バナナフイッシュにうってつけの日

@natsuki

バナナフイッシュにうってつけの日

「あなたに人が愛せるの!」

僕はカナの憤怒に満ち溢れた言葉に俯いたままだ。

考えてみれば僕は一度だって誰かを愛したことなどない。

僕は僕以外の人間に全く興味がないのだ。

 だから、小林幸子に告白された時も、安易に受け入れた。

彼女は会社でも誰一人友達もなく、誰かが守ってやらなければ、などとつい考えてしまうタイプの女性なのだ。

 まさか四歳の子供までいるなんて思わなかったけれどね、で、バツ一だったなんて!?。

カナとは大学で知り合った。同じ文学部で、同じ教授のゼミを取った仲だ。

「二股かけてたんだ! いつから!?」

僕が黙っているとカナはさらにたたみかける。

「はっきりしなさいよ! 男でしょ」

「半年くらい前からだよ……」

「はあ? 半年も前から騙してたんだ、この私を!」

飲んでる缶ビールを握りつぶしそうな勢い、剣幕は止みそうにない。


 「大学出てもう三年よ、付き合ってるんでしょ私たち……」

「さあ、考えたこともないね」

「じゃあ、なに、この三年……いったい何回セックスしたと思ってるの!」

「さあね、考えた……」

いい終わらないうちに僕の左頬に彼女の満身の平手が飛んだ。

「いい、217回よ、217回! ほぼ五日に一回はセックスしてんのよ私たち。それでも付き合ってないんだ。じゃあなにセックスフレンドなんだ、私たち……」

 カナはそこで絶句した。

そして、大声で泣き出した。

 まさか、セックスの回数をたてに脅されるとは思わなかった。お気に入りのファイロ・フアックスの手帳にクロスのボールペンで克明に僕とのセックスを記録していたわけだ、彼女は……。

 もう何度も繰り返されてきた会話。私たち付き合ってるんでしょ……さあね、僕は決まってこう答えるのだ。おそらく217回は繰り返された話題。

 カナの好きに考えていいよ、そういって僕はいつも突き放すのだ。

結婚などする気はない。だから、そういった意味では付き合ってはいないのだろう。カナはじゃあ、付き合ってるでいいのねと繰り返す。


 高校の頃からいつもふられる度に女の子が僕に残す捨て台詞「あなたって最低ね!」

僕はいつからこんな最低なやつになったんだろう。

 いつからこんなに対象と距離を置く術を覚えたんだろう。

遠くから見ていればみんなキレイに見えるものだし……。


「あなたは結局自分しか愛せない人よ……」

涙でくしゃくしゃの顔でカナは言った。

 世の中が愛で回ってるなんて信じてるのは恋愛小説かドラマの中だけだよ、なんて、ここで言ったらきっと僕はカナに殺されてただろうな……。

「何を言おうとあなたは今日幸子さんとこに行くわけね」

「連の誕生日なんだよ……呼ばれててね」

「行かせない、絶対行かせない!」

カナは僕を押し倒し、強引に僕に抱きついた。

「……してよ! 今すぐ!」

僕たちは冷たいフローリングの床に崩れ、獣みたいなカナの勢いに押されてセックスした。

ベッドに入りさらに交わった。


 小一時間も寝ただろうか……、身支度を整え、ドアを開ける寸前、カナの声が聞こえた。

「終わりじゃないんでしょ私たち……」

何も答えずドアを閉めた。



 幸子は笑顔で僕を迎え入れ、何も言わず、台所に立ち、暫くして豚カツと豆腐の味噌汁をテーブルに置いた。

湯気の向こうには、五本のロウソクが立てられた小さなバースデーケーキがあった。

奥の部屋から五歳になりたての連のいびきが聞こえてくる。

「連、寝ちゃったんだね」

「うん、啓輔来るまで起きてるって言ってたんだけれどね」

「これ、誕生日のプレゼント」

「ありがとう……連、喜ぶわ」

「たいしたものじゃないんだ……」

「ご飯食べるんでしょ……」言いながら幸子は、炊飯器から茶碗にご飯をよそっている。

「うん、まあ……」

出された晩御飯をゆっくりと食べた。

幸子は頬ずえを付きながら、何も言わずそんな僕を向かいの席から眺めていた。

「啓輔、美味しいとか、不味いとか一度も言ったことないね」

幸子を見た。寂しそうな笑顔があった。

何か言おうとしたけれど、言葉は咽の奥に引っかかったまま出ては来なかった。

味には関心がなかった。それだけのことだ。


 寝ている連を気にしながら幸子とベッドに入った。

初めて、カナと較べている自分を思って苦笑した。

「えっ、どうしたの……?」

「ううん、幸子とこうするのって何回目かななんてさ……」

「……ばか」

背中に回された幸子の腕に力が入り、僕はさらに深く彼女の中に入っていった。

 僕はいつからこんなに最低なやつになったんだ……。


 早朝目覚めた僕は横で寝ている幸子を起こさないようにそっとベッドを降りた。

駐車場に止めてあった車に乗り、シガーライターでタバコに火を着けた。

 思いっきり吸い込み、吐き出す。そんな、動作を何度も繰り返した。

空いている道路をゆっくりと走った。

 何も変わらない今日が始まったのだ。

明日はまだ明けきらぬ闇の中にあって変わらない今日を見つめている。

バックミラーに映った僕は相変わらず最低なやつのままだ。

マンションの駐車場に車を止める。

 エントランスを抜ける。

 幾つも並んだ郵便受けから新聞を取ろうとする、習慣とは恐ろしいものだ。もう、僕には必要ないのに……。

 エレベーターを使わず階段を上る。

 ゆっくりと歩幅を取り、階段の数を数えながら上った。

屋上のドアの鍵はいつも開いていることを知っていた。

手摺に捉まり、明けてゆく街の灯をしばらく眺めた。

 朝靄の中で何もかもが霞んで見えた。

タバコに、ジッポーで火を着けようとしたけれど、手が震えて思うようにいかない。

なんとか着いたタバコを吸い込み一気に吐き出した。

 咽の奥に張り付いたしがらみは一向に僕を苛んだままだ。

 手摺から1歩踏み出した。

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