六ノ章

「たとえ、死の陰の谷を歩もうとも――」

 自分など、形だけのお飾り司祭だと言っていた栄太郎。だが、黒い司祭衣を纏い、絹のひつぎを前に聖書の詩篇を読み上げる姿は、チヨの目にはまさに“キリスト教の司祭様”そのものだった。

 列席している村人達は皆、一様に沈痛な表情だった。女性達の中には、すすり泣く人もいる。彼女は、村人達にも愛されていたのだろう――自分だって、そうだった。

 対して、壇上の栄太郎は、私情をまじえずに、淡々と司祭の務めを果たしているように見える。彼のことをよく知らない人間から見たら、たかが使用人のことなど、何とも思っていないようにさえ見えたかもしれない。

 しかし――。

(そんな訳がない――)

 あれは、彼の精一杯の抵抗なのだ。両親に続いて、またしても、自分の家族に無慈悲な牙をいた死への。司祭という役割を殊更ことさら演じることで、自分に言い聞かせているのだ。

 大丈夫、死者の魂は天国で安らいでいる。だから、悲しむ必要はないのだ、と。

(やっと、ご両親の死を乗り越えかけていたところだったのに――)

 今度は何年かかるのだろう、乗り越えるのには。

(絹さん――)

 結局、彼女の死は、単なる事故ということになった。本当のことは、誰にも話していない。話せる訳がない。

 だから、彼女の苦しみを知っているのは、自分だけ。

「絹さんは、実の姉貴みたいなものだったんだ――」

 彼に悪気がないのは分かっているが、チヨは悲しくなる。

(絹さんにとって、栄太郎さんは弟じゃなかった――)

 絹を埋葬し終わって、村人達も去り。

 十字架が立ち並ぶ墓地に残っているのは、チヨと栄太郎だけだ。

 絹の魂を天国に送る鐘の音を聞きながら、彼女の最期の言葉を思い出す。

『そうすれば、私も“祭”に行ける! ご主人様と一緒に――』

 そう、絹は他の誰でもない、栄太郎と共に祭に行きたかったのだ。

 主人と女中としてではなく。

 姉と弟としてでもなく。

(いつからだったのかしら――)

 絹が、そういう望みを抱き始めたのは。だが、すぐに、考えるまでもないことに気付く。

 ――最初からだ。

『まるで、お姫様を助けに来た王子様みたいだった――』

 しかし、汚れている自分には、お姫様の資格などないと、彼女はあくまで女中として、姉として振る舞い続け――まさに、目の前に水がありながら、一滴も飲むことが許されないタンタロスの苦しみだ。

(ああ、それじゃあ――)

 絹は地獄を抜け出した途端、別の地獄に堕ちてしまったのか。そして、苦しみに耐えかねて、とうとうあんな妄想に憑かれ――。

 今、死によって、ようやく安らいだというのか。

(キリスト教の神様は、何て残酷なの――)

 やるせなさが、ずっしりと胸にし掛かる。遅すぎる、今さら天国の門を開くぐらいなら、どうしてもっと早く絹を助けてくれなかったのか。

 せめて、彼女が石守家に迎えられるのを、一週間早めるだけでも良かったのに。

「もうすぐ、祭だな――」

 村では、すでに祭の準備が始まっている。今のチヨの目に、それは理解不能な光景と映った。

 どうして彼らは、こんな現実を押し付ける神を祭るのだろう。

「――って、思ってるのかい?」

 栄太郎にずばり言い当てられ、慌てて否定する。今の彼に、それはあまりに酷な質問だろう。

 だが、空を見上げる彼の顔には、穏やかな笑顔が浮かんでいた。

「そうだな――。ま、俺に信仰心が足りないせいかもしれないけど、正直、神様って奴は、何を考えているのかよく分からないな」

 ああ、今なら分かる。なぜ彼が“信仰って奴がピンと来ない”のか。

 五年前の悲劇のせいに決まっているではないか。

 むしろ、形だけとは言え、良く司祭など務まっていると言うべきだろう。できるものなら、神の胸倉を掴んで、なぜ両親を助けてくれなかったと、怒鳴り付けたいぐらいではないのか。

