参ノ章

(よし、きれいになったわ)

 柔らかい布で、ガラス窓を丁寧に磨く。埃が落ちると、差し込む日差しを反射してきらきらと輝きだし、チヨは充実した気分になる。あたかも、綺麗にしてくれてありがとうと、屋敷に感謝されているかのようで。

 最初に見た時は、まるで舞台の大道具のように、現実味がなかったこの屋敷。毎日、丹精込めて掃除してきたおかげか、ようやく実感できるようになってきた。自分は確かに、ここで暮らしている。生きているのだと。

 生きているという実感。

 今なら分かる。普段は無意識にしか感じていないから、何かの拍子に見失ってしまうと、取り戻すのが難しい。

 取り戻せたのは。

(石守家のみなさんのおかげだわ――本当に)

 彼女が石守家に迎えられてから、すでに一週間が過ぎていた。ここでの暮らしにも、大分慣れてきた。仕事のことだけではない。栄太郎はもちろん、使用人の二人とも、もうすっかり打ち解けていた。

「チヨちゃん、一休みしてお茶にしましょうか」

「あ、はい」

 もう実の姉妹も同然、などとお道化どけていた絹。実際、同性の話し相手ができたのが嬉しかったのだろう。仕事の合間によく、化粧や服飾など女同士の会話で盛り上がり、今や栄太郎が嫉妬するぐらいの仲良しだ。

「金谷さんもどうですか」

「いえ、使用人ごときが、お客様と相席など。絹も、あまり馴れ馴れしくしては――」

 彼のことも、もう分かっている。相変わらず口数は少ないし、いざ口を開けば固いことばかりだが、あくまで執事として一応言っているだけで、本当は人情がよく分かっている人だと。

「あら、お一人じゃ退屈でしょうから、お付き合いして差し上げるんですよ。これも使用人の務めですよ」

 すかさず、絹が言い包める。金谷は二、三度口をぱくぱくさせるも、すぐに折れて席に着く。こういうのが、いつものパターンらしい。面倒臭い人でしょ? と絹に目で訴えられ、チヨは苦笑で応える。

 柔らかい日差しが差し込むサンルームで、紅茶のカップを傾け合う。しばらく、栄太郎の昔の話で盛り上がった。よく私のスカアトをまくろうとしては、奥様に叱られてねえ等と絹が笑い、金谷が慌てて止める。

「絹さんは、栄太郎さんが小さい頃からこちらに?」

「ええ、先のご主人様と、奥様が亡くなる一年ぐらい前からだから――ざっと六年前からお世話になってる計算ね」

 日本の女中は、若い女性の花嫁修業代わりという面が多分にあり、雇用期間はせいぜい一、二年であることが多かった。六年というのは、かなり長い部類であろう。

(どうして、お嫁に行かないのかしら――?)

 この人なら、さぞ引く手数多あまただろうに。

「金谷さんはいつから?」

「ご主人様がお生まれになる前からです」

 平然と言われ、チヨは絶句する。

「元々は、奥様のご実家にお仕えしていたんですよね?」

「はい、奥様のお供で石守家に入って、十数年――奥様のご実家にいた頃も含めれば、もうかれこれ、二十年になりますか」

 まさに、生涯を栄太郎の一族に捧げていると言えよう。おかげで婚期を逃しちゃって、未だに独身よと絹は笑う。しかし、後悔は微塵もないのだろうと、チヨは思う。

今なら分かる。血縁ばかりが、家族ではない。絹が嫁に行かないのも、似た理由かもしれない。

「ご主人様に、お祭に誘われたんですって?」

「あ、はい、村に溶け込む、ちょうどいい機会だからって――」

 サンルームの大きな窓からは、広大な庭が望める。自然を再現する日本式庭園とは対照的な、左右対称の西洋式庭園だ。花壇には、糸屑のような繊細な葉に、淡い桃色の花弁を持つ花が、風に揺れている。

