月のない夜に

阿瀬みち

第1話

 暗い。目を開けているのか、閉じていてるのかもわからなくなりそうな漆黒の闇。

 指の先から自分が溶けてなくなっていってしまいそうな感覚。

 ひんやりとした空気は吸い込むと体の芯まで凍えそうになる。


 頭がぼんやりと重かった。体中を細かな水の粒が包んでいる。

 それらが脳髄まで侵食してきたかのような曖昧さ。

 なにも思い出せない。なにも考えられない。

 暗闇が方向感覚を狂わせる。足元はひどくでこぼこしていて歩きづらい。

 ここは、どこなんだろう。


 むせ返るように濃密な霧の中を視界も殆ど無いままに歩いた。耳から、鼻から、重みのある空気が忍び込んできて、その代わりにぼくの大切な何かを掠めとっていくような気がしている。


 固く握りしめた右の拳が痛んだ。

 息を吸うたびに息苦しさに喘がなければならなかった。

 どうして自分はこんな目にあっているんだろう。なぜ、なんのために。


 突然耳元でけたたましい女の笑い声が聞こえた。ぞっと背筋が凍る。

 手探りで身の周りの空間を探った。

 けれどもその手は虚しく空を切るだけだった。

 幻聴あるいは耳鳴りだったのかもしれない。それでも。


 怖かった。

 気がつけば無我夢中で走りだしていた。

 顔に、腕に、なにか尖った細いものがたくさん当たる。

 気配が、何かの気配に追われるようにぼくは走った。

 このまま暗闇に溶けて消えてしまえればよかったのに。




 それからどれほどの時間が経ったのだろう。

 不意に耳元でかすかな水音が聞こえた。流れるような、穏やかな、とめどない水の音。

 沢があるのかもしれない。暗闇に目を凝らした。

 足元がじっとぬかるんでいるような気がしてきた。

 なんの気無しに触れた木の肌が、ぼくの指にささくれを突き刺す。

 にぶい痛みがぼくの感覚を取り戻してくれる。

 舐めると口の中に広がる、赤い味。

 そうだ、ぼくは、


 ぼくは、誰だ。


 女の哄笑が場違いにその場に鳴り響いた。


「うるさい」


 暗闇に向かって怒鳴りつけた。辺りが水を打ったように静まり返った。それから。


「私の声が聞こえるの?」


 女の声がした。若い女の声だと思った。肩越しに振り返る。ずぶ濡れだ、そう思った。


 背後に立っていたのは、青ざめた光を僅かに発する白いドレスの女だった。


「あなた私の声が聞こえるのね?」


 女はまた同じことを繰り返した。


 絶叫。あるいは哄笑。叫んでいるのか笑っているのかもはやどちらなのかわからない。

 狂っている。そう思った。彼女は狂っている。


 棒立ちの女から巻き上がる笑い声にぼくはその場に釘付けになった。さっきから聞こえていた笑い声は、彼女の声だったのか。女が踊るようにくるくると回る。少し遅れて白いワンピースの裾がふわり広がってくるくると回る。

 女のつま先が沢の水を踏みつけて鋭い水音がした。ぴしゃり、ぴしゃり、あはははははははははははははははは。それから彼女はバランスを崩して、水の上に尻もちをついた。それでもまだ声を上げて笑っている。


 逃げ出そうと思った。なんとかしてその場から立ち去りたかった。それなのに、膝から下が凍りついたかのように動こうとしない。

 どうにかして動かせるのは手だけだった。右手を、一層強く握りしめる。痛みだけがぼくの味方だと思った。これだけがぼくを正気に返してくれる。掌に食い込んだ爪が、ぼくの意識をはっきりとさせてくれる。


 ふと、ぼくは握りしめられた手の中に何か硬い感触を得る。

 これはなんだ。


 掌をそっと開くと、そこには金属の鍵が握られていた。


 鍵?


 大きい。十五センチはあるだろうか。ずいぶんしっかりしている。こんなもの、ぼくはずっと握りしめて走り続けていたんだろうか。そんなはずはない、だとしたら今気がつくのはおかしいだろう。


 まるで急にそこに出現したような鍵に、ぼくは怖くなった。もしかすると狂っているのは彼女の方ではなくてぼくなのかもしれない。鍵の存在に気が付かないような自身の認知能力をどうしたら信用できるだろう。欠落あるいは欠陥があるに違いない。ぞっとした。


「あら、それ、」


 女の声が不意に耳のそばから降ってくる。振り向くと息のかかりそうなほど近くに女の顔があった。


「なんだ、またあなただったのね」


「また?」


 女がじろじろとぼくの顔を覗き込んだ。その目には軽蔑の色が含まれている気がした。


「ほんとうにここはつまらないところだわ。ああ、なんてつまらない人生」


 女のセリフはいちいち芝居がかっていて神経に触った。


「それで、あなたどうするの?」


「え?」


「戻るんでしょう、そこに」


「戻る?」


「ついてきて」


 女は立ち上がって歩き出した。どこかでふくろうか何かが鳴いた。ぼくは狂った女の言いなりになる自分を情けなく思いながらも、女の後について歩き始めた。




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