「チヨだって、どうしてあの地震を止めてくれなかったんだって思うだろ? 俺達だけじゃないさ。村の皆にだって、神様を信じられなくなりかけたことはあっただろう」

 そうだ、自分達だけではない。誰もが、家族に見とられながら、安らかな死を迎える訳ではない。

 不条理な死を前に、彼らは思わないのか。もう神など信じない、と。

「それでも、俺たちは祭をする。何百年もの間、ずっと途切れることなく続いてる――どうしてだと思う?」

「――どうしてでしょう」

「そりゃあ――決まってるじゃないか」

 栄太郎は、事も無げに言った。

「楽しいからさ」

「は?」

「楽しいじゃないか、祭って」

 チヨは、はっとする。

 彼の陽気な笑顔に、涙が伝うのが見えて。

「皆で集まって、一緒に騒いで――まるで、皆と一つになったような気分になる。どんな寂しさを抱えていても、この時ばかりは忘れられる。だから――人は、祭を止めないのかもしれない」

(栄太郎さん――)

 チヨの目には、確かに映っていた。

 現在の栄太郎に重なるように、五年前のまだ幼い頃の彼の姿が。

 同じように、笑いながら涙を流している。

 どちらからともなく――。

 二人は、手を繋いでいた。

 気が付いても、離そうとはしなかった。

 チヨは同時に感じていた。現在の栄太郎の手の頼もしさと、幼い栄太郎の手の愛おしさを。

(――暖かい)

 体を失ってしまった、父の手とは違う。この手には、ちゃんと血が通っている。側にいてくれと、指の一本一本に力を込めている。

 一緒に、祭に行こうと。

「――お祭、楽しみましょうね。絹さんの分も」

「ああ――!」

 天上の神のためなどではない。

 これからも、地上で生きなければならない、自分達のために。

 祭は、間もなく始まる。


 *


 金谷は、油断なく周囲を見渡した。

 万が一にも、人に見られる訳にはいかない。

 警察と医者には、何とか事故ということで納得させた。後は、こいつさえ始末すれば――。

 無論、抵抗は感じる。これは、石守家に代々受け継がれてきた物だ。ここまでする必要があるのか。村の中に落ちていたとでも言えば、済むことではないのか――。

 いや、駄目だ。栄三が聖域に携えて行ったはずのこれが、なぜそんな所に落ちていたのかと問題になるだろう。万が一にも、雪子の死とこれを、結びつけて考えられたら――。

 石守家の威信は、地に堕ちてしまう。のみならず、残された栄太郎の心痛は如何いかばかりか。躊躇っている場合ではない。これは、栄三と共に行方不明にならなければならないのだ。

『金谷さん、栄太郎をお願いね』

 雪子の最後の言葉を思い出す。あの時は、祭の間、栄太郎を見ていてくれという意味だとばかり思っていたが、今なら分かる。彼女は予知していたのだ。もうすぐ自分が、この世からいなくなることを。

(はい、奥様。この身に代えましても――)

 彼女が残した、あの方だけは――。

 金谷が思い切り放り投げたそれは、崖の下を流れる深い沢へ、放物線を描いて吸い込まれ――。

 ぎらり。

 水面に落ちる寸前、鋭い輝きを放った。

 これで終わったと思うなよ、と金谷を嘲笑うかのように。

 慄然りつぜんとする彼を見上げながら、それは暗い水中に没していく――。


 *


 明日はいよいよ、祭本番だ。

 村人達は総出で準備に当たり、栄太郎も教会や役場との打ち合わせで忙殺されていた。無論、金谷が補佐していたが、それでも疲れたのだろう。絹の真似をして何とかチヨが作った夕食を済ませると、早々に自室に戻って休んだ。

 一方、彼女は、夜中が近付いても、中々寝付けなかった。どうしても、色々なことを考えてしまう。

 今までのこと――これからのこと。

(いつまでも、居候させて頂いてる訳にはいかないわよね――)

