勿忘草(わすれなぐさ)

吾妻栄子

勿忘草(わすれなぐさ)

「この赤いのは?」

老人は長身の体を折り曲げる様にして屈み込むと、花壇の中央を陣取って咲く一輪を指差した。

――チューリップ!

微塵(みじん)も臆する色のない声が答える。

「ちゃんと覚えてるね」

老人の深い青の目が輝いた。

「それじゃ、この黄色いのは?」

今度は花壇の隅に群れて花開いた一輪を示す。

――タンポポ!

底抜けに無邪気な声が飛ぶ。

「惜しいけど、違うね」

老人は笑って首を振った。

「これは、パンジーだよ」

長い人差し指で、花弁の黄色が黒茶に染まった中央部をつつく。

――パン、ジイ?

花の名が二つの音に切り裂かれて戻ってくる。

「そう、パンジー」

ゆっくりと繰り返す老人の笑顔が寂しくなる。

「次にまた聞く時までちゃんと覚えなきゃダメだよ」

呟く様に告げると、立ち上がって、車椅子を押し始めた。


「この、いっぱい咲いてる青い花は?」

老人の問い掛けに対し、車椅子の老婦人は眼前に広がる青紫の花畑を暫(しばら)く見詰めていたが、やがて頭を振った。

――しらない。

陽射しを浴びた老婦人の髪は白というより透き通った銀色だ。

円らな水色の瞳を見開いて華奢な首を振る様(さま)はまるで童女に見えた。

「君の一番好きな花じゃないか」

老人は車椅子を押しながら、青紫の花畑の中をゆっくりと進む。

――はじめて、みたわ。

「君の家の側(そば)にも、たくさん咲いていたね」

老人の目に、無数の花が宿る。

――おへやに、こんなの、さいてない。

「ずっと君に話しかけたくて、それで、あの時、花の名前を聞いたんだ」

老人の口元がやや悪戯(いたずら)っぽく笑う。

――へんなひと。


「あの子もこの花が大好きだったな」

老人はふと傍らに咲く一本に手を伸ばして摘み取った。

「まだ生まれたばかりの頃から、河原のいっぱい咲いている所に抱っこしていくと、あの子、本当に嬉しそうに笑ってた」

老人の手にした細い茎の頂(いただき)で、小さな花々が微笑む様に揃って揺れている。

――あのこってだあれ?

「春になると、三人で一番綺麗な花を見つける競争をしたね」

摘み取った花を老婦人のスカートの膝に載せると、老人はまた別の一本に手を伸ばす。

「あの子は二本摘んで来て、『一本はパパ、もう一本はママにあげる』と」

今度は花よりまだ固い蕾の多い一輪だった。

――なんのこと?

「生きてたら、きっと君より器量良しになっただろうと今でも思うんだ」

言葉の最後の方で、老人の声は消え入る様に掠れた。

「そして、今頃はあの子も母親になって、可愛い孫が……」

――ぜんぜん、わかんない。

「一体、どうすれば忘れられるんだ」

老人は歩みを止めると、まるで風に漂う香りを吸い込む様に目を閉じた。

――しらない。

「思い出してくれ」

老人は花の中に崩れ落ちるようにして跪(ひざまず)くと、妻の銀髪の頭をかき抱いた。

「勿忘草(わすれなぐさ)だよ」

噛み締める様に告げる夫の頬を、光るものが伝う。

「君が、昔、僕に教えてくれただろ」

――しらなーい。

頭を抱かれたまま、老女は、虚ろな目のまま子守唄でも歌う風に語尾を延ばす。

「僕はずっと覚えてるよ」

老人は翳(かげ)って花と同じ青紫になった目を見開いた。

「君が全部忘れたと言っても」


「おーい!」

怒りより焦りを孕(はら)んだ声が唐突に飛び込んできた。

老夫婦の孫と言っても通るほど若い男が花を蹴散らすようにして駆けてくる。

「ダメですよ、病院の敷地を出ちゃ」

走り寄った青年はやや横柄なほど強硬な口調で老人に告げた。

「この近くは川があって危ないんですから!」

言いながら、汗を滲ませた青年は花畑の向こうを盛んに指差す。

「すみません」

老人は目を伏せて答える。

「私の不注意でした」

「指示に従っていただけない場合は、患者との散歩は禁止します」

青年は執拗に食い下がる。

「本当に、申し訳ありません」

老人は深々と長身を折り曲げて頭を下げた。

そうなると、青年もさすがに矛先を失った顔つきになる。

「それじゃ、おばあちゃん、そろそろお部屋に戻りましょうね」

青年は打って変わって笑顔で告げると、せかせかと老女の車椅子を押し始めた。


「いかがでしたか」

病院の門を入った所で、車椅子を押していた青年医師は老婦人に耳打ちする。

――主人は、全て忘れた様です。

老婦人はそう言うと、手にした青紫の花を端正な鼻に寄せ、静かに目を閉じた。

「それは良かった」

若い医師はほっと息を吐く。

――主人の忌まわしい記憶を取り除いて下さり、本当にありがとうございます。

老婦人の声は面差し同様、端然としている。

「こちらこそ、ご主人のロボトミー手術に同意された奥様の勇気に感謝します」

若い医師はまるで叱られた子供が謝る様に答えた。

――全て、あの人の為ですわ。

医師の青年は返す言葉を見つけられないまま、ひたすら車椅子を押し続ける。

花畑を離れても、そよ風に乗って甘い香りが漂ってくる。

可憐な花だが、匂いは強い。


――あの人があんな事をしたのは、私の痛みに苦しむ姿が耐えられなかったからなんです。

「そうですね」

若い医師は頷きながら振り向いた。

青紫の花霞の中に、黒い影が佇立している。

あの老人は、本当に全てを忘却したのだろうか?