「ああ、コスモスが――あれが咲き始めると、今年もお祭の季節だなって実感するわ」

「きれいなお花ですね」

「ええ、奥様がお好きだった花でね。五年前のあの日も、きれいに咲いて――」

 かちゃん。

 金谷がカップを置く音のせいで、後半はよく聞き取れなかった。

「え?」

「う、ううん、何でもないの。ところで、お祭に出るなら、衣装を用意しなくちゃね」

「そうでした。村の仕立屋に注文しましょう」

「あ、それなら――」

 そう言われて、チヨは思い出した。

「栄太郎さんが、お母様が使っていた物を貸して下さるそうで――」

『君なら、きっと似合うぜ――』

「真っ赤なドレスなんですよね?」

 そう言った瞬間。


 ぴしっっっっ。


 ――と。

 空気が凍りつく音を、チヨは確かに聞いた。

(え?)

 絹の動きが、止まっている。

 金谷の動きも、止まっている。

 ティーカップを手にしたまま、ぴくりとも動かない。

 二人の様子には、覚えがあった。そう、チヨの手から流れる血を、時が止まったかのように凝視し続ける栄太郎。

 あの時の彼に、そっくりだ。

 さっきまでの賑わいが嘘のように、サンルームは静まり返っている。

「あ、あの――?」

 口を開きかけたチヨは、しかし喉が引きって何も言えなくなった。

「赤い――?」

 ぐりっ。

「ドレス――?」

 ぐりりっ。

 と、眼球の動きだけで、二人に視線を合わせられて。

「ご主人様が――?」

「そう、仰ったのですか――?」

 二人の視線は、ぴたりとチヨに照準を合わせている。あたかも、暗殺者の銃口のように。それが呪縛となって、チヨに視線をらすことを許さない。答えをはぐらかすことを許さない。

 ――ええ、そうですよ。

 その一言が、しかしなぜか出てこない。

 だって、今の二人は、まるで別人のようで、反応が全く予想できなくて。

(こ、この人達は――誰?)

 何を馬鹿なことを、という理性の抗議は、あまりに弱々しかった。

 知らない、こんな人達は知らない。どこへ行ってしまったのだ。自分のよく知る絹と金谷は。

「奥様の――?」

「赤いドレスを――?」

 お互いの視線をからめたまま、ぴくりとも動かない三人。それはまるで、一昔前、英国で流行ったという、交霊術の実験のようだった。

 得体の知れないものが、絹と金谷に取り憑いて――。

『チヨちゃん?』

『チヨ様』

 二人が、視線だけで問いかける。

『チヨちゃん?』

『チヨ様』

 繰り返し、繰り返し。

『チヨちゃん?』

『チヨ様』

 答えるまで、何回でも――。

『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』『チヨちゃん?』『チヨ様』


『 『 仰 っ た の か 、あ の 方 が ? 』 』


「あ~、喉渇いた~。お、ちょうどいいや、俺にもくれよ」

 階段の上から投げかけられた、栄太郎の暢気な声が、場の空気を塗り替える。

 異常から、日常へ。

「それはいいわね! チヨちゃんなら、きっと似合うわよ」

「畏まりました。後ほど探しておきましょう」

「え?」

 一瞬、二人が何を言っているのか、チヨは分からなかった。

 何のことはない。会話の続きをしているのだ。

 そう、空気が凍りつく前の会話を――何事もなかったかのように。

「あ、俺、ジャムで飲みたいな」

「ウフフ、ご主人様ったら甘党なんだから」

 サンルームに、賑わいが戻ってくる。

 絹も、金谷も、何もかも、すっかり元通りだ。

 あの、白昼夢のような空白の時間を、チヨの記憶にだけ残して。

「ところで、何の話してたんだ?」

「駄目駄目、女同士の話ですから、殿方はご遠慮願いますよ」

「ちぇー、俺だけ除け者にしやがってよぅ。なあ、チヨ、教えてくれよ~」

「た、たいしたことじゃないですよ」

(何だったのかしら、あれは――)