 ラジオで聞くところによると、ようやく帝都の復興も本格的に始まったらしい。祭が終わったら、そろそろ今後の身の振り方を考えなくては。

 しかし、思考を進めると、どうしても胸が苦しくなる。

(栄太郎さん――)

 今後どうするにせよ、ここを出たら彼には会えなくなる。もしかしたら、もう二度と。

 ずっと前から分かっていたはずなのに、なぜ今さらこんなに苦しいのか。

『――お祭、楽しみましょうね。絹さんの分も』

『ああ――!』

 あの時を経たからに、決まっている。

 思い出す度、赤くなる。自分に、よくあんな大胆なことができたものだ。栄太郎の手の暖かさは、今でもはっきり覚えている。

(ええ、そうよ。それで十分じゃない)

 本当なら、住む世界が違う人なのだ。父のおかげで奇跡的に巡り合い、色々なことを教えてもらえた。例えば、男の人が強く頼もしいだけでなく、弱く愛おしいものでもあることとか。

 明日の祭では、さらにたくさんの思い出もできるだろう。それを胸に、帝都に帰ろう。そして、探さなければならない。

 父の死を乗り越える道を。

 ――一人ぼっちで。

(あんまり夜更かしすると、明日に差し支えるわ)

 そう思い、寝台に潜り込もうとした、その時。

(あ、そう言えば――)

 真っ赤なドレス。

 あまりに色々なことがあって、すっかり忘れていた。

『母さんが着てた奴があったな。貸してやるから、ぜひ着てみてくれよ』

 そう言えば、金谷が探しておくと言っていたが、どうなっただろう。

(明日になってから、どたばたしちゃいけないわ)

 金谷に聞いておかなくては。まだ起きていてくれるといいが。そう思い、部屋を出た時だった。

 金谷の背中が、廊下を曲がるのが見えた。

(良かった、まだ起きてらっしゃったんだ)

 声をかけようと、後を追う。

 彼は、突き当たりにある部屋に入っていく。それを見て、チヨは首を傾げた。

(あの部屋は確か――)

 今は、もう使っていない部屋。

 すなわち、栄三・雪子夫妻の寝室だった部屋だ。

 あんな所に、何の用があるのだろう。しかも、こんな時間に。

 ――何となく、すぐに声をかける気になれず、開いたドアの隙間から、中の様子を窺う。

(金谷さん――?)

 床に膝を付いて、こうべを垂れている。何をしているのかは、チヨにも分かるようになっていた。こちら側からは見えないが、きっとその両手は、硬く組み合わされているのだろう。

(お祈り――?)

 彼の前に架けられている物に気付いて、はっとする。

(あの絵だわ――)

 栄三と雪子の微笑は、今は金谷をねぎらっているように見えた。

 その前で、金谷は無心に祈り続けている。

(何をお祈りしていらっしゃるのかしら――)

 やはり、栄太郎のことだろうか。いずれにせよ、死者は何も答えてくれない。神と同様に。

 相手が誰であれ、祈りとは一方通行なものだ。だが、それを無意味だと切り捨てられる程、チヨは合理主義でも無神経でもない。彼にとっては、大切な時間なのに違いない。

(邪魔しちゃいけない――)

 ドレスのことは、明日でいい。そう思い、そっとドアから身を離そうと――。

「チヨ様、如何なさいました?」

(あ、あわわ)