遠目だと、同年輩の青年と見紛うほど肩幅の広い、長身の後姿を眺めていると、医師の中には疑惑が際限なく湧き出してくる。

まだ、野原の勿忘草が固い蕾だった頃、あの老人は妻を抱きかかえて雪解けしたばかりの水の流れる川に飛び込んだのだ。

末期癌の妻を薬で眠らせ、縄で自分の体に固く縛り付けて、だ。

あと五分でも発見が遅れていたら、確実に二人とも溺死していた。

あの時は、自分を含めて病院の皆が驚いた、と青年医師は思い出す。

それまでは、誰もが彼を、病妻を辛抱強く看病する、心優しい、穏やかな、良識そのものの老人だと信じて疑わなかった。

妻の余命がもって半年だと告げられても、あの老人は取り乱す様子も見せず、恐るべき冷静さで受け止めたかに周囲の目には映っていた。

それが、まるで周到な脱獄犯さながら、俺たちの目をすり抜けて心中しようとしたのだから。

そうした一連の事実は、果たして彼の脳裏から完全に消え去ったのだろうか?

そして、手術後に俺たちが新たに教え込んだ、妻が認知症だという嘘を信じ切っているのだろうか?

老人はこちらに背を向けたまま、勿忘草の群れの中にただ一人身を置いている。


――あの人、大事なことは本当にすぐ忘れちゃうんだから。

老婦人の呟きが青年医師の目を前方に戻した。

この髪は、かつては、輝くばかりの金髪(ブロンド)だったに違いない。

振り向かない夫人の銀髪の頭を眺めながら、車を押す医師は思う。

老婆になった今でも、この人の肌は雪の様に白く、水色の瞳はまるでアクアマリンだ。

入院したばかりの頃は、この夫婦の孫娘とか、姪っ子とか、少しでも血の繋がった若い女が見舞いに来ないかと俺は密かに、だが本気で期待したものだった。

――娘が死んだ時も、二人で約束したんですよ。

「え?」

若い医師は思わずギクリとする。

今の内心の声を聞きつけられた気がした。

――あの子に天国でまた会えるまで、私たちは精一杯生きましょうって。

老婦人の銀髪は、車椅子の振動に合わせて微かに揺れている。

――年寄りの繰(く)り言(ごと)と思われるでしょうけど、本当にいい子だったんです。

空に向かって真っ直ぐに首を伸ばした赤や白のチューリップの脇を通り過ぎると、今度は黄色や紫のパンジーが華奢な花びらを風にそよがせているのが目に入った。

――溺れた友達を助けようとして、自分が運河に落ちるなんて……。

花壇の門を曲がるとそこから路面はコンクリートになっており、ザラついた車輪の音が老婦人のひそやかな話し声を遮った。


「お嬢さんは」

医師は思わず口にしてから、引っ込みが付かなくなった形で言葉を続けた。

「その、お幾つだったんですか?」

――七つになる前の日でした。先に落ちた子は、助かったのに。

老婦人の静かな声は終わりの方で壊れる様に震えた。

――その日の夕方、あの子の遺体がやっと引き上げられた後、あの人は何も知らずに街で買った娘の誕生祝を持って帰ってきたわ。サテンのワンピースに、エナメルの靴に、レースのリボン。全部、あの子の好きな明るい水色を選んで。

そこまで語ったところで、老婦人がふっと振り向いた。

濡れたアクアマリンの様な瞳から、透き通った雫が零れ落ちていくのを医師は目撃した。

――あの人、本当に、娘には甘いパパで、いつだってお姫様みたいに着飾らせてたの。

泣き濡れた目のままおどけた風に微笑むと、老婦人は自らの襟元を指す。

青紫のシルクのツーピースを纏った姿は、プリンセスというより、むしろクイーンに相応しく映った。

老婦人はまた前を向き直ると、医師が耳を澄ませてやっと聞き取れるくらいの乾いた声で告げた。

――それから一年近く、私たち二人は抜け殻みたいになって暮らしていました。


車椅子が専用のスロープを緩やかに昇りだす。

――でも、次の年の春、あの子の死んだ岸辺にこの花が咲いたのを見て、決心したんです。あの子のためにも、私たちは生きなきゃいけないんだって。

行く手で、スロープのすぐ隣の階段にたむろして止まっていた鳩が一斉に飛び立つ。

――だって、娘が生きられなかった分まで私たちが引き受けなかったら、それじゃ、あの子があまりにも可哀想じゃありませんの。

飛び立った鳩の群れは、瞬く間に碧空に生じた黒い点と化した。

羽ばたきと鳴き声だけが辺りに尾を引いている。

――あの時も私はそう言ったのに、あの人、忘れてしまったのかしら。

青年医師は黙って車椅子を押し続ける。

――すみませんね、こんな年寄りの愚痴に長々と付き合わせてしまって。

スロープを昇り終えると、老婦人は端然とした声を取り戻していた。

――私も、もう、全部忘れてしまいましょう。

老婦人は強まる陽の光に花をかざすと、何事かまた思い出した様にふっと微笑んだ。(了)


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勿忘草(わすれなぐさ) 吾妻栄子 @gaoqiao412

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