 いくら考えても、しかし分かるはずもなく。

 結局、何かの気のせいだったのだという、一番安直な解釈に落ち着くことにした。


 *


 その夜。

「ええ、きっと似合うわよ。チヨちゃんなら――」

 絹は使用人用浴室――そんなものまで、この屋敷にはある――で、陶器の浴槽に浸かりながら、呟いていた。

 ざばあと浴槽から立ち上がり、鏡の前に立つ。

 豊かな胸、引き締まった腰、すらりとした手足、ギリシャの女神像のような肢体が、湯で桜色に染まる様は、この世のものとも思えぬ風情だった。

 しかし、絹はそんな己の肉体を誇るでもなく、無表情に鏡を見つめ――。

 ずぶり。

 下腹部の、茂みに隠された割れ目に、細長い指を潜り込ませる。

「汚れてさえいなければ――」

 ずぶりっ、ずぶりっ、ずぶりっ、絶え間なく指を出し入れする。自慰と言うには、しかし、その動きは、あまりに乱暴だった。あたかも、その奥から、何かを引きずり出そうとしているかのように。

「汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ――」

 やがて、割れ目が湿りだしても、絹の顔に、快楽など欠片かけらも浮かばなかった

 その代わりと言ってもいいものか。眉間に、ぎりぎりとしわが刻まれていく。ペルセウスに討ち取られた、メデューサの首さながらの、忌々しげな――。

「汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ――――私だって――――」


 *


 こんこん。

「あー、どうぞー」

 ノックの返事は、いかにも上の空だった。用件すら尋ねない。研究が大詰めとのことで、ここ二、三日は、いつにも増して書斎にもりきりだ。そう言えば、初めて聞いたこの人の声が、ちょうどこんなだった。思い出し、くすりと笑う。

 ドアを開けても、栄太郎は顔を上げなかった。一心不乱に手元の本に目を走らせている。

 思わず、はっとする。その眼差しの、あまりの真剣さに。まるで、合戦に望む侍のよう。いや、彼にとっては、まさに戦いなのだろう。書物に散りばめられた情報を武器に、謎という手強い敵に挑む真剣勝負。

(金谷さんには悪いけど――)

 この人には、司祭より学者の方が向いていると、彼女は思う。

 邪魔するのが忍びなくて――あるいは、彼のその顔をずっと見ていたくて――なかなか声をかけられずにいたら。

「ん? チヨか、どうした?」

 栄太郎の方から先に声をかけられてしまい、慌てる。ずっと無言で突っ立ったりして、変に思われなかっただろうか。

「す、すみません。絹さんに頼まれて、お食事持って来ました」

「おお、そうか」

 チヨが掲げる銀の皿には、サンドイッチが盛られていた。食事をする時間も惜しそうな栄太郎のために、絹が気を利かせたのだ。

「すまねえな、すっかり放ったらかしにしちまって。退屈してたか?」

 ハムを挿んだサンドイッチをかじりながら、栄太郎は申し訳なさそうに言った。ここしばらくは、食事の時ぐらいしか、顔を合わせる機会がなかったのだ。

「い、いえ、そんなことないですよ」

 栄太郎が、彼女でも読めそうな本を貸してくれたし、絹から西洋料理を習ったりもしていたので、退屈はしなかったのだが――寂しくはあった。

 しかし、彼のあの顔を見た今では、邪魔をしなくて良かったと思う。

「研究、どうですか?」

「うん、まあ、とりあえずは一段落かな」

 うーんと背筋を伸ばす栄太郎。疲労困憊こんばいの体ではあったが、大仕事を終えた充実感がみなぎってもいた。

「ほ、本当ですか!?」

「いやあ、まだ仮説の域は出てないけどな」

 そうは言いながらも、その瞳には、静かな自信が宿っている。チヨは我が事のように嬉しかった。もうすぐ、見られるのかもしれない。悲しみを乗り越え、本来の姿に戻った彼を。

「良かったら、お聞かせ頂けませんか。栄太郎さんの研究成果」

「えー、きっとチヨには退屈だぜ?」

 栄太郎は照れ臭そうだ。聴講者たった一名とは言え、彼にとっては、初めての研究発表会だろう。それでも、ぜひとチヨに重ねられ、おほんと咳払い一つ、語り始める。

「えー、そもそも、この研究の目的は何かってことだが――あ、チヨにはもう、あらかた話したな。そう、あれが何なのか、何のために建てられたのか、それを解明することだ。あの、聖域の森の奥に佇む――」

