第5話 触手と言葉

「そういえば、名前はあるのかね」

桶の中に問いかける。

ぶんぶん、と縦に身体を動かしたようだ。

水の音でよくわかる。

「さて、どんな名前だい?」

流れで聞いてみる。

返事がない。

桶をのぞき込むと項垂れていた。

「話せない、のだったな」

意思疎通ができていたから、言葉も通じるのだといつの間にか錯覚していた。

一緒に風呂に入っているのだって当人が水槽から身を乗り出してアピールしていたからで。

「まぁ、そう肩を落とすな」

慰めの言葉をかけると頭を持ち上げた。

その頭に指で触れてみる。

押し付けてきたので、指の腹で優しく撫でてやる。

ふにふにとしてやわらかい。

「何か方法を考える」

ゆっくりと頭を動かした。

肯定だろう。

風呂からあがったあと、何か手はないものか、と髪を乾かしながらパソコンに向かう。

日本語を理解し、身振り手振り(触手振り?)で返事をしているから、あとは言葉にするだけなのだが。

この最後の距離がとても、遠い。

そして、話したがっているのは自分なのだと。

声が聞けなくてもいい。

彼と言葉をかわしたいと思う自分がいることに気が付いた。

「もしかして、恋?」

水槽からちゃぷんと音がした。

あえて、聞かなかったことにして方法を考える。

この前に見た映画ではアルファベットを書いたボードを用意し、それを指すことで会話を成立させていた。

近いことができるだろうか?

悩みながら視線をキーボードに落とす。

キーボードを見ずにキーを叩けないので、指一本で打鍵する。

「……そうか、これだ」

このキーを叩いてもらえばいいではないか。

幸い、キーボードカバーはついている。

少しばかり触手がしめっていたとしても問題はないだろう。

「へい」

声をかけると再び、ちゃぷんと音がした。

水槽から彼が顔を出している。

「思いついたよ、方法が」

花を咲かすように触手を展開して震わせる。

「驚きの表現が強烈だな、君は」

近くまでよるとぴょーん、とジャンプした。

そして、私の右肩にとすんと着地した。

落ちないように支えようとして、

「さらさらしているな。なんだ、どういう手品だ?」

と感動を覚えつつ、パソコンの前に戻り、彼をキーボードの前においた。

「目の前にはキーボードがある。キーボードはわかるか?」

首を横に振られてもしょうがないのだが、彼は、首を縦に振った。

「わかるのか、それはすごいな」

おもむろに無数の触手をキーボードに向けて伸ばした。

一本ずつキーに乗せて押した。

画面に文字が一斉に表示され、謎の文章が生成されていく。

ちょっとしたホラーだ。

不意に動きが止まる。

「えっとだな。ローマ字で入力する。ローマ字は、どうだろうか」

頭をゆっくりと縦に振る。

ここまでわかっているのか、君は。

「わかった。ローマ字のキーを一つずつ押す。音を覚えてくれ」

今度は首を勢いよく縦に振った。

「よし、まず、これがQだ」

声に出しながら、触手に指を重ねるようにして押す。

指を放すと、触手がQのキーを叩く。

「うむ、Qだ」

ひとつずつキーを教えては確認するのをひたすら繰り返していく。

一時間近くかけてキーを教えた。

さすがに一回で覚えるのは無理だろう。

何度かやって覚えたほうがいい。

ふぅ、と息を吐いていると、彼はキーボードを叩き始めた。

驚きながら画面を見るとひらがなが並んでいく。

『こんにちは ありがとう なまえ ゆーま』

「おお、すごい。よくやったな」

頭を撫でるとさらに触手が動き、キーを叩く。

『くすぐったい うれしい』

「私もうれしいよ」

目に涙を浮かべていることに気が付いて、指で拭う。

嬉しくて泣くだなんて何年ぶりだろう。

『あなたのなまえは』

「秋だ。星川 秋」

『かっこいい』

「いいだろう、気に入っているんだ、この名前は」

私はもう一度、涙を指で拭った。

まったく、こんな調子では眠れないじゃないか。

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