七ノ章

 砕け散った仮面の下から現れた、金谷の素顔は。

 大蛇に絞め殺されるラオコーン像さながらの、苦悩の表情だった。

 がばっ!

 電光のような速度で、上着のポケットから掴み出す。冷ややかに光る、金属の塊を。

(鉄砲!?)

 どんな伝手で入手したのか、国軍で広く使われている二十六年式拳銃の銃口は、ぶるぶる震えながらチヨを狙っている。

「申し訳ありません、チヨ様――事情をご説明して、自主的に出て行ってもらうべきでした――」

「え――!?」

 にごり切った沼から沸き立つ泡のように、忌まわしい記憶が蘇る。

(ま、まさか――)

 余所者は出て行け、余所者は出て行け、余所者は出て行け――。

(あれは、金谷さんだったの――!?)

 そうだ、絹の目的は、チヨの心臓を食べて、清らかさを取り戻すこと。妄想の理屈とは言え、彼女にとっては真実だったのだろう。だとしたら、矛盾するではないか。そう、チヨを追い出してしまっては、本末転倒のはず。

 ああ、どうして気付かなかったのか。彼女の狂気を隠れみのに、もう一つの狂気が自分を狙っていたことに。

「いや、無理か――ご主人様が、お許しになるはずがない。あの方は、すでに“祭”に取り込まれてしまっている――! わたくしに残された手は、最早これしかないのです!」

 一体、何が金谷を追い詰めているのか。それは、彼にしか分からない。

 ただ、一つ確かなのは。

 彼には、最早一片の躊躇いもないであろうこと。

「お許しを、チヨ様、ご主人様――!!」

 ぴくぴくと痙攣けいれんしながらも、金谷の指が引き金に掛かる。

 のを、見た刹那せつな

 チヨの手が、側に置かれた花瓶に伸びた。流れるような動作で投付ける。

 顔面を直撃され、金谷が銃口を逸らす。結果、銃弾が砕いたのは、窓ガラスだった。

 チヨ自身が、自分の冷静さ――あるいは冷酷さ――に驚いていた。正当防衛とは言え、この自分が、躊躇せず他人を攻撃するなんて。あるいは、無意識では金谷を疑っていたのか。――だとしたら、仮面を被っていたのは、自分も同じだ。

 内省している暇は、今はない。ドアをふさいでいた金谷がよろめいている隙に、横をすり抜け、廊下に飛び出す。

「え、栄太郎さん! 金谷さんが――!」

 走りながら、必死で叫ぶ。そうだ、絹の時とは違う。今は、あの人もいるのだ。きっと助けてくれる、あの時のように――。

 だが、そんなチヨに、無情な宣告が投げかけられる。

「無駄です! ご主人様の夕食に、睡眠薬を入れさせて頂きました!」

(あああ――)

 食事が済むなり眠ってしまったのは、疲労のせいではなかったのだ。

 しかし、それなら、なぜ自分には盛らなかったのか。考えて、はっとする。おそらく、検死で睡眠薬が検出され、疑いを向けられるのを防ぐためだろう。現実は見失っても、計算力は衰えていない。彼らしい、狂気の陥り方。

(ああ、金谷さんまで、どうして――)

 口では固いことを言いながらも、本当は優しい人だと思っていたのに。

 何だったのだろう、この屋敷での日々は。チヨは、恐怖を通り越して悲しくなった。住人四人の内、二人までもが仮面を被った狂人だった。あの楽しい思い出は、全て偽りの仮面劇に過ぎなかったのか。

「わたくしが不甲斐ふがい無いばかりに、お二人は――繰り返させはしない、もう二度と――!」

 背後から迫る叫びは、苦しげだった。あたかも、神前に懺悔ざんげする罪人のように。

(金谷さん――)

 分かったような気がする。彼が狂気に囚われた理由だけは。

 彼は、五年前の悲劇に、ずっと責任を感じていたのだ。自分が雪子から目を離さなければ、防げたのではないかと。栄太郎の側にいることが、その重みを片時も忘れさせてくれず、ついに彼の心は押し潰され――。

(あの人も、絹さんと同じ――)

 あまりに直向すぎて、修正が効かず、破滅への坂道を転がり落ちていくしかなかった。

 何と、悲しい運命。

「“祭”めええええぇぇぇぇっっっ!!!」

「ひいっ!?」

 凶弾が頬をかすめ、飾り棚の皿を粉砕する。

(と、とにかく、外へ――)

 二度目で少しは慣れたのか、頭の中の地図が真っ白になることはなかった。真っ直ぐに玄関に向かい、庭に飛び出す。月明かりを頼りに、噴水を迂回し、刈り込みの間を潜り抜け、門に飛付いて。

(あっ!?)

