アマガケ!!!!

二ノ口

第1話 鴨の浮き寝


 『突然だけど、めちゃくちゃ将棋が嫌いなの』


 『将棋の何が嫌いかって、理不尽さよ。

 「王将さえ獲られてなければ最後の最後まで足掻ける」っていうあのシステム。……なに、あのルール』


 『異様じゃない? 臣下の一人もいなくなった丸腰の王、裸同然の王様。

 忠義を尽くし権威を示す盾をすべて失ったとして、それでも、確かあのゲームには、敵陣に王が踏み入ることで勝負が引き分けに落ち着くという極めて謎の展開が用意してある――ん? いやに難しい言い方をするって? あはは、まぁね。今のは受け売り』


 『いや、分かってるよ? そもそも片方の盤面が王将のみになるという事態は、まず成立しない。ルールを熟知した者どうしの真剣勝負に限ればね。実力差うんぬんではなく、これはもうターン制の盤上ゲームにおける制約みたいなもの』


 『んー、あ、そう。例えばオセロなんかだったら、実力差の問題ですべてのマスが同じ色に染まる完全試合とか、1ヶ所だけポツンと孤立無援のマスが出来上がる試合運びって普通にあるよ。

 でも将棋は、1ターンに破壊できる駒は原則1枚だし、急激に戦局が覆ることってないからね。双方が合意のもとでそうなるように仕向けないと、王将以外を全滅とかさ。厳しいでしょ。

 え? プロの棋士とチンパンジーが対戦した場合? いや……まともに答えるのも面倒臭いな。やってみりゃ分かるんじゃないの。とりあえず試すならチンパンジーはちゃんと人里で芸を仕込まれたような、訓練されたやつを使いなよ。野生のあいつら、かなり凶暴だから』


 『話が脱線した。んーと、将棋の話。いや、つまりさ。矛となり盾となる、すべての戦力を削がれて丸腰になった王が、身一つ、単身で敵陣に亡命って……絶対、殺されちゃうでしょ。んー。ルール上ドローにはなるけど、もともと将棋って前時代の合戦、いわゆる戦争を模したものなわけだし。捕らえた敵大将の扱いって、シビアだよね、多分。

 えー、はい、そんなわけで、橘中の楽しみってのは今後とも理解できそうにないってわけ、ウチには。以上。行ってらっしゃい』




 「……という話を今朝、サギがしてたんだけど」

 「はぁ? 脈絡もオチも無いうえ支離滅裂じゃねぇか。話の枕としても落第だぜ。絶対途中で何が言いたかったのか分からなくなっただろ、あいつ」

 「うん。多分、チンパンジーのくだりで」

 「それに関してはお前が余計な半畳入れたからだろ、カイト。プロの棋士とチンパンジーはねぇって。もう実力差とかじゃねーだろそれ」

 「冗長なんだもん、サギの話。ブレイクだよブレイク……あ、無礼な句と書いてブレイク」

 「今思いついたことを言うな。上手くもねぇし」


 気の抜けた会話をしながら、人影は狭い路地を、とにかく疾走していた。

 会話は成立している。しかし不思議なことに人影はたった1つで、誰かと並走しているわけではない。目立って通信機器のようなものも持っていない。見る限り単身である。

 小柄な体躯をフードとマントで覆っており、砂漠を渡るキャラバンを思わせる風体。その外套は鳶色に近いこげ茶で、足元の裾近くにはマントを一周するように白糸で鮮やかな刺繍が施されている。


 「あいつの性格だから、盤上ゲームにかこつけた諷喩でなにか教訓めいたこと言おうとしたんだろうな。仕事前の儀式だろ。向いてねーのに、そういうの」

 「まぁ、向いてないことを必死に頑張って、全部裏目に出て空回りしてる馬鹿みたいなサギを見てると、世は事も無しって気分になって落ち着くよ。儀式としては、助かってるかも」

 「……おう。無自覚なサドって、いるよな」

 

 人影が走っている路地について補足するならば、正確には路地というか、そこはとある商業施設の屋根の上であった。

 時は夕刻、大まかな座標は、東京中部の某ベッドタウン。

 区画整理の煽りを受けて今や幹線道路となった旧大通りから、住宅地寄りブロックのせせこましい商店街へと移転させられたばかりのスーパーマーケットがある。行儀よく縦列駐車でもするように商店街の空きスペースを埋めたその屋上には、同様の理由で増設された《漂鳥ワンダリング》用の貸し宿――表面上、空きテナントということになっている――が奥からせり出すように並んでいて、キャラバン風のマントは屋根の縁に据え付けられた『業務用スーパー』の看板と貸し宿の間にできた空間をフルスロットルで駆けていた。

