綱島の喧嘩

 草刈新九郎に用事を頼まれた飛騨の山猿は疾風の如き俊足で東海道を駆け上がった。しかし、多摩川を越えたあたりで足止めを食らう。なにやら人だかりが出来ている。どうしたことだろう。

「なにがあったんです」

 隣に居た老人に山猿は尋ねる。

「ああ、なんでもよう、無宿者の取り立てでよう、臨時の関所が立ったんだよう」

 老人が答える。まずい。山猿の格好は三度笠に外套。無宿人そのものだ。このままでは江戸に入れない。新九郎の旦那に早く薬を届けたい山猿は焦った。近くに抜け道はないだろうか。あいにく江戸は不慣れな地。やすやすとは見つけられまい。山猿が困っていると、

「よう、飛騨の山猿じゃあないか」

 と一人の行商人が声をかけて来た。商売人に知り合いはいない。訝しがって山猿が笠の下を覗き込むと、

「おう、木鼠の忠吉じゃあないか」

 それは旧知の渡世人、木鼠の忠吉であった。

「なんでい、その格好は。堅気にでもなったつもりか」

「ああ、そうなんだ。さる大店の主人に見込まれて、諸国を行商して歩いてんだ」

「へえ、じゃあ、あっちの方は廃業かい」

 山猿は人差し指を鍵状にした。忠吉は渡世人と言いながら、身の軽さを生かして、空き巣、窃盗の類いを生業にしている小悪党であった。しかし、血を見るのは嫌いで殺生はしない。

「ああ、それがな、今世話になっている主人の家に忍び込んだがいいがドジを踏んじまって、役所に突き出されるところを、どういった訳か主人に気に入られてそこに勤める事になっちまったんだ。で、やってみると不思議と正業が面白くってよう。張り切ってるわけさ」

 忠吉が言う。

「ところで、山猿はどうなんでい」

「俺もよ、やっとこの人はと思える方に出会ってさ。無理矢理、子分にしてもらったところだ。その人の御用で江戸に向かってるんだが、この関所じゃ無宿者を取り締まってるらしい。ここで捕まりゃあ、佐渡送りだ。全く困ったぜい」

「ならよう、俺の小者に化けたらいい。そうすりゃあ江戸に入れるぜ」

「そりゃあ、助かる。しかし、なんで今頃無宿人狩りなんかやってるんだい」

「ああ、きっと今江戸で跋扈している盗賊の一味を捕らえようとしてるんだろう」

「盗賊?」

「ああ。なんでも歌舞伎に出て来そうな義賊らしいぜ」

「義賊かあ」

 そのころ江戸では人が二人顔を揃えれば、その盗賊の話題で持ち切りであった。なにせ阿漕に稼いでいる商人や、そこから賄を受けている強欲大名、旗本のみを狙い大金を盗む。決して人を傷つけないという鮮やかな仕事ぶり。さらには稼ぎの一部を貧乏長屋に散撒くという大胆な仕業。庶民達は、

「まるでねずみ小僧の再来だ」

「いや、ねずみ小僧は芝居の脚色。その上を行く、ねこ小僧だ」

「ねこ小僧じゃ語呂が悪い。野良ねこ小僧だ」

 と拍手喝采。一躍英雄として祭り上げられた。

 一方、公儀も黙ってはいない。老中鈴木出羽守は町奉行、大山右衛門尉と柏木甲斐守を江戸城に呼びつけ、

「早々に賊をひっ捕えて厳罰にせよ」

 と激しく叱責した。なぜなら出羽守も野良ねこ小僧の被害者であったのだ。頭に血が上るのも無理はない。

「へえ、とんだご時世だねえ」

 山猿が感心しているうちに関所を無事に抜ける事が出来た。

「また、逢おう」

 山猿と忠吉は再来を期して道を違えた。

「あ、ところで山猿。お前の親分はなんて方だい」

「ええと、新九郎さんだ」

「どっかで聞いたような名前だな」

「そうかい。侍崩れの茫洋とした方だ」

「覚えとくわ」

 山猿は神田神保町へと急いだ。


「なに、新九郎という侍崩れだと」

「へい」

「新九郎様に子分か……」

 ここは御徒町にある『玉屋総本店』。そう、あの玉屋玉三郎の店である。

「忠吉」

「へい」

「お前に暇を取らせる」

「えっ」

「その山猿とかいうものに付いて行って、お前も新九郎様の子分になれ」

「はい」

「そして新九郎様に何かあったら逐一、わしに知らせるのだ。給金は今の倍与える」

「かしこまりました。でも、なんで」

「新九郎様はな、時代を変える可能性のあるお方だ。今はそれしか言えない。わしもちょくちょく顔を出したいところだが新規事業を始めてしまって忙しいからな。そうしょっちゅうはいけない。だから、わしの代理をお前に任す。大事な仕事だ、抜かるなよ」