 鍵が閉まっていることに気付いた。

 誰の仕業なのかは、考えるまでもない。ここさえ閉めてしまえば、屋敷は高い柵で囲まれたおりも同然だ。

 彼は、自らを閉じ込めた妄想の檻に、チヨも引きずり込んでしまったのだ。

 凍りつくチヨに、背後から近付く足音。そう、檻の主たる、猛獣の。

 慌てて茂みに隠れ、息を殺す。獲物の匂いを嗅ぎ回るかのように、その周囲を足音が執拗にうろつく。

「“祭”め、“祭”め、“祭”め、“祭”め、“祭”め、“祭”め――」

 念仏のように繰り返す、妄執の囁きと共に。

 その内、がさがさと茂みを掻き分ける音も混じり始める。気付かれたのだ、自分が近くに隠れていることに。このままでは見つかる、かと言って、飛び出すこともできない。ギロチンの刃が落ちるのを待たされている、死刑囚の気分。

(ああ、せめて――)

 元々、震災で死んでいるはずだったのだ。贅沢は言わない。せめて、明日が終わるまでは、生き延びさせてくれないだろうか。

 そう、栄太郎と一緒に、祭に出るまでは――。

 当てにならない神に、それでも必死で祈った、その時――。

 うぐっという、苦しげな呻き声。

 続いて、どさりという、おそらくは誰かが倒れた音。

 それきり、辺りは静寂に包まれた。

(な、何が――?)

「チヨ、どこにいるんだ!? もう、出てきても大丈夫だぞ!」

 その声を聞いた瞬間、チヨはバネのように茂みから飛び出していた。

「栄太郎さん!?」

(ああ、神様!)

 神の声を聞いたパウロの如く、チヨは一瞬で心を入れ替えた。祈りは通じた。そして、彼を助けに寄越してくれた。

 やはり、神はいるのだ。

「チヨ、無事か!?」

 栄太郎の手が、肩に置かれる。その暖かさ、力強さは、断じて幻覚ではない。

「は、はい。でも、どうして? 金谷さんが、夕食に睡眠薬を――」

「ああ、そういうことか。どうも、晩飯の後から気分が悪くてさ、部屋に戻ってから、全部吐いちまったよ。多分、薬が体に合わなかったんだろう。ごめんな、せっかくチヨが作ってくれたのに」

 ああ、こんな時にまで、この人は――のぼせているチヨは気付かなかった。

「これも――の、ご加護かね」

 と、栄太郎が小さく呟いたことに。

「そ、そうだ! 金谷さんは?」

「あいつは――」

 栄太郎の視線を追って、はっとする。

 金谷が、うつ伏せに倒れていた。

 その体の下から、じわじわと赤いものが広がっていく――血だ。

「お、お医者様に――!」

「――残念だけど、手遅れだよ。つい、力を込めすぎちまった。刃は心臓に達しているだろう」

 見ると、栄太郎は、チヨの肩に置いた方とは反対の手に、何か刃物らしきものを握っている。その刀身に滴る血は何故か、考えるまでもない。

(ああ、栄太郎さんは――)

 自分を救うためとは言え、家族に等しい金谷を手にかけてしまったのか。

(あたしのせいだわ、あたしの――)

 ――あたしのためになら、この人は家族を殺すのも厭わない

「ご、ご主人様――!」

 息も絶え絶えな、金谷の声。どうにもこうにも、気持ちの整理が付かないが、今は彼の遺言を聞き取る方が優先だ。

 立ち込め始めた血の匂いを堪えて、耳を近付ける。

「それを、どこで――」

 何のことか、栄太郎にはすぐ分かったらしい。

「ああ、これか?」

 ひょいと、妙に軽々しい仕草で持ち上げてみせたのは、あの刃物だった。月明かりに照らされ、チヨは初めてその詳細を目にした。

 一変わったデザインだ。刀身は蛇のように、くねくねと捩れ――。

 どこかで見たような――

「家宝の――短刀――」

 金谷の苦しげな呻きに、チヨははっとする。では、あれが――石守家の先祖たる宣教師が伝えた品。そして、五年前の惨劇を演出した小道具――思い至って、チヨは寒気が走る。

(確か、金谷さんは処分したって――どうして、栄太郎さんが?)