 商店街のどんな施設でも屋根の上にはだいたいそんな光景が広がっていて、都市部の中心でも駅前でもないのに薄汚いペデストリアンデッキと化している。


 「やぁどーも、邪魔するね」

 小柄な人影は速度を落とすことなく、貸し宿の窓から顔を覗かせる無精髭の《漂鳥ワンダリング》に声を掛ける。

 「ここいらの『屋根路地』はすげぇな。クスリの取引も喧嘩も無い代わりに、貸し宿が密集してやがる。お国からしたらこっちの方がよっぽどアンタッチャブルだよなぁ。ここでデカい事件が起こるとヤバそうだ」

 身元不明の謎の声がそんなことを言い、疾走する人物は後ろを気にしながら返答する。

 「今こうしてヤクザまがいのチンピラに追っかけまわされてるのは『デカい事件』じゃないの? ノーカン?」


 『屋根路地』とは、こうした屋上の連なりを強引に通路ルートとして見立てた呼び名だ。地上と物理的な隔てもなく隣接していながら、地上よりほんの少しだけ異界めいたアウトローの要路として機能する。

 別に立ち入り禁止の危険区域というわけではないが、大通りのような監視意識はほとんど働かず、あまりクリーンとは言えない。悪ぶりたい中高生が好奇心交じりに立ち寄ることなどは多々あるが、買い物帰りの主婦が通る理由はまず無いといった具合。街ぐるみの自警の範囲外ではあるだろう。

 扱いとしては当然『屋根の上』なので、地理情報を熟知したうえで、建物の間隙をよじ登るようにしないと侵入できない通りでもある。

 場所によってはそういった屋根路地が段々畑のように四階層ほど連なって、灰色の屋外ショッピングモールを形成している地域もある。この街に限らず都市開発の煽りを受け追いやられた地域というのは、似たり寄ったりそういう入り組んだ構造になるのだった。

 

 「追手が拳銃ぶっ放したり、お前が商店街の人間を人質にとって逃げおおせたりしなけりゃニュースにはならねぇだろ」

 「失敬な。そんなことしないよ、人質ならで十分だし……よっと」

 スーパーの屋根から別の屋根へ飛び移るタイミングで、腰を捻り横に一回転。

 遠心力でマントが広がりフードも脱げ、はっきりと人影の風貌があらわになる。年齢や性別の判断が難しい顔立ちだが、少年。中性的というかひたすら童顔で、目つきが悪い。あらわになった頭髪の色は、表現としてはエメラルドグリーンが最も近いか。それは埃っぽくくすんだ屋根路地の中ではあまりに目立つものだった。対照的に外套の下の服装は黒一式で、ジャージではないがストレッチ性の高そうな代物。

 まさに全力疾走という格好ではあるが、彼の両腕はふさがっていた。何か、布地に包まれたラグビーボールのような物体を抱え込んでいるためだ。

 全力であることは間違いないが、両腕の不自由が、現在の彼の走力を大きく制限していることも明白だった――もっとも、この場合はまず、その体勢で横回転をしてみせた彼の身体能力の高さに注目すべきかもしれないが。


 「やばっっ」

 「ああ。最初三人だったのが、ひいふうみい……えーと、面倒臭い人数に。審判も含めてサッカーの試合ができる」

 「気の利いた例えと思ってる? ダルいよ」

 回転と跳躍を同時に終え、着地の重力を感じさせない足取りで再び走り出す。横回転は後方を確認するためだった。立ち止まることを許されず、かつ、背後の状況が命運を左右するとき――つまり追われているとき、少年は常にそうして後方を視認する。

 黒いスーツにサングラスといういかにもな格好の追跡者が束になって迫っているのが見えた。確かに面倒臭い、鬼ごっこの鬼としては適さない人数。

 追われる状況は日常茶飯事と言えたし心構えも無いわけではないが、しかし毎度のことながら、理不尽だとは思う。それは『自分は仕事として依頼に応えて誠実な対応をしているだけなんだから、いちいち追いかけられたり突っかかったりされるのは理不尽だ』という、振りかざされる方こそ理不尽極まりない理屈ではあったのだが、ともかく少年は過去にこなした幾つかの仕事を反芻して気重になった。

 気を抜いていた、とも言える。


 ずるり。スーツにサングラス姿――追跡者たちと同じ格好――の男が、わずか前方、路地の横合いにある隙間から、せり出してきた。スーツの汚れ方から、かなり強引なルートを迂回してきたことが分かる。ネクタイなんかよれよれで、『追い詰めたぞ』と言わんばかりのしたり顔。頭の上には生ゴミらしきものが乗っている。

 仕事熱心! ちょっとの油断、挟み撃ち。追われてる理由。頭に生ゴミは流石に無いだろ。――頭の中に幾つかのフレーズが明滅して、少年は1秒の4分の1くらいの時間考えてから、飛んだ。