「へい」

 忠吉は再び渡世人となって新九郎の元へ旅立つ。ただし、関所で見咎められるので姿は行商人のままだ。

 そのころ山猿は緒方輿庵から薬をうけとり、鶴見へと急いでいた。そこへ、

「よう」

 現れたのは木鼠の忠吉。

「また逢ったな忠吉。ちょうどいいや、また小者に化けさせてもらうぜ」

「ああ、いいよ。ところでお前に頼みがある」

「なんだい」

「なんかなあ、お前さんの話しを聞いてまたやくざの道を行きたくなった。所詮は俺もならず者。堅苦しい生活は苦手だ。それにお前の見込んだお人だ。その新九郎さんって方の杯を頂きてえ」

「なんだ、しょうがねえ男だ。わかった、俺が新九郎さんに良く言って、子分にして貰えるよう取りはからってやるぜ。とにかく、急いで帰ろう。新九郎さんが薬を待って苦しんでるんだ」

「薬?」

「ああ、なんでも気力が落ちて動けなくなる病気らしい。気力を上げる薬。あとは憂鬱を取る薬、不安を打ち消す薬を緒方先生に出された。なんだか、腑に落ちない病の薬だが、難しい事はよくわかんねえ」

 そういうと山猿は走り出した。忠吉も遅れず付いて行く。


 飛騨の山猿と木鼠の忠吉が鶴見村の文吉一家に辿り着き、奥の間の中庭に入ると新九郎が縁側に寝そべっていた。

「新九郎さん、加減はどうです」

 山猿が尋ねる。

「うん、良くはない」

「薬を貰ってきましたぜ。どうぞ」

「手間をかけたな。すまんが水をくれ」

「へい」

 山猿が井戸の水を汲む。

「ふう。これで楽になる……そちらはどなただ」

 新九郎が忠吉を見咎める。

「へい、俺の知り合いで木鼠の忠吉と申します。こいつも新九郎さんの子分になりたくて江戸から参りました」

「だから、それがしは文吉貸元の厄介者。子分は取らぬと言っただろうに」

「そんなこと言わずにお側に置いてやって下さい。役に立ちますぜ」

「そうか、じゃあ、お前同様、それがしの友人ということにしよう」

「友人って、新九郎の旦那は我々やくざをそんな風に見てくださるので」

「ああ、それがしとて今は只の浪人者。やくざが友人とてなんの問題もあるまい」

「新九郎さん」

 山猿は感極まった。忠吉も同様である。

(やくざを友人と言えるなんて、なんと破天荒な。玉屋の旦那が言う通り時代を変える力がこのお方にはあるかもしれない)

 忠吉は思った。

 そんな折、鶴見一家の玄関あたりが妙に騒がしくなった。山猿が表に出てみると、三下の甚六が慌てて文吉の部屋に飛び込んで行くのが見えた。

「お、親分、喧嘩の使いです」

「慌てるねえ、甚六。誰からの使いだ」

「綱島の鬼五郎の若頭、花見の真介と名乗っておりやす」

「綱島か……ついに来たか」

 文吉は立ち上がって玄関に向かった。

「鶴見の貸元とお見受けいたします。わたくし、綱島の鬼五郎の子分、花見の真介と申します。この度は不躾ながら喧嘩の口上を伝えに参りやした」

 真介は腹の据わった男のようで堂々としている。

「まずは喧嘩状をお受けください」

 そういって文吉に喧嘩状を渡す。

「うむ、この度の生麦の仕置き、恩州博徒の不文律『人の縄張りは荒らさない』に反する非道の行い。よって天地神明にかけてその不儀をただすか……もっともな口上だな」

「へい」

「こっちにも言い分はあるが、仕方ねえ。で、場所と刻限は」

「へい、今日の羊の刻、場所は大綱の河原にて」

「わかった。そう伝えてくれ」

「えっ、あっしが伝えてよろしいので。こちとら命を張って参りやした。どうぞ、ご存分に殺してやって下せえ」

 真介は土間にあぐらをかいた。

「いや、ウチでは喧嘩の使いは斬らねえ。とっとと帰んな」

「さすが、人格一番の文吉貸元。あっしも貸元との喧嘩は不本意ですが、親分の決意は固くて止められねえ。ここは正々堂々喧嘩をしましょう」

 そういうと真介は去って行った。

「綱島にも良い子分がいるようだな」

 文吉は感心した。

「親分、そんな呑気なこと言っている場合じゃありませんぜ。鬼五郎の配下は百人を下らねえ。こっちはせいぜい三十人。ここは小机や大豆戸の貸元に助っ人を頼まなきゃなりますまい」