「何、沢の近くを散歩してたら見つけたのさ。どうして、あんな所に落ちてたのかな~」

「い、いけません――それは――!」

「ああ、知ってるよ」


「親父が、母さんを生贄に捧げるのに使ったんだろ?」


 さらりと、栄太郎が言い放った一言は。

 稲妻と化して、一同を貫いた。

 永遠とも、一瞬とも付かない間を置いて。

「なぜ――知って――」

 金谷が、ようやく発した掠れ声に。

「そりゃ、見てたからさ」

 栄太郎は、事も無げに応えた。

「金谷も一緒にいたじゃないか、忘れたのか?」

 愕然と向けられたチヨの視線に応えて、金谷は必死に目で訴える。そんなはずはない、そんなはずはない――。

 その目が、不意に見開かれる。

 ――なあ金谷、母さんはどうして――。

「今でも、よく覚えてるよ――きれいだったな、真っ赤なドレスを着た母さんは」

 栄太郎は、懐かしそうに眼を細めた――ところで、ようやくチヨは感じ始めた。視界がぐにゃぐにゃと歪む程の、とてつもない違和感を。

 なぜ、もっと早く気付かなかったのか。

(栄太郎さんは――)

 そうだ、自分を救うためとは言え、家族に等しい金谷を手にかけたのだ。

 なのに、何故。

(全然、悲しそうじゃないの?)

 彼の様子は――いつも通りだった。午後のお茶の一時と、何ら変わりない。瀕死で横たわる金谷を前にしたその姿は、まるで、登場する場面を間違えた役者のようだった。

「ま、まさか、あの晩から、すでに影響が――」

 呆然としていた金谷は、一転、がばっと半身を起こす。

「ご、ご主人様、どうか思い留まりを! あなたは“祭”に操られて――」

 勢い余って盛大に吐血しながらも、金谷は必死に言いつのる。死を目前にしても、彼は妄想の檻から出られないのか。

 そんな凄まじい様にも、しかし、栄太郎は眉一つ動かさず。

「操られてなんかいないさ」

 さらりと即答する彼に、違和感はさらに増す。

「お膳立てしたのは、確かに“祭”だ。この短剣が戻って来たのは、奴の差し金だろう。ひょっとしたら、チヨが佐羽戸にやって来たことさえ――。だが、そこから先は、全て俺の意思だ。俺は――チヨと“祭”に行きたいんだ」

(え、栄太郎さん――)

 やはり、そうだ。

 彼は、金谷と意思の疎通ができている――妄想の檻の中で、咆哮ほうこうを上げている猛獣と。その証拠に、二人は何度も同じ言葉を口にしている。

 “祭”。

 字面だけではない。そこに込められた意味も、ちゃんと共有している。

 いや、二人だけか?

『そうすれば、私も“祭”に行ける!』

(そう、絹さんも――)

 明日の村祭のことだとばかり思っていた。だが、ひょっとしたら、彼女もその言葉を、金谷と同じ意味で用いていたのではないか。

 分かっていなかったのは、自分だけだったのでは。

(一体、一体、祭って何のことなの!?)

 分からない、分からない、だが、一つだけ確かなことは――。


 私には祭に出る資格が汚らわしい犬畜生が祭に心臓をおくれえええぇぇぇそうすれば私も祭に祭の仕業だったのです祭は先代様を操り奥様をあなたは祭に操られてなんかいないさ俺はチヨと祭に祭に祭が祭を祭と祭へ祭は“祭”“祭”“祭”“祭”“祭”“祭”“祭” “祭”“祭”――――。


 石守家は“祭”に憑かれている。


 *


「チ、チヨ様、お逃げ下さ――」

 それが、金谷の最期の言葉となった。動かなくなった金谷を見下ろして、ようやく栄太郎の頬に涙が伝う――。

「お休み、金谷。長い間、ご苦労さん」

 ――口元には、笑みを浮かべたまま。

 絹の時にも見せた表情。しかし、今のチヨの目には。

「でも、まあ、明日の“祭”で、また会えるよな」

 まるで、違った意味に見えた。

(まさか――そんな――まさか――)

 彼もなのか。

 優しい顔、怒った顔、照れた顔、とぼけた顔、悲しげな顔。

 くるくるとよく変わる、彼の顔も全部。

( 仮 面 ダ ッ タ ノ ? )