 正確には、飛び降りた。連なる屋根の上から5メートル下の、地表へ。


 「……!」

 その行為に愕然としたのは仕事熱心なスーツ男である。多分仕事熱心でない後方の連中も驚いているだろう。いや、彼らも十分仕事熱心ではあるというか、今は彼らの職務意識の優劣は問題ではない。

 問題は、この『飛び降りる』という行為が持つ意味である。

 

 『屋根路地』の環境は劣悪だが、階下の街並みに関してはその限りではない。

 先述の通り、うらぶれた屋根路地は薄汚れていて寂しいものだ。大所帯で小柄な少年を追いかけまわしたって気にする者はいない。

 しかし逆に言えば屋根路地から外れてしまうと、威圧感たっぷりのスーツにサングラスという集団はかなり目立つし騒ぎにもなりかねないということだ。 

 多少入り組んだ街並みとなっていて治安も良くはないが、しかしここはシャッター街でもスラムでもない。健全に機能した都市近郊のベッドタウンである。現在時刻は午後6時の夕刻、商店街の人通りはなかなかのものだった。

 明らかに屋根路地で繰り広げられるべき逃走劇の舞台を繁盛な商店街へ移すことは、例えば、知り合いだからといって隣の世帯に無断で上がりこむような無粋だ。日常と非日常、表と裏、などと呼べるほどの隔ては無いにしても、誰もがあまり積極的に混交したいとは思わない領分の敷居を、少年は踏み砕いたことになる。


 ――などと難しく考えずとも、商店街の激しい往来に宣言無しで飛び込めば怪我人も騒ぎもライブハウスのダイブどころではない。下敷きになる人が出てくれば首の骨だって折りかねないし、仮に少年がその運動能力でもって無傷の着地を成功させたとしても、周囲の被害は甚大だろう。そして何より――少年の荷物。

 布地に巻かれたラグビーボール大のそれ。

 が、スーツ男たちにとっての最優先事項であり、少年を追いかける理由であり、突然の飛び降りに愕然とした最たる原因である。


 落ちゆく少年の表情は語る。

 『こいつが』

 『どうなるか』

 『分かるか?』

 

 「――貴様ぁぁ!」

 スーツの誰かが叫んだが、もはや屋根路地よりは地上に近い場所にいた少年には商店街の雑踏しか耳に入らなかったかもしれない。


 スーパーから出た子連れの主婦が異変に気付き頭上を見上げ、対岸にある骨董店のオーナーが店のガラス越しに事態へ焦点を合わせ、風俗の客引きをしていた女性が目を背けようとし、屋根路地のスーツ男の数人が少年の先行きを見逃すまいと倒れるように膝をつき、勢い余って膝の皿をカチ割った直後。


 「トリノ、《リープ》」

 「ヘイヘイ」

 ぐにぃ、と。

 現象を説明するならば、空間が収束した。

 まるで空気が膜を張ったように少年の重力落下を押しとどめ、弾性を感じさせる動きで跳ね上げたのだ。つまるところそれは、宙に前触れなく現れた透明なトランポリンだった。

 いや、前触れなく、と言ったが、少年の呪文のような言葉に端を発した現象と考えれば、前兆はあったことになる。

 跳躍の角度は調整されていたようで、着地とは最も縁遠い体勢で落下していたにも関わらず、跳ね上がった彼の体は緩やかに後転し、弧を描いて対岸へと向かっていった。

 「なっなんっなんじゃあ!?」少年の背中を禿げかけの頭にかすらせた中年男性を筆頭に、商店街の一画が常とは異なる、どよめきに似た喧噪に包まれる。少年はそれを尻目に、誰の首の骨を折ることもなく、飛び降りたのとは反対側の屋根路地に着地した。

 その腕にはしっかりと、そしてちゃっかりと、動きを止めるための脅しに使われた例の荷物が抱かれている。




 少年以外の全ての目撃者が、魔術じみた超常に目を剥いた――が、それは未知なるものに直面した時の驚きではない。

 むしろ彼らは、そういった光景をよく目にする。目にして、眉を顰め、口悪く罵ったり、恐れ慄いたり、畏怖から信仰したり、戦おうと試みたり、災害として諦めたりする。

 全世界の総合的な政治、学問、宗教、生物の体系に大打撃を与え、掛け値無く全ての常識を一新した出来事。近年そんな、宇宙規模の弩級パラダイムシフトがあったのだ。人類はいまだに転覆した旧時代の決まりごととの折り合いを付けようと不体裁に足掻き、侵略的に訪れた新しい格律への対応に追われ続けている。


 その変化は、ただ端的に、《単純化》と呼ばれる。


 たった今起きた現象は、その大きな転換を象徴するの仕業に他ならず――だからこそ、より一層、極まって信じられる出来事ではなかったのだ。

 『災害』とすら呼ばれるそれが、人を助けるような所作を見せるなど。

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