 代貸の利兵衛が慌てる。

「馬鹿いうな。他人の手を借りて喧嘩に勝っても意味はねえ。一家総動員で事に当たろう。お凪、家のことはお前に任した。男どもはとっとと支度しな」

「おう」

 熊太郎、虎太郎、竜太郎はじめ三下達が気勢を上げる。そこへ、

「貸元、それがしもお供つかまつる」

と新九郎が現れた。

「駄目だ、あんたさっきまで寝込んでいたじゃないか」

 文吉が怒る。

「薬を飲んだから大丈夫です。ぜひ連れて行ってください。日頃の恩返しがしたい」

「ううむ、あんたはだいじな客人だから連れて行きたくないが、正直人手が足りねえ。来てもらうか」

 文吉は渋々承諾した。


 ところ変わってここは綱島神明社。綱島の鬼五郎は約百人の子分を引き連れ、総鎮守の祭神に必勝を願う。

「人徳を売り物にして、その実他人の縄張りを奪って涼しい顔をしている、鶴見の文吉を討ち果たして恩州博徒の面目を保てますように」

 鬼五郎は柏手を打って必勝祈願をする。

「でもねえ親分、相手はたかだか三十人程度の小勢だ。一家総出で喧嘩する事はないんじゃないですか。俺に四十人も付けてくれれば親分にご足労掛けずに鶴見一家なんて、踏みつぶしてくれますよ」

 代貸の天狗の伊助が言う。

「そうは、いかねえ。相手には熊、虎、竜の三獣士がいる。ウチの連中はいまいち喧嘩慣れしてねえ。ここは数で勝負だ。相手の気勢を削ぐのも作戦の一つだ」

「へい」

「それにしても問題は生麦の長太郎だ。自分の縄張りを取られながら、その文吉に付いている。奴はこっちに寝返るんだろうな」

「それが今ひとつはっきりしやせん。使者は何度か送ってるんだが『今は自分を鍛えるのが先』とか言って追い返す始末でさあ」

「ならば仕方ねえ。生麦の縄張りも、俺が頂くか」

「そうすりゃあ、鴨居の番蔵、帷子の染吉、戸塚の友蔵、磯子の千ノ助、それに六浦湊の浦五郎たちとも対等に渡り合える大貸元になれますね」

「おう、恩州統一も夢じゃない」

「やがては相模にも進出して、駿河の大親分にも負けねえ顔役になれますぜ」

「そこまで言っちゃあ大事だ。まずは鶴見をぶっ潰そう」

「へい」

 そこへ、花見の真介が帰って来た。

「おう、無事だったか」

「へい、文吉貸元は敵ながら情のあるお方でした」

「そうかい。じゃあ、こっちも正々堂々戦って、男を上げようじゃないか。野郎ども、大綱の河原へ進軍だ」

「おう!」

 綱島勢は神明社の階段を降りた。


 鶴見の文吉一家が喧嘩支度をして往来を闊歩していると誰かが声を掛けて来た。

「鶴見の貸元」

「おう、佐吉さんじゃないか」

 男はこの辺りを取り仕切る目明かしの佐吉であった。

「どうした佐吉さん」

「なあ、貸元。この喧嘩、小机か大豆戸に仲裁を頼んで穏便に済ませられないかい」

「まあ、無理だな。綱島は頑固者だから」

「そうですか」

「なんだい、その奥歯に物の挟まったような言い草は」

「ええ、ちょっと困った事になりやして」

「なんだい」

「それがねえ、江戸の御老中が関八州の大名や代官に無宿者の取り締まりを厳しくするようお達しを出したらしいんですよ」

「へえ」

「それでね、六浦の代官、石田右京様がね『無宿者に目立った行為があれば遠慮なく処断しろ』ってあっしらに言って来たんですよ」

「あの、悪代官がか?」

「ええ、いつもは六浦湊の浦五郎に面倒は任せて横着している右京様も御老中の言いつけだからって張り切ってる訳でさあ」

「ふん、下らねえ」

「だからね、大量の人死にがでるような事になったら、あっしらも黙って見逃す訳にはいかないってことで」

「俺っちをお縄にすると」

「そうは言って」ねえ。あっしと貸元の仲だ。ここはひとつ、大事になったら貸元たちに草鞋を履いてもらいたいってことさ。なに、半年やそこらなもんさ。いずれ事が沈静化すれば元通りになるさ」