「チヨ、明日はいよいよ“祭”だな」

 栄太郎が、チヨに向き直る。片手に、家宝の短刀を握ったまま。

 ああ、そうだ。ようやく思い出した。あれを、どこで見たのか。

(夢の中で、邪教の司祭が握っていた――)

 そうだ、あれを伝えた宣教師は――つまり、シュトレゴイカバアルが邪教徒の村だった頃、まさにそういう用途に使われていた品なのではないか。

 ある意味、栄三の使い方は全く正しかったのだ。

「楽しみだな、真っ赤なドレスを着たチヨ――きっと、きれいだぜ。母さんにも負けないくらい」

(真っ赤なドレス――ああ、まさか)

 バラバラに散っていたピースが集まり、ようやくその言葉の意味も見えてくる。

 五年前の惨劇。黒い石碑の前に横たえられていた、雪子のむくろ

 腹部を切り裂かれ、腸を何メートルも引きずり出され、溢れ出た血で周囲まで赤く染めていたという、その光景は、幼い栄太郎の目には、そう――。

 真っ赤なドレスを着ているように見えたことだろう。

(あ――あ――)

 栄太郎の背後に、目を向ける。

 高い鉄柵の向こうに見えるのは、鬱蒼うっそうと木に覆われた――聖域の森だ。

 視界がぐにゃぐにゃと歪み、眼前にぬうと立ち上がる。

 黒い石碑が。

 それを背景に、鮮血滴る短刀を片手に立つ栄太郎の姿は、まさに、あの夢の再現だった。

 そして、今やチヨの目にも、はっきり見えていた。

 “祭”の姿が。

 それは、黒い石碑を中心に、佐羽戸全域に支配の触手を伸ばしていた。あたかも、巨大な蜘蛛くもの巣のように。

 これだったのだ。邪教の司祭が持ち込んだものは。黒い石碑は、単にこれを納めるための殻に過ぎない。

『“祭”の仕業だったのです』

 ああ、今なら分かる。金谷は狂ってなどいなかった。

 そう、全て“祭”の仕業だった。他に、どう表現できよう。

 シュトレゴイカバアルでそうしたように、“祭”は佐羽戸でも生贄を求めたのだ。そして、栄三を操り――。

 だが、数百年の絶食が、雪子一人で満たされるはずもなく。

 ああ、見える――栄太郎の全身に、蜘蛛の巣がからみ付いて――いや、それどころではない。おそらく、糸は彼の魂にまで入り込んでいる。最早、彼は蜘蛛の巣を構成する糸そのもの。

(そ、それじゃあ、金谷さんは――)

 彼がなぜ、あんなことをしたのか。今なら、それも分かる。栄太郎に、父と同じ運命を辿らせまいとしていたのだ。

 チヨを追い出そうと、あの手この手で脅迫し、ついには――。

『ご主人様のお手を汚させるぐらいなら、いっそこの手で――!』

 しかし、“祭”に操られた栄太郎に、ことごく阻止され――。

「チヨ――」

 栄太郎が近付いて来る。短刀――“祭”に与えられた牙を手に。

 飢えた蜘蛛たる“祭”に捧げるために。

 母の形見の、真っ赤なドレスを着せようと。

(い、嫌――)

 その、穏やかな笑顔に――。

(来ないで――)

 ぴきぴきぴきぴきぴき――忌まわしいヒビが――ヒビが――。

(見たくない、この人のだけは――!)

 ぴきっっっ――!

(ひいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ――…!!!)


 ――――――――――――――――。


 *


 いつまで待っても。

(――――――――え?)

 栄太郎の笑顔は、砕け散らなかった。

 いや、砕け散るも何も、あれは――。

(仮面じゃない――?)

 そう、金谷や絹のような仮面など、彼は被っていなかった。

 何一つ、偽ってなどいなかったのだ。最初から。

『あのさ、気持ち、分かるよ』『そうだ、チヨも出てみないか?』『きっと似合うぜ――真っ赤なドレス』『俺の中には、邪教徒の血が流れているんだぜ』『言っただろ、君の力になりたいって』『だから――人は、祭を止めないのかもしれない』

 そして今も。

「チヨ、好きだ」

 びくん、チヨの心臓が跳ね上がる。

(あたしも――)

 あまりに飾らない告白に、彼女もまた、心を丸裸にされて。

「帝都に帰ることなんかない、ずっと一緒にいよう」

 うなずきかけたチヨを、最後の理性が押し留める。よく見ろ、彼の手を。そこに何がある?