 客人の存在ぐらい、気配で感じ取れなくては、執事は務まらないのか。だとしたら、ほとんど忍者並みだ。

「あ、あの、明日の、お祭の衣装のことなんですけど――」

「――、はい、奥様のドレスですね」

 部屋がもっと明るければ、分かっただろうか。

 金谷の瞳孔が、すうっと収縮したことに。

 ――極度の緊張で。

「ご安心下さい、用意できております。祭の前に、村の女性に着付けてもらいましょう」

「そ、そうですか。わざわざどうも――」

 そこで会話を打ち切っても良かったはずなのだが。

「――何をお祈りしていらっしゃったんですか?」

「はい、明日の祭の無事を祈っておりました」

 一拍置いて、金谷は続けた。

「五年前の祭の悲劇が、二度と繰り返されぬよう――」

「え――?」

 五年前。

 祭。

 何度か話題には上ったものの。

 初めてだった。その二つが、繋げて語られたのは。

「もしかして、栄太郎さんのご両親が亡くなられたのって――?」

「――はい」

 金谷は、絵の中の先代夫妻に向き直る。

「五年前の、祭の晩でございました」


 *


 祭には、いくつかの段取りがある。

 中でも最も重要とされるのは、最後に行われる、あの黒い石碑に供物くもつそなえる儀式だ。

 聖域には司祭しか入れないので、これは彼一人で行わなければならない。

「先代様はもう何十年も、司祭として、このお役目を果たしてこられたそうです。無論、石碑までの道程みちのりは、知り尽くしておいででした。ですから――」

 五年前の祭の時も、供物を盛った皿を手に、一人聖域の森に向かう栄三を、皆は笑って見送った。毎年そうしてきたように。

 しかし。

「なぜか、先代様はお戻りになりませんでした」

 例年なら、せいぜい三十分で戻ってくるのに。

 一時間経っても、栄三は戻って来ない。

 歳で山道がきつくなったのかなあと栄太郎が呟き、村人達を笑わせた。

 二時間経っても、戻って来ない。

 さすがに、村人達の間に動揺が広がり始めた。もしや、お怪我でもされて――。

 三時間が経った。

 探しに行くべきだという意見も出始めた。しかし、聖域に入れるのは司祭のみ。いかなる場合でも、禁忌を破るのは――。

 困り果てた金谷は、栄三に次ぐ村の責任者、すなわち雪子の判断を仰ごうとした。

 そこに至るまで気付けなかった己の迂闊うかつさを、彼は呪っても呪い切れない。

「いつの間にか、奥様のお姿も見えなくなっていたのです」

「お、奥様も――!?」

 村人達の手で村中を捜索したが、見つからない。無論、屋敷に戻ってもいなかった。残る居場所は、一つしか考えられない。

 彼女も、聖域にいるのだ。

「ひょっとして、栄三さんを探しに――?」

「――おそらく」

 事、ここに至って、ようやく金谷は躊躇いを捨てた。禁忌を破って聖域に踏み込んだ。

 栄三と違って、道を知らない彼は、暗い森に難儀した。それでも、どうにか辿り着いた。

 言い伝えでしか知らなかった、あの石碑の元に。

「そこで――発見したのです。奥様の変わり果てた姿を」

 無惨な、あまりにも無惨な有様だった。

 腹部を切り裂かれ、細長い腸が何メートルも引きずり出されていたのだという。そこから溢れ出した血は、雪子の亡骸のみならず、周囲の地面までも赤く染め、血の匂いは咽返むせかえるようだった。

(うっ――)