 黒い石碑。

 ぐらり――あの姿を思い出した途端、なぜか襲われた眩暈めまいこらえ、チヨは栄太郎の話に耳を傾ける。


 *


 隠れキリシタンであった佐羽戸村の先祖が、万が一幕府に見られても言い逃れができるように、自分たちにしか分からない暗号で、キリスト教の教えを刻んだ。それが、あの黒い石碑である。

 父、栄三はそう考えていた。

「俺も、まあ、そんなもんだろうと、漠然ばくぜんと考えていたんだ。あのことがなけりゃ、今でもそう考えていたかもしれない」

 彼は情報収集も兼ねて、学者や作家などの文化人と手紙をやり取りしているのだが、ある時その一人、三須角みすかど大学のさる教授に当てた手紙に、何の気はなしに、あの黒い石碑のことを書いたところ、驚くべき返事があった。

「あの石碑のことが、ある本に書かれていたらしいんだ」

「まあ、栄太郎さんの前にも、あの石碑を調べていた人がいたんでしょうか」

 そう言うと、栄太郎は何やら意味ありげな笑みを浮かべる。

「? あ、あたし、何か変なこと言いました?」

「いやいや、俺も最初に聞いた時は、そう思ったぜ。ま、とりあえず話を進めよう」

 ひょっとしたら、石碑の正体が分かるかもしれない。大いに興味をそそられた彼は、教授に本の詳細について尋ねたが、残念ながら、彼も噂で聞いただけで、現物は見たことがないという。

 ならば、いっそ自分で入手しようと、方々に問い合わせたが、相当珍しい品らしく、一般の書店からは愚か、図書館からさえ朗報はなかった。そのまま一年が過ぎ、半ば諦めかけていた時――。

「田通書店さんから、連絡が来たってわけさ」

 さぞ、嬉しかったことだろう。栄太郎がチヨに恩返ししようとしたのも、なるほど頷ける。

「そして、ようやく手に入ったのが――」

「この本だったんですね」

 その古めかしい和綴じ本を、チヨは改めて見る。父が倉庫の奥から見つけ出した時は、埃塗れだった。多分、栄太郎の要望がなければ、そのまま震災で瓦礫に埋もれてしまっただろう。

 題名は“無銘祭祀書むめいさいししょ”。著者名は――。

「ふぉん・ゆんつと――? 随分、変わった名前ですね」

「だろ? その理由は、読んですぐに分かったよ」

 冒頭の解説によると、何とこの本は、独逸ドイツで書かれた原書――原題Unaussprechlichen Kulten――の和訳だったのだ。著者の名前が風変わりなのも道理、おそらくは独逸人だろう。

「ど、独逸ですか?」

 突然飛び出した、遠い外国の名に戸惑う。

「こりゃ、あの教授の勘違いだと思ったよ。外国の本に、うちの村の石碑のことが書かれている訳ないもんな?」

「ですよねえ――」

 結局、あの本は役に立たなかったのか。

「でもまあ、せっかく手に入れた品だし、とりあえず読んでみたんだ」

 著者のユンツトは、一風変わった探検家であり、神秘の知識を求めて、各地を旅したのだという。この本は、彼の体験談や考察をまとめたものなのだ。

「しかし、まあ、正直、かなり荒唐無稽な内容だったなぁ」

 ユンツト曰く、伝説の一角獣は実在する、不老長寿の魔術師に弟子入りした、地獄を訪れ悪魔と出会った――。

「は、はあ」

 お父さんたら、そんな本を売りつけたりして――何だか、赤くなるチヨであった。

「極めつけは、この逸話だな。何でもユンツトは、この本を書き上げた後、謎の死を遂げたんだと」

 密室で、喉をき切られた姿で発見されたというのだ。それを知った所有者の多くが、気味悪がって焼き捨ててしまい、おかげでこの本は、残存数の少ない幻の品になったのだという。