(短刀――あたしに、赤いドレスを着せるための――)

 だが、理性の抵抗ははかないものでしかなかった。なぜなら、チヨはもう理解していたから。

 栄太郎が、チヨに唇を重ねる――

 ――この行為と、片手に握った短刀は、何ら矛盾していないのだと。プロポーズする男の手に、結婚指輪があるのと同様に。

「はい――栄太郎さん――」

 陶然と肯くチヨを、栄太郎は強く抱きしめた。

 “祭”が、ゆさゆさと巣を揺らしている。

 あたかも、二人を祝福するように。


 *


 薄れゆく意識の中、金谷は自嘲の笑みを浮かべていた。

(“祭”だと――?)

 それが、栄三を操り、雪子を生贄にしただと――馬鹿な。そんなもの、存在する訳ない。

 全ては、愚かな自分が生み出した幻想だ。

 分かっていたはずだ。五年前の惨劇は、きっと――。

(私のせいなのだ――)


 *


 五年前の祭の前日。

 栄三と雪子の姿は、肖像画の前にあった。

 しかし、絵の中の笑みは、現実の二人の顔にはない。

 彼らの顔に刻まれているのは、沈痛な表情だ。

 机の上には、一枚の紙が置かれている。

 診断書、石守雪子――急性骨髄性白血病、要入院。

『あなた、栄太郎のことでお話が――』

『――私とは、血が繋がっていないのだろう?』

『! ご存知でしたの――』

『父親は――金谷だね』

 項垂うなだれる雪子の肩に、栄三は優しく手を添える。

『分かっているよ。子供が作れない、私のためだったのだろう?』

『酷いことをしました。あなたはもちろん、栄太郎や金谷さんにも――』

『私は感謝しているよ。おかげで、あの子が生まれてくれたのだから』

 雪子の頬を伝う涙が、溶かしていく。二人の間に、常に立っていた見えない壁を。

 結婚して十数年、ようやく二人は、本当の意味で夫婦になったのかもしれない。

『お互い寂しかったね。家族なのに、本当のことを言えなくて』

『でも、それも、もう終わり――』

『ああ、私達は明日の“祭”で一つに――』

『ごめんなさい、栄太郎――あなたを置いていく私達を、どうか許して――』


 *


 祭の日。

 山々の向こうに日が沈み、普段なら早々に闇に包まれる佐羽戸だが、今晩ばかりは違う。まるで川面に集う蛍のように、無数の明かりが村に散りばめられている。村人達が手にした、角灯の光だ。

 村人達は一様に、灰色の長衣ローブに身を包んでいる。顔もフードで覆われ、性別すら定かでない。そんな人々が角灯を手にぞろぞろと歩く様は、よく知らない者の目には、少々不気味に映るかもしれない。

 同じ衣装に身を包むのは、神に仕える者同士、地を耕す者も家畜を飼う者も、男も女も関係ないという教えを表しているのだ。

 村人達は、大通り沿いにぞろぞろと並んでいく。そして、灰色長衣と角灯の長い柵が完成した頃合いを見て。

 ――いつくしみふかき、ともなるイエスは、つみ、とが、うれいを、とりさりたもう――。

 賛美歌が始まる。指揮者がいないとは思えない程の、見事な合唱だ。

 歌声に導かれるように、大通りを、やはり灰色の長衣を纏った一団が行進してきた。長い棒をかついでいる。そこにぶら下げられているのは、羊の丸焼きだ。キリスト教では、羊は聖なる動物とされ、神への供物に用いられるのだ。

 一団は、大通りに並ぶ人々に見守られながら進んでいく。羊はイエス・キリストの象徴でもある。この行進は、十字架を背負わされたイエスが、ゴルゴダの丘へ向かう場面を表しているのかもしれないと、栄三は分析していた。

 やがて、教会前に着くと、ゆっくりと扉が開く。中から一歩一歩、確かめるような足取りで現れた人物だけは、他の村人と区別が付いた。やはり灰色長衣だが、雰囲気が違う。おそらく、彼が司祭だ。

 彼は木の枝を、聖水で満たした水瓶みずがめひたし、供物の羊にぱっと振り掛ける。神への捧げものに、俗界のけがれが付いていてはならないため、こうして清めるのだ。この辺りは、神道の“みそぎ”の影響も受けているかもしれない。