 想像だけで、吐き気をもよおすチヨ。震災で多少は経験がある分、より生々しくイメージできてしまったのだ。

「そ、そんな恐ろしい人食い熊が出る所へ、栄太郎さんは一人で入らなきゃいけないんですか? いくら司祭のお仕事とは言え――」

 道理で、金谷がやけに真剣に祈っていた訳だ。

「せ、せめて、何か対策をした方がいいんじゃないですか。熊除けの鈴を持っていくとか」

 という、チヨの提案に、なぜか金谷は答えずに。

「奥様のご遺体の側に、ある物が落ちていました」

「え?」

 それは、石守家に代々伝わる家宝で、元は先祖である宣教師が使っていた物だという。祭の間は、司祭が帯びることになっている。

 つまり、栄三が落としていったと考えられるが――。

「どういう物かと申しますと――短刀なのです」

「短刀?」

「ええ、儀式で供物を切り分ける際に用いますので、刃もちゃんと砥いであります――切れるのです、実際に」

 切れる。

 実際に。

 なぜ金谷が、その点をやけに強調するのか、チヨには分からなかった。

「奥様のご遺体を、改めてよく検分してみました――」

 雪子は一糸纏わぬ全裸だった。にも関わらず、周囲のどこにも、服の破片はおろか、ボタン一つ落ちていなかった。

 引き千切られたのではない、脱がされたのだ。

「え?」

 切り開かれた腹部はむごたらしかったが、それ以外には全く外傷はなかった。引っかかれたあとも、噛み付かれた痕も。

 見方を変えれば、それは医者による解剖のようでもあった。

「――え」

 雪子は、まるで眠るような姿勢で横たわっていた。おかげで金谷も、すぐには死体だと分からなかったぐらいだ。

 熊に襲われて、死に物狂いで逃げ惑ったはずなのに?

「そ、それじゃあ――」

「ええ、熊などではありません。奥様を殺害したものは」

 ようやく、チヨにも飲み込めてきた。いや、望んでもいないのに、無理矢理口をこじ開けて入ってくる。

 雪子の側に落ちていた家宝の短刀。それが何を意味するのか。

「まさか――?」

 チヨの脳裏に、まざまざとその瞬間が思い浮かぶ。

 一向に戻らない夫を心配して、こっそり聖域の森に入った雪子。石碑の前に佇んでいる夫を見つけ、声をかける。あなた、どうかなさったの? 応えて、ゆらりと振り返る栄三。

 その手には、月明かりにぬめぬめと輝く短刀が――。

 その直後の出来事は、ああ、きっと。佐羽戸の原型たるシュトレゴイカバアルで、夜毎繰り返されていたという、生贄の儀式にそっくりだったに違いない。

「そ、それで、栄三さんはどうなったんですか」

 尋ねて、思い出す。そうだ、確か彼は――。

「未だに、行方不明です」

 絶句するチヨ。金谷も言葉を途切れさせている。

 耳に痛い程の沈黙が、図らずも、二人が同じ考えであることを物語っていた。

「ほ、本当に、他の可能性はないんですか? 例えば――そう! 誰か別の人が、栄三さんから短刀を奪って、それで奥様を襲ったのかも――栄三さんも、その人に誘拐でもされて――」

「そうであって欲しいと思います。しかし、そうではないかもしれない――」

 栄三が見つからない以上、真相は永遠に闇の中だ。

 ただ、一つだけ確かなのは、誰もがチヨのように、栄三の潔白を信じるとは限らないということ。実際、栄太郎の父親でなかったら、彼女もどう思ったか。

「特に、ご主人様がどうお考えになるか――いえ、きっとお父上を信じるとは仰るでしょう。しかし、あの方も人間です。僅かに残った疑惑の針が、生涯胸を痛めることになるかもしれない――」

 思い悩んだ末、金谷が取った選択は、全てを闇に葬ることだった。

“証拠”になり兼ねない短刀を密かに処分し、警察と医者を説得し――。

「お二人は熊に襲われたと、皆に説明させたのです」

「そうだったんですか――」

 絵画の中で微笑んでいた二人を思い出す。とても仲が良さそうに見えたのに。

 だが、すぐに気付く。絵は所詮絵だ。未だにモナ・リザの微笑みの意味が断定されていないのと同様、そんなもの、何の根拠にもなりはしない。

(栄太郎さん――ご両親を失くしただけでも、十分悲劇なのに)