「――それを書いたの、ユンツトさんではないですよね」

「はは、俺は翻訳者あたりが、付け足したんじゃないかって思ってるけどな。まあ、そんな訳で、半信半疑で読んでたんだけど――」

 ふいに、栄太郎が真剣な表情になる。

「このページを見た途端、“疑”は吹っ飛んじまったよ」

 栄太郎が開いて見せてくれたそのページは、半分程が挿絵に占められていたのだが、そこにとても見覚えのある光景が描かれていたのだ。

 丘のような地形にそびえ立つ――。

「こ、これは――!?」

「ああ――勘違いじゃなかったのさ」

 それは、まさしくあの黒い石碑だった。

 色、形、大きさ、素人目にも瓜二つだ。さらに、ページの隅には、表面に刻まれた文字の拡大図が描かれているのだが、間違いない、それもそっくりだ。

「こ、これ、あの――!?」

「いや、確かにそっくりだけど、村の石碑とは別物だよ。その証拠に、背後の地形が違ってるだろ?」

 なるほど、佐羽戸の石碑の背後では、山が複雑な稜線をうねらせていたが、挿絵の石碑の背後に広がっているのは、高低差に乏しい荒野だ。

 二つのそっくりな石碑。背景だけが違っている。

「この石碑が存在するのは、洪牙利ハンガリーのシュトレゴイカバアルという村だと書かれている――」

 つまり、日本の佐羽戸と、洪牙利のシュトレゴイカバアル、お互いが地球の反対側に位置する二つの村に、そっくりな石碑が存在しているのだ。

 偶然――などという安直な解釈は、浮かぶ前に霧散してしまう。それぐらい似ているのだ。そういえば、二人で石碑を見に行った時、栄太郎がこの本を開いていた。きっと、挿絵と見比べていたのだ。

 おそらく、そうするまでもなかっただろうけど。

「他の話はともかく、この石碑に関する記述は、信用できると思う」

「は、はい」

 他ならぬ、自分と栄太郎だけは、そのことを知っている。

「でも、どういうことなんでしょう――?」

 栄太郎が目を閉じる。どこか、遠くに思いをせているかのように。

「俺も、最初は驚いたよ。でも、よく考えたら、有り得ない話じゃない」

「そ、そうなんですか?」

「ああ、佐羽戸村の由来を思い出してみろよ」

 弾圧から逃れてきた、隠れ切支丹が作った村――そう、外国の宣教師に率いられた――外国の――。

(あ――)

「もしかして――?」

「そう、石守家の先祖と言われる、外国の宣教師――ひょっとしたら、彼は日本に渡る前に、シュトレゴイカバアルの石碑を見ていたのかもしれない。そして後に、佐羽戸にも同じ物を建てた――」

 それがどういうことなのかは、チヨにも理解できた。

「だ、大発見じゃないですか!」

 最早、佐羽戸村だけの話ではない。あの石碑こそ、幾万キロもの距離を越えて文化が伝わった、紛れもない物証なのだ。

「へへ、チヨもそう思うか?」

「もちろんですよ! ガ、ガッカイとかに発表したらどうですか? きっと有名になれますよ」

「――そうしたいのは、山々なんだけどな」

 嬉しそうな顔を、ふと曇らせる。

「ちょっと、問題があって――」

「問題――ですか?」

「ああ、この本には、あの石碑のことが、こう書かれているんだ」

 一拍置いて、栄太郎は言った。

「悪魔のく石だと――」

「悪魔――!?」


 *


 黒い石碑が描かれた挿絵のページ。

 しかし、真に驚くべき事実は、文章の中に潜んでいた。

「村の人々は、この石碑を非常に恐れ、決して近寄ろうとはしないらしい。話題に上らせることさえ、躊躇うと言うんだ」

 唖然あぜんとするチヨ。てっきり海の向こうの石碑も、佐羽戸のそれと同様、神聖なものとしてあがめられているとばかり思っていたのだ。

 それなのに――悪魔の憑く石?