 清めが済むと、長衣の袖から短刀を取り出し、羊を解体し始める。

 ――生憎、気付いた者はいなかった。その短剣が、五年前に失われたはずの物であることには。

「受け取りなさい、これは私の血肉である」

 司祭の厳かな託宣に、村人達がアーメンの大合唱で答える。

 そして――。

「ああ、みんなご苦労さん」

 がらりと明るい声になり、村人達を労う。

 無論、司祭は栄太郎だった。

「いやいや、坊ちゃんもお疲れ様じゃった」

「ご立派でしたよ。坊ちゃんももう一人前の司祭様ですのう」

 沈黙を保っていた村人達も緊張を解き、村に賑やかさが戻ってくる。ここまで来れば、後はもう難しいことはない。

 司祭に、最後の一仕事を任せるばかりだ。

「よっこいせっと――じゃあ、行ってくるよ」

 解体した羊から頭部を選り分け、銀の器に乗せる、これを聖域の石碑に備えれば、祭は終了だ。残りは神の恵みに感謝して、広場で催される宴――とは言っても質素なものだが――で供されるのだ。

「みんな、腹減ってるだろ? 先に始めててくれよ」

「い、いえいえ、お気遣いなく。坊ちゃんがお戻りになるまで待ってますよ」

 という村人の言葉は、暗に、無事に戻ってくれという願いが込められていたに違いない。

 その時、七、八歳ぐらいの子供がトコトコと歩み出て、栄太郎の長衣を掴んだ。

「栄太郎の兄ちゃん、危ないよぉ。熊に食べられちゃうよぉ」

「こ、これこれっ!」

 母親らしい女性が、慌てて引き戻す。周囲の村人達も、フードの下で冷や汗を流している。彼らも薄々は気付いているのかもしれない、真相に。

 だが、当の栄太郎はからから笑って、子供の頭を撫でてやっている。

「平気平気、俺には神様が付いてるんだ。熊なんか怖くないさ」

 彼の姿が聖域の森に消えたところで、ようやく村人達から安堵あんどの溜息が漏れる。

「坊ちゃん、今年は大丈夫そうじゃのう」

「ああ、去年までは、どことなく無理なさってる感じじゃったからなぁ」

「立ち直られたんだろう、よかったよかった」

「帝都から来たお客さんのおかげかね」

「ははっ、本にしか興味がない坊ちゃんにも、ついに春が来たか」

「さあ、宴会の支度にかかろう」

「金谷さんも、今日ぐらいは羽目を外して――おや、金谷さん、どこだい?」


 *


 すでに、村人達のざわめきも届かない。

 それを確認するなり。

 あろうことか、栄太郎は供物の器をぽいと投げ捨てた。

 こんな物、祭――いや、“祭”には不要だ。あんな、形骸化した田舎祭とは違う、本物の“祭”には。

「そう、熊なんて怖くないさ――だって」

 灰色の長衣も、躊躇うことなく脱ぎ捨てる。

「俺自身が、獣になったんだからな――!」

 その下から現れた、栄太郎の姿は――

 ――まさに獣だった。

 引き締まった裸身に纏っているのは、おそらく狼の毛皮製であろう、頭部をそのまま使った被り物と腰布のみ。素肌の至る所に禍々しい紋様を描き、石や骨を連ねた首飾りをじゃらじゃらと下げている。

 この姿を見て、誰に分かろう。これが、村の皆に愛される栄太郎だと。

 ――いや、一人だけ例外がいる。

 ――チヨ、待たせたな!

 呼びかけに、茂みからよろめき出たのは。

 ――ああ、栄太郎さん――。

 荒縄で縛り上げられたチヨだった。それ以外、何も身に付けていない。

 ――やっと来てくれたんですね。

 恋人を見つめるチヨの目は、桃幻郷を彷徨っていた。絹さえ羨んだ玉の肌がほんのり赤みを帯びているのは、縄がきついせいではない。未だ膨らみきらぬ胸では、桜色の乳首が切なげに揺れ、下半身の茂みは止め処無く粘液を滴らせている。

 ――へへ、はしたねえなぁ。もう、こんなに濡らしやがって。

 茂みの奥に隠された、開きかけのつぼみに指を這わされ、チヨは背をけ反らせる。

 ――だって、あなたったら、一晩中もてあそんでおいて、ここから先は明日のお楽しみだって――。

 マタタビに酔った猫のように、栄太郎の胸に頬を擦り付ける。手を繋ぐだけで赤くなっていたチヨは、もういない。彼と唇を重ねた瞬間、体を構成する六十億個の細胞全てが入れ替わってしまったのだ。