 悲劇より酷いものは、何と呼べばいいのか。

「どうして、そんなことに――?」

 聞いてはみるが、きっと金谷にも分からないのだろうと、チヨは思った。だからこそ、全てを封印するしかなかった――。

「“█”の仕業だったのです」

「え?」

 予想に反して。

 いつも通りの、きっぱりした口調で、金谷は答えた。

 にも関わらず、なぜかチヨは聞き取れなかった。“█”。おそらくは主語であろう、その言葉だけが。

「すみません、今、何て――?」

 チヨにわれ、金谷は、まるで蓄音機のレコードのように、己の言葉を忠実に再現した。


「“祭”の仕業だったのです」


 “祭”。

 なぜ、その言葉が聞き取れなかったのか、ようやく分かった。

 あまりにも、脈絡が無さ過ぎたせいだ。

 普段、理路整然とした話し方をする金谷の口から出ると、なおさら。

「え、えーと、それは、つまり――」

 何とか、分り易い解釈をひねり出そうとするが。

「お二人が、お祭の運営方針とかで喧嘩なさって――ってことですか?」

 言いながら、自分でもなかば悟っていた。違う、金谷が言いたいのは、そんなことではない。

 案の定、金谷はいいえとかぶりを振り。

「“祭”が先代様を操り、奥様を殺害させたのです」

 ――――――――。

 チヨは、ぼんやりと思った。自分は、そんなに頭が悪かったのだろうかと。

 なぜ、金谷の言っていることが分からないのだろう――。

「佐羽戸の“祭”は、意思を持っているのです」

 金谷の声は、いつもと変わらない。抑揚よくようの効いた、聞き取り易い――にも関わらず、全く理解できない。あたかも、外国語か何かのように。

「眼に見えず、触れることもできず――しかし、確かに存在しているのです。そして、佐羽戸の隅々にまで、支配の根を伸ばしているのです。おそらくは、聖域の石碑を要にして」

(え、えーと、えーと――)

 何の例えだろう。ああ、こういうお話、栄太郎さんなら得意そうだけど――チヨは必死に頭を捻るが、さっぱりだ。

 ただ、一つ確かなのは。

 祭。

 それに対して、自分が抱くイメージと、金谷が抱くそれが、かなり違っているらしいということだ。

(それにしても――)

 どうして彼は、急にそんな難解な例えをもちいだしたのだろう。執事の心得なのであろう、敬語は隅々まで完璧だが、表現は簡潔、事実のみを淡々と話す。それが、チヨが知っている金谷の話し方だったのに。

(金谷さん――?)

 彼は、一心に壁の絵を見つめている。

 その横顔をちらりと盗み見て、チヨは――。

(!?)

 ぎょっとした。

 一体、いつからだろう。その額に、びっしりと汗が浮かんでいたのだ。

 あたかも、熱病にうなされているかのように。

「肉体を持たない“祭”は、生き物のように食物をることはできません。そこで、別の形でかてを得る必要があるのです。その手段が、何か――お分かりになりますか」

「か、金谷さん、具合が悪いんですか?」

「――生贄です」

 チヨの声など、耳にも入っていない様子で続ける。

「血肉をすする訳ではありません。あるいは、生贄の苦痛や恐怖といった感情を吸収するのかもしれません。いずれにせよ、長年の飢えを満たすため、“祭”は先代様を操り、奥様を生贄に捧げさせたのです」

(か、金谷さん――)

 彼の目を、恐る恐る窺う。

 やはり――

 ――そっくりだ。

『あなたの心臓を食べて、私は清らかさを取り戻すの――そうすれば、私も“祭”に行ける!』

 あの時の絹と。

 何を言っているのか、分からないのも道理。今の金谷の口を動かしているのは、彼の中にしかない妄想の理屈なのだから。

「そうとしか、考えられない――でなければ、どうして先代様が奥様を――!」

(ああ、そんな――)

 彼もなのか。仮面を被って、自分と接していたのか。その下に、狂気の深淵を秘め隠して。

「そして、お二人だけに飽き足らず、今度はご主人様まで――!」

「か、金谷さん、もうお休みになった方が――」

 金谷の肩が、小刻みに震えている。ああ、どうか堪えて。そんなに震えていると、仮面が割れてしまう。

 もう見たくない。親しい人が豹変するところなど――!

「そうはさせるか――ご主人様のお手を汚させるぐらいなら――!!」

 ぴきぴきぴきぴきぴきぴきぴき――っ!


 ぱりぃぃぃぃぃぃぃぃぃんっっっ!!!


「いっそ、この手でえええええぇぇぇぇぇっっっっ!!!!」

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