すだろう。関係人員含めてね。王手ってやつだ。ああ、良い例えが浮かんだ、うん。王手だよ。詰みとは言わない、王手だ、足掻いてみるといい。聞いた話だと、将棋ってのは王将がたった一枚になっても相手の懐に入り込めば引き分けになるらしいじゃん。まぁそれって結局君らみたいな歩兵には、全然これっぽっちも関係ない話なんだけどさ」

 嗜虐性のままに放たれた言葉攻めは延々と続いた。すっかり青ざめた松林、もとい黒スーツである。こうなったカイトをなだめるのはトリノの仕事だが、トリノ自身はその役割を適材適所とは思っていない。成功例がほとんど無いからだ。そもそもカイトの嗜虐性にスイッチが入るまでの仕組み、を、トリノは知ってはいても理解はできない。

 茜空は血染めのように暗い色を増してきていた。深まってきた闇に乗じてか、バタバタと足音が近づいてくる。流石にのんびり喋りすぎたらしい。研究施設お抱えの警備兵だろうが、これだけ時間を与えればそれなりの武装を固めるだろう。逃走は大仕事になるかもしれない。図らずも足止めは成功したわけだ――そんなことをトリノは考え、カイトは足音を合図にぷつりと押し黙ったあと、感情の読めない視線を手元の荷物へと彷徨わせていた。

 全てを飲み込む怪物が大きく首をもたげたのは。

 そんな瞬間だった。



 喧騒さめやらぬ、夕刻の賑わいで満ちていた、その街。

 逃走劇の舞台となっていた商店街が、突然、モーセによってこじ開けられた紅海のように――


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