 ――ああ、もう我慢できない! 早く、早く――。

 ――分かった分かった。じゃあ、行こうか。

 栄太郎に縄を握られ、犬のように従わされる。時々、逆らって踏ん張って見せると、栄太郎はにやりと笑って、思い切り縄を引く。ぎりぎりと肌に縄が食い込む感触に、チヨは熱い吐息を漏らし、栄太郎は目をぎらつかせる。

 ――逃がさん、お前は俺のものだ。

 ――ええ、そうよ、絶対に逃がさないで。

 そう、この縄は二人を繋ぐ絆の証。

 どろどろどろ――行く手から、太鼓の音が聞こえてくる。早くおいでと二人を誘っている。鼓動が高まる。稚拙だが力強い原始のリズムに、脳の最も古い部分が共鳴している。

 ぐにゃぐにゃと視界が歪み始める。遠近法が崩壊し、空気は粘り気を帯びて絡みつく。ついに入り込んだのだ。“祭”の――そう、胎内と言うべき場所に。

 舞台に着いた主役とヒロインを、どおおという大歓声が迎える。

 石槍を構えた者、牛のような鼻輪を下げた者、獣の頭蓋骨を被った者――皆、鳥の羽や刺青で鮮やかな色合いを纏っている。それがわらわらと蠢動しゅんどうする様は、あたかも万華鏡の内部に迷い込んだかのようだ。

 ――見ろよ、皆歓迎してくれてるぜ。

 ――まあ!

 こんな姿を見られても、恥ずかしいと思う感覚もすでにない。それどころか、社交界で注目を浴びる貴婦人のような、誇らしい気分だ。

 灰色長衣の村人達の代わりに、極彩色の野人の群れ。荘厳な賛美歌ならぬ、おどろおどろしい太鼓の乱打。羊の丸焼きでなく、生きたチヨ。そして、それを見下ろしているのは、教会ではもちろんなく。

 “祭”の器たる、黒い石碑だった。

 それは、村の祭を反転させたかのような、冒涜の光景。だが、こちらこそが“祭”の本来の姿なのだ。村の祭は、おそらく石守家の始祖が、村人達を取り込む準備のためにでっち上げた、仮初かりそめの姿に過ぎない。

 頃合いを見て、真なる“祭”を始めるつもりだったのだろう。しかし、結局それは果たせす、佐羽戸は数百年もの間、無意味なまがい物の祭を繰り返すことになったのだ。

 しかし、人は忘れても、“祭”は覚えていた。シュトレゴイカバアルから綿々と続く、自身の記憶を。

 大観衆が見守る中、ついに黒い石碑の前に立つ、栄太郎とチヨ。その滑らかな表面が、鏡のように恋人達の姿を映している。

 これから、“祭”の一族に加わる二人を。

 ――さあ、始めよう。

 ――ウフフ、とっくに始まっていますよ。

 ――はは、そうだな。二人でここに来たあの時から、全てが――。

 軽やかに地を蹴り、くるくると舞い始めるチヨ。踊りなんて、尋常小学校でやったお遊戯しか経験がないはずなのに、なぜか体が勝手に動く。

 きっと、最良のパートナーがいてくれるからだ。

 いつの間にか、二人の側に大きな壷が置かれていた。そう、供物に俗界の穢れが付いていてはならない。

 禊をしなければ。

 観客達から、栄太郎に木の枝が投げ渡される。すかさず壷に突っ込むと、ごうっと奇妙な黄色い炎が舞い上がる。

 そう、“祭”の禊は、水ではなく、火で行われるのだ。

 ぱちぱちと火の粉を撒き散らす木の枝を、栄太郎は頭上に振りかぶり――。

 舞い踊るチヨの背中に、思い切り叩き付ける。

 仰け反り、たまらずよろめく。だが、それも振り付けの内だ。すかさず、栄太郎が逞しい腕で抱き支え――。

 べろりと首筋に舌を這わされ、チヨの全身に電撃が走る。

 回転、一撃、よろめく、栄太郎が支える。その度に舐められ、弄られ、愛撫される。再び、回転、一撃――。苦痛が快楽を引き立て、快楽が苦痛を引き立て――背徳のダンスは、二人を際限無き熱狂の境地へ誘う。