「なるほどね。俺もその辺の覚悟は出来てるさ。綱島をやっつけたら駿河の大親分のところでも行くよ。ただし、命があればの話しだがな」

「難しい喧嘩なのかい?」

「人数が違うからな。楽じゃあないよ」

「まあ、とにかく無事を祈ってますぜ。旅に出るようになったら、陰ながら協力しまさあ」

「ありがとな。じゃあ行くぜ」

 文吉は佐吉に別れを告げた。


 そのころ、文吉の家の戸を誰かが叩いた。

「誰だい、今時分に」

 凪が戸を開くと、そこには僧兵姿の孤雲が立っていた。

「和尚さん、なんて姿で」

 凪が問う。

「凪殿、話しに聞けば男衆は総出で綱島一家との喧嘩だそうだのう。なにかと不用心じゃ。拙僧を用心棒として二両で雇わんか。この拙僧、宝蔵院流の薙刀で敵の十人や二十人蹴散らして見せるぞい」

「宝蔵院流は槍でしょ。間に合ってます」

 凪はそう言うと戸を閉めた。すると、また戸を叩く音がする。

「二両はぼったくった。ならば、般若湯で手を打とうかのう」

 孤雲はぬけぬけと言い退けた。

「和尚はお酒が飲みたいだけでしょ。まあ、いいわ。あたしも気持ちが高ぶってしょうがないから飲みましょ。おあささん、酒と肴を用意して。一緒にやりましょう」

 さすが、文吉の後継者だけあって凪は肝が太い。文吉が負ければ自分の命だって危ないというのに剛毅に酒盛りをするようだ。

「気が効くのう、つまみに大蒜を持って来た。これでやろうかのう」

「相変わらず生臭坊主ね。葷酒山門に入るべからずではないの」

「ここは山門の外じゃ。構わん構わん」

 呑気に孤雲は玄関に上がり込んだ。


 文吉一家が大綱の河原に着いた時、綱島勢は完璧な備えをしていた。

「これは鶴翼の陣。相手側にはなかなかの軍師がいるようですね」

 新九郎が文吉に言った。

「大方、天狗の伊助だろう。あいつは侍崩れの噂がある」

「ほう」

「あれだけきっちり守られたら鬼五郎の首を取るのは難しいですね」

 竜太郎が不安げに言う。

「さて、それはどうかな」

 新九郎はにこにこと笑った。

「こんなときに笑ってられるとは大したもんだ」

 熊太郎が嫌みをいった。

「こりゃあ、全員で斬り込まなくちゃいかんな」

 虎太郎が意気込む。

「やくざの喧嘩は男を磨く好機だ。潔く戦って、潔く死ぬ。みんな覚悟を決めて敵に当たってくれ。卑怯な真似だけはするなよ」

 文吉が言った。

「こりゃあ、苦戦は覚悟の上だな」

 利兵衛が呟く。

「苦戦なんてものともすんな。俺たちは生きてたって意味のない無宿者。鬼五郎の首だけ目指せば良いのさ」

 文吉にはなんの衒いもない。


 綱島の鬼五郎は床几に座って、向こうに見える文吉一家を眺めて言った。

「予想以上の小勢だな」

「助っ人は頼まなかったようですね」

 天狗の伊助が言う。

「馬鹿正直な奴だからな。一気に片を付けよう」

 鬼五郎は床几から立ち上がって前方に進み出る。

「鶴見のう、喧嘩嫌いのお前が素直に出張ってきてそれだけは認めてやるぜ。だが、ここがお前の死に場所だ。覚悟を決め……なんだ、えっ、えっ?」

 鬼五郎が口上を途中で止めた。文吉勢の中から一人の男が猛烈な勢いで駆け出して来たからだ。

 男はなぜか右腰に差した刀を抜いて一直線に鬼五郎目指して突進して来る。

「なんだ?」

 鬼五郎の口からは疑問の言葉しか出ない。あわてて陣の後ろに下がる。

 男は一言も発さず、刀を峰に持ち替えて綱島一家に突っ込んで来る。

『ガシッ』

『バキッ』

『ドスッ』

 鈍い音がして綱島一家の子分達が一人、また一人と倒れていく。電光石火とはこの事。綱島勢の中央は突然の攻撃になす術も無く崩れていく。

「馬鹿野郎、相手は一人だ。囲んで叩き斬っちまえ」

 そう言う鬼五郎の声も震えている。混乱に乗じて男はバッサバッサと中央を突破して来る。

「ヒー」

