第2話

 女に連れられて開けた場所に出た。道のような、広い場所。

 向こうの方に、オレンジ色の光が滲んで見えた。さっきまでいくら走ってもこんな開けた場所には出なかったはずなのに。振り向くと僕達が歩いてきた方角には鬱蒼と木々の茂った深い森が茫々と広がっていた。


「鍵、貸して」


 女がぼくから鍵を奪い取る。それから、オレンジの光を目指して歩くと、いつの間にか目の前には大きな大きな門がそびえ立っていた。女は鍵穴に鍵を差し込む。カチャリと音がして、鍵が開いた。


 彼女はぼくに鍵を投げると、古めかしい鉄門をゆっくりと引いた。キィと軋みながら、目の前の景色が開けていく。門の奥には更に道が広がっていて、その奥に、大きな洋館が見えた。壁にはびっしりとつたが絡んでいる。人が住んでいるのか、玄関のところと、いくつかの窓にぼんやりとした灯りが見える。


 ずいぶんと立派な屋敷だった。人がひとりで暮らすには寂しすぎるような。


「誰か住んでるの?」


 女の方を振り返った。けれどもそこにはすでに彼女の姿はなく、さっきと同じような暗闇がただ広がっているだけだった。


 消えた?そんな。これだけ広いんだ、きっとどこかに行ってしまったんだろう。今夜は霧のせいで見通しも悪い。不思議に思うことなんて何もないはずだ。


「戻るって」


 いったいどういう意味だったんだろう。

 ぼくは目の前の広い敷地を眺めた。


 ここにぼくは住んでいたんだろうか。思い出せなかった。鍵をポケットにしまって、目の前の扉のベルを鳴らした。


「誰かいませんか」


 灯りが点いていたのだ、そのうち誰か出てくるだろうと思って待っていたのだけれど、いつまで経っても音沙汰はない。ぼくは窓からそっと中の様子を伺った。人影のようなものが映ったように思えた。多分中には、誰かいる。それは間違いない。


 もう一度玄関の方へまわって、どんどんと扉を叩いてみた。それでもうんともすんとも言わないから、悪いとは思いつつも、ぼくはそっと扉を押し開けたんだ。


 中には灯りが点いていて、ほのかに明るかった。それでも光源はろうそくなのだろうか、ランプの中で、電灯の中で、かすかに揺らぐだけで、屋敷の隅々までを照らしているわけではない。


「すみません」


 ぼくは屋敷の奥の方に向かって声をかけた。より遠くまで声が届くように、足を踏み入れた瞬間、


 ばたん、と背後で扉の閉まる音がした。怖くなって振り向くけど、やっぱり人の気配はなくて。


 右手と左手に扉がひとつずつ見える。それからその奥に向かって廊下が伸びている。目の前には階段があった。赤いビロードの絨毯。まるでおとぎ話に出てくるような。


 そのとき、頭上から幼い女の子の笑い声が降り注いだ気がした。


「誰かいるの?」


 階段の上の方に向かって呼びかける。けれど返事はなかった。おそるおそる階段を上る。


「ねえ、勝手に入って悪かったよ、姿を見せてくれないかな」


 階段を登った先にあったドアをノックしてみる。やっぱりうんともすんとも言わない。ドアを開けてみても、中に人の気配はなかった。それでも、ベッドの上に敷かれた柔らかな寝具といい、開け放たれた窓から入ってくる風に合わせて揺れるレースのカーテンといい、人が住んでいるのは間違いなさそうだった。

 とくにすこし乱れたシーツ、それから、まるでさっきまで誰かが座っていたようなかすかな凹み。


 ぼくはその凹みに触れながら、窓の外を見た。ぼくの走り抜けた森がどこまでも広がっている。

 あまりにも現実離れした景色だった。どれだけ広いんだろう、ここは。


 そのとき、部屋の外の廊下をぱたぱたっと誰かが走り抜けていく足音が聞こえた。

 とっさに振り向いたけど、やっぱり誰も見つからない。


 それにしてもヘンな話だと思った。こんな広いところに子供がひとりで暮らしているわけもなくて。

 この広い屋敷をこれだけ清潔に保つためには、大人の手がもっと必要だった。それなのに、どうして誰とも会わないのか。


 廊下に出て左右を見渡してみる。まただ、笑い声が、 


 甲高い声はどこから響いてくるのか、屋敷の壁のあちこちに反響して、場所がわからない。


 子供がひとりなのか、複数なのか、それともほんとうは、ほんとうは誰もいなくて、この声はぼくの頭の中だけに鳴り響くものなのか。


 背後から冷たい風が吹き抜けていった。カタカタと、家具のきしむ音がする。間近で眺めてみると、家の木材はあちこち痛みが見られた。ここは建てられてからどのくらい経つのだろう。この様子だと案外古いのかもしれない。


 右に行くべきか、左に行くべきか。考えていると、バタン、と右廊下のほうから音がした。突き当りの部屋の扉が開いて風になびいて揺れている。


 正直もうそちらの方に行く気はしなかった。それでも、誰かがいるのかもしれないという一縷の望みにかけて、ゆっくりと歩き出す。古い廊下は歩くと軋んで音を立てた。そのうち床板が抜けてしまうんじゃないかという恐怖に怯えながら、ぼくは突き当りまでたどり着いた。


 扉の向こうを覗き込む。やっぱり誰もいない。もしかすると今ぼくの見ているものはすべて幻なんじゃないかとさえ思えた。そもそもぼくみたいな人間は最初からこの世に存在していなかったのかもしれない。


 それでも、部屋の中からはこの家に子供が暮らしている様子が見て取れた。ゆらゆらと動いている木馬、小さなサイズのベッド、淡いピンク色のカーテン。床にころがったいろとりどりの積み木、それから、小さな白い、片方だけの靴。


 ぼくはその靴をそっと拾い上げた。輝く皮のパンプスは、真新しい白さだ。やはりここには誰かが住んでいるんだろうか。

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