 そうだ、苦痛あってこその快楽ではないか。なのに、現代文明は苦痛を忌避きひし、快楽ばかり追及する。それがいかに矛盾したことか、“祭”は教えてくれた。

 苦痛と快楽は、等しく尊いのだ。

 何度、愛撫されたろう。何度、鞭打たれたろう。ついにチヨは力尽きて、地面に転がる。びくびくと痙攣する体を、無数の鞭痕が飾っている。

 ――チ、チヨ――俺も、もう限界だ――。

 栄太郎が、毛皮の腰布を脱ぎ捨てる。その下から勢い良く飛び出したものを、チヨは神々しそうに見つめる。柱のように聳え、仔猫のように震えている。頼もしく、愛おしい、まさに彼そのもの。

 ――いくぞ――。

 ――ええ、来て――。

 己の体内に通じる裂け目に、チヨは栄太郎の分身を受け容れる。

 二人の体が繋がる。まるで、別々の体だった今までの方こそ、不自然であったかの如く。そのあまりの簡単さに、思わず笑ってしまう。一体、何を躊躇していたのか。お互い、求めるものは、いつも側にあったのに。

 もっと奥へ行きたい、もっと奥へ行きたい、栄太郎はそう願い、何度も突きを繰り返す。もっと奥まで来て、もっと奥まで来て、チヨもそう願い、何度も受け容れる。だが、後一歩の所で届かない。

 そう、快楽だけでは駄目なのだ。

 究極の快楽には、究極の苦痛が伴わなければ。

 ――ああ――。

 チヨは、うっとりと見つめる。

 栄太郎が、家宝の短刀を振り上げるのを。

 おめでとう、おめでとう――懐かしい声に、二人ははっと周囲を見渡す。

 ――金谷さん、絹さん!

 ――親父に、母さんも――みんな、ありがとう。

 みんないる。口々に、おめでとうと叫んでいる。そうだ、いるに決まっているではないか。みんな集ってこその“祭”だ。

 ああ、そうなのだ。“祭”は“祭”だ。それ以上でも、それ以下でもない。人が憂さを晴らすために、一つになろうと集まる場。自分も、それに誘われていただけなのだ。

 なのに、無知な自分は、“祭”のことを、まるで人食いの化け物か何かのように――まさに、幽霊の正体見たり枯れすすきだ。ああ、そう言えば、金谷も同じ勘違いをしていたっけ。目配せすると、彼は照れ笑いした。

 みんな、笑顔を浮かべている。絹も、二人の姿を見ても、嫉妬などしない。そう、“祭”の中では全てが一つ。今や彼女は、チヨでもあるのだ。

 そしてもちろん、チヨと栄太郎も、これから――。

 ――ひとつに、なろう――。

 まるで、天から落ちる流星のように。

 短刀がチヨの胸にずぶりりっ血が泉のようにぷしゃあっ錆びた鉄の匂いがむわああああ間髪入れず刃を走らせずばあああああたちまち腹がぱっかあああああ血の泉が噴水と化してどばぶしゅうっ細長い腸がフリルのようにずるるるるうううぅぅ広がる血溜まりがどくどくどくどく真っ赤な裾をどこまでもどこまでも際限なく――。

 ――思った通りだ! 真っ赤なドレス、よく似合ってるぜ!

 チヨと繋がったまま、栄太郎は羊を解体した時より遥かに巧みに短刀を操る。絶叫するチヨ。ああ、苦痛と快楽が火花を散らしている。散らしつつ、化学変化を起こして融合していく――。

 そう、これこそ二人が、一つになる感覚。

 ああ、自分達は、もうすぐ、もうすぐ――!


 *


 この光景は、現実か幻か。

 そもそも、“祭”は実在するのか、しないのか。

 全ては、狂人達の妄想かもしれない。しかし、それを証明することは、誰にもできない。人が現実と呼ぶものは、所詮、脳が見せる幻でしかないのだ。

 それに、二人にとっては、どうでもいいこと――今、とても幸せなのは、間違いないのだから。


 *


 ――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっ!!!!!!!!


 ついに一つになった二人に、皆が拍手を送る。ああ、お父さんもいた。手だけになってしまって、拍手はできないけれど、ばたばたと跳ね回って祝福してくれている。もう大丈夫、もう寂しくない、これでみんな一緒――。

 自分達は、永遠を生きる“祭”の一族。

「チヨ、愛してるぜ――」

永久とこしえに――おしたい、します――栄太郎、さ――がはっ!」

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