「と言うのも、この石碑は“前の住人”が遺した物だとされているからなんだ」

 現在の住人は、酪農を営むごく普通の農民たちだが、かつては全く違った者たちが住んでいたらしい。

「何でも、数百年前のシュトレゴイカバアルは、邪神を崇める邪教徒の村だったらしいんだ」

「邪神――」

「ああ、神様は神様でも、悪い神様だよ」

 そして、彼らがその信仰の要として建てたのが、あの黒い石碑だと言うのだ。

「村の名前も、その名残だろうとユンツトは言ってる――」

 シュトレゴイカバアルとは、独逸語で“魔女の村”という意味なのだ。

 邪教徒たちは夜毎よごと、黒い石碑の前に集まり、邪神をたたえる儀式を繰り広げた。おどろおどろしい太鼓の音色に合わせて跳ね回り、呪文を唱え、時には生贄をささげることもあった。

「い、生贄って、まさか――」

「ああ、他の村からさらってきた赤ん坊や、若い女をな」

 邪教徒たちは、哀れな生贄の血を石碑に振りかけ、邪神のさらなる加護を願ったという。

「怖い――」

「ああ、昔のこととは言え、ひどいことしやがるぜ」

 開かれたページから、生贄の悲鳴や、邪教徒の哄笑こうしょうが聞こえてくるような気がして、チヨは思わず怖気おぞけを震った。

「しかし、悪いことは続かないもんだな。西暦1526年、この地に侵攻してきた土耳古トルコの軍隊によって、邪教徒たちは皆殺しにされてしまったらしい」

 そして、後にはあの石碑だけが残されたのだ。

「後に、今の住人の先祖となる洪牙利人たちが移住し、シュトレゴイカバアルは平和な村に生まれ変わりました。めでたしめでたし――と、言いたいところなんだが」

 栄太郎は重い溜息を吐きつつ、続ける。

「俺たちには、大きな謎が残されちまったよな」

「ええ――」

「そうさ。何だってうちのご先祖は、そんな邪教の遺物を、わざわざ日本に再現したりしたんだ?」

 その通りだ。キリスト教にとっては、人を生贄にする邪教など、敵以外の何者でもないだろうに。

 一体、なぜ?

「どういうことなのか、ずっと考えていた――そして最近になって、ようやく一つの仮説に辿り着いたんだ」

(栄太郎さん――)

 チヨは、なぜか胸がざわついた。彼は、何を言おうとしているのだろう。このまま、黙って聞いていていいのだろうか。だが、まさか、聞きたくない等と言えるはずもなく。

 佐羽戸の歴史をくつがえす、衝撃の事実を知ることになった。

「俺は、こう考えてる――石守家の先祖と言われる宣教師。実は、彼はキリスト教の宣教師ではなかった。それは表向きの仮面で、その正体はシュトレゴイカバアルの邪教徒の生き残りだった――」

「ええっ!?」

 果たして、それは彼が奉ずる邪神の加護だったのか。土耳古軍からからくも逃れた彼は、周囲の目をあざむくためにキリスト教徒に成り済まし、邪教の再興を誓って機会を待った。

「そして訪れた機会が、カトリックの日本への布教活動だったんだな」

 フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えたことぐらいは、チヨも知っている。それが確か、1549年――土耳古軍がシュトレゴイカバアルを攻めたのは1526年。なるほど、時期は一致する。

「彼は、ある目論見を胸に、日本に渡った――」

 最初は、あくまでキリスト教の宣教師として振る舞い、人々の信仰を集める。そして、徐々に“キリストの教え”と偽って、邪神信仰を植えつけていく。何せ元の教えを知らない日本人ばかりなのだから、手懐てなづけるのは容易たやすいい。

 後に始まった、幕府の切支丹弾圧は計算外だったが、この危機をも彼は利用した。弾圧を逃れるためという口実で、外部から閉ざされ、信者だけで構成された村を作り上げたのだ。