 鬼五郎は恐慌を来した。男はもう目の前だ。近くで見ると男は額に不動明王の像を額に巻いている。

「野郎!」

 天狗の伊助ら取り巻きが必死に鬼五郎を守ろうとするが全く相手にならず脳天や脛、右腕を打ち付けられて地に伏す。ついには鬼五郎一人。子分達は呆然とするか、逃げ出している。男は刀を表に返し、鬼五郎の首筋に当てた。

「貸元、この男斬りますか?」

 男が文吉に叫ぶ。

「新九郎さん、なんて無謀な……」

 文吉はじめ鶴見一家の連中もなにが起こったのか分からず唖然としている。

「とりあえず、こっちに連れてきな」

 文吉が気を取り直して叫び返す。そのとき、鬼五郎の顔は真っ青になっていた。


「綱島のう、災難だったな」

 新九郎に引き据えられた鬼五郎を見て文吉は思わず慰めた。

「お前さんさえ得心がいけば今まで通りってことでいいぜ」

 しかし、鬼五郎は頭を振った。

「じょ、冗談じゃねえ。隣の縄張りにこんな鬼が居たら、俺は生きた心地がしねえ。奴は天魔だ。こんな恐ろしい事は初めてだ。二度と味わいたくねえ。俺は出家する。あとのことは鶴見のう、お前さんに任せる。好きにしてくれ」

 そういうと鬼五郎は髷を切ってふらふらと去って行った。その間際、

「鶴見のう、お前だっていつかその天魔に喰われちまうぞ」

そう叫んだ。

「……」

 文吉に言葉はなかった。

「親分……」

 利兵衛が口を開く。

「新九郎さん」

「ああ」

 一戦終わった新九郎は惚けたように河原の石に座り込んでいた。

「無茶はいけねえ。これであんたの噂は恩州中に広まる。仇の耳にも届くだろうな」

「ですね……だが、死人を出さずに事を納めたかった。貸元に辛い凶状旅をさせたくなかった」

 新九郎は絞り出すように呟いた。

「そうか……聞いてたのか」

 文吉は空を仰いだ。そこへ、遠くで様子を見ていた目明かしの佐吉が現れ、

「けが人あれど、死者なし。見事でした貸元。これで、些細な喧嘩と代官所に報告できます。あんたを取り締まることもありません」

 と言った。

「まあ、それはそれで良かったんだな」

 文吉は自分を納得させた。そして、

「さて、綱島の縄張りなんだが……熊太郎、お前に任せる」

と言った。

「えっ、俺ですか? ここは代貸の出番じゃないですか」

 吃驚する熊太郎。

「いや、ここは若いもんに託す。利兵衛は縄張りが落ち着くまでお前の下で細々した事をやってもらう。その後はまたウチの番頭だ」

「へい」

 利兵衛に文句は無い。

「なら親分、一つ頼みがあります」

「なんだ」

「新九郎さんをお貸しくだせえ」

「なんだお前、新九郎さんの事を嫌ってたんじゃないのか」

「へい、実は今の一件で新九郎さんの力に惚れちまったんです」

 顔を赤くして熊太郎が言う。

「ほう」

「だから、新九郎さんに新しい縄張りの剣術指南をして貰いたいんで。それに新九郎さんは頭も切れる。そばで軍師をしてくれれば心強い」

「ふーん。新九郎さんはどう思う」

「それがしは構いません。ただし、少し休みたい。身体の力が抜けてしまって今は何もしたくないんです」

 そういうと新九郎はけが人用に持って来た戸板に寝転がってしまった。

「なんでえ、この変わりようは。まあいい、気力体力が戻ったら熊太郎のところに行って貰おう。熊太郎、子分を十人付けるから今日から綱島入りしてくれ。それから新規に子分を集めろ。綱島の子分にもまともな奴はいる。下らねえ三下はうっちゃって、そいつらを呼び寄せても面白いだろう。そのほうが縄張りの運営もやりやすい。俺は、花見の真介なんていいと思うがな」

 文吉はそう言うと帰路に着いた。情けない事に新九郎は身動き出来ず、山猿、忠吉、勘八、甚六に戸板を背負わせ、寝たまんま鶴見に帰った。天魔どころか頓馬にしか見えなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る