「それが――?」

「そう、ここ、佐羽戸村だったのさ」

 そこで、栄太郎は気付いたらしい。

「村の名前の由来だよ。“サバト”から来てるんじゃないかってな」

「さばと?」

「――魔女の集会のことさ」

 “魔女の村”シュトレゴイカバアルとの奇妙な符合は、おそらく偶然ではない。宣教師、いや、邪教の司祭は、まさに第二のシュトレゴイカバアルとして、佐羽戸を作ったのだ。

 そして、丘の上にあの黒い石碑も再建し、さあ、いよいよ邪教の復活だという段になって――。

「なぜか、そいつの目論見はついえた――多分、村人たちに邪教を植えつける前に、急死してしまったんだろう」

 後に残されたのは、彼をキリスト教の宣教師だと信じる村人たち。そして、皮肉にも、彼にとってはカモフラージュでしかなかったキリスト教は忠実に守られ、佐羽戸は“ごく普通の”隠れ切支丹の村として長く過ごすことになる。

 あの黒い石碑もまた、神聖な物だと信じられたまま――。

「はあぁ――」

 としか、言いようがないチヨ。歴史の皮肉さに、呆然とするしかない。しかし、一方で、すっきりと納得してもいた。そう、黒い石碑を見た時に感じた、あの印象――。

 周囲からあまりに浮いた、あの異質な雰囲気には、そういう訳があったのか。

「もう分かっただろ? “問題”が何なのか」

「そ、そうですね。こんなことを、村の人達が知ったら――」

 騙されていた、そんな風に感じるのではないか。少なくとも、いい気分になる訳がない。

「でも、それじゃあ、発表はしないんですか?」

「それがいいだろうなぁ、村のためには」

「そんな――」

 せっかくの研究成果なのに――しかし、当の栄太郎には、さして落胆した様子はなかった。

「別にいいさ。俺はただ、自己満足のためにやってるだけなんだから」

「栄太郎さん――」

 そうだった。彼にとっては、有名になることなど二の次なのだ。

「へへ、親父の奴、自分の説を息子に覆されたと知ったら、どう思うかな」

 栄太郎は得られたのだろうか、父を超えたという実感を。分からない。しかし、確かに彼の顔は、初めて見た時に比べて、幾分大人びて見える。

 前進したのは、間違いない。

「悪かったな、変な話を聞かせちまって」

「い、いえ、話してとせがんだのは、あたしですから――」

「いや、俺も誰かに聞いて欲しかったんだ。さすがに、自分一人の胸に仕舞っておくのは、気が重くてさ」

「あ――」

 チヨは気付かなかった自分を恥じた。そうだ、他ならぬ栄太郎自身が、一番衝撃を受けているはずではないか。実は邪教徒だった宣教師は、彼の先祖なのだから。

「俺の中には、邪教徒の血が流れているんだぜ。どうだ、怖くなったか?」

「――ご先祖がどうあれ、栄太郎さんは栄太郎さんですよ」

「そうか――」

 冗談めかしていたが、瞳は真剣だった。

「聞いてくれたのが、チヨで良かったよ」

 チヨも嬉しかった。秘密を打ち明ける相手に選ばれて。無論、佐羽戸の住人ではないから、というのが主な理由であろうが、きっと、それだけではない。

信じてくれていたからだ。

(この世でただ一人、あたしは栄太郎さんの秘密を知っているのね)

 何だか、妙な優越感に包まれた、その時。

 ぞくりっ。

(!?)

「どうだ、研究も一段落したし、久し振りに散歩でも――どうした、チヨ?」

「い、いえ、何でも――」

 栄太郎の声で、ようやく硬直が解ける。

(何、今の――?)

 それは、背中にべちゃりと何かが張り付いたかのような。ぞっとするほど冷たく、それでいて妙に生々しい、例えるなら爬虫類的な肌触りの。

 そんな感覚が、突如湧き上がったのだ。

 だが、念のため背中に手を回しても、無論そこに蛇も蜥蜴とかげもいなかった。

(気のせい――よね)


 *


「ウフフフフ――」

 書斎の扉の向こうで、絹はにこにこと微笑んでいた。

 かれこれ一時間近くも、一人で延々と。

「ウフフフフ――」

 絹は、ひたすら微笑んでいる。

「ウフフフフ――」

 そして、そんな彼女の背中を、廊下の角からそっと窺う――。

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