弐ノ章

「おはようございます、栄太郎さん」

「ふわああ、おう、チヨは早起きだな――うわっ、どうしたんだよ、その格好?」

 チヨを一目見るなり、栄太郎は目を丸くする。無理もない。絹と同じ、女中のお仕着せ姿だったのだ。

「に、似合いませんか?」

「い、いや、そんなことねーけど――」

「ウフフ、お世話になりっ放しじゃ悪いから、私の仕事を手伝いたいんですって」

 朝食の支度をしながら、絹が悪戯いたずらっぽく笑う。チヨが着ているのは、彼女のお下がりだろう。

「お客様にそんなことをさせる訳には――」

 新聞にアイロンを掛けていた――こうして乾かさないと、インクで手が汚れるのだ――金谷の重々しい声に、やっぱり出すぎた真似だったろうかと一瞬くじけかけるが、ぎゅっと拳を握り締めて、自分をふるい立たせる。

「栄太郎さん、仰たでしょう? ここを、自分の家だと思ってくれって。自分の家なんだから、家事をするのは当たり前ですよ」

「なるほど、それもそうか」

 栄太郎は苦笑いを浮かべ、使用人たちと目配せを交わす。それだけで、意思の疎通には十分なのだった。

『その方がいいですよ。何もしなくていいでは、かえって気疲れします』

『止むを得ません。動いている方が、チヨ様もお気持ちが紛れるでしょうし』

『そうだな――』

「じゃあ、頼もうかな」

「はい!」

「あ、絹さんに苛められたら、言いつけてくれていいからな~」

「は、はあ」

「まあ、失敬な。そんなことしませんよ。私達、もう実の姉妹も同然ですもの。ねえ?」

「そ、そうですね」

 こうしてチヨは、客人でありながら、女中の仕事もするという、はたから見れば奇妙な立場に身を置くことになった。

 朝食を済ませた後、早速、絹と共に屋敷の掃除にかかる。ガラス窓や絨毯など、 家事には慣れているチヨでも、扱いが分からない物も多い。しかし、絹が丁寧に教えてくれたので、すぐに飲み込めた。

 それにしても。

(ひ、広い)

 とても、一日では終わらない。案の定、曜日ごとに掃除する場所を決めて、一週間で屋敷を一回りするようにしているらしい。客室など、普段は使わない部屋も多いので、それで十分らしいが。

 いや、それにしたって、洗濯や食事の支度など、他の仕事もあるだろうに、よく彼女一人でやれているものだ。

 掃除の合間に、他の二人の日常も目にした。

 金谷は、各種請求書や銀行手帳をまとめ、てきぱきと家計簿を付けている。主人が本職に集中できるよう、その代理として財産管理を行うのも、執事の重要な役目なのだが。

「ご主人様、次回の日曜のミサについてですが――」

「い、今、ちょっと忙しくてさ~。金谷が代わってくれよ」

 そそくさと書斎に逃げ込んでしまう栄太郎に、やれやれと肩を落とす金谷。

優秀な彼は、主人の本職である教会の仕事まで肩代わりしているらしい。

「目下のところ、ご主人様は研究に夢中ね。おかげで、教会のことは金谷さんに任せっ放し」

 くすくす笑っていた絹が、ふと笑みを曇らせる。

「――本当に、お父様にそっくり」

 彼女の視線の先にある物に気付いて、チヨははっとする。

 百号程もある、大きな油絵だった。二人の人物が描かれている。椅子に腰掛けた司祭の正装姿の紳士と、そのかたわらに立つイブニングドレス姿の婦人。二人とも、穏やかな眼差まなざしで屋敷を見守っている。

「あの絵――」

「ええ――ご主人様のご両親、先代当主の栄三えいぞう様と、雪子ゆきこ奥様よ」

 絹に確認するまでもなく、チヨは確信していた。婦人の面差おもざしには、栄太郎と重なる部分があったから。

「お父様も、何か学問を?」

「ええ、古い宗教とか呪術とかいったものを研究なさって――本も沢山書かれていて、その道では有名だったらしいわよ」

「もしかして、栄太郎さんの研究も――?」

 書斎で塔を成していた書物の題名を思い出す。古い宗教や呪術――確かに、そういった関係のものが多かった気がする。

「そうね――お父様のお背中を、追っていらっしゃるのかもしれないわね」

 それが分かっているからだろうか。金谷も強くは言わないらしい。

「お二人は、どうしてお亡くなりに――?」

「森で、熊に襲われたらしくてね――」

 栄三の方は、未だに遺体が見つからないのだという。こんなお屋敷に住む人が、そんな死に方をするとは、誰が予想しただろう。しかし、それを言うなら、震災で死んだ父も同様か。死は本当に気まぐれで、そして無慈悲だ。

(五年前ということは――)

 当時、栄太郎は十代前半だろう。今のチヨよりも幼かったのだ。そんな年頃の子が、死の不条理さに受けた衝撃は、察して余りある。

(どうすれば、乗り越えられるのかしら――そんな悲しみを)

 それは、彼女自身への問いかけでもある。

 父の死を乗り越えるために、自分はどうすればいいのだろう?


 *


 午後からは、栄太郎に連れられて外に出た。村を案内すると共に、チヨを村人たちに紹介したいとのことだった。

 チヨを屋敷の中に保護するのではなく、この村で“生活”させてやりたいと、栄太郎は考えているのだろう。彼の心遣いが有難かった。

 栄太郎の案内で、村人たちの暮らしを見せてもらう。佐羽戸村は外見だけでなく、その営みも西洋式だった。

 風車で小麦を引き、パンを焼く。家畜の乳からバターやチーズを作り、毛をつむいで糸を作る。果樹園の葡萄ぶどうたるに詰められ、ワインになる。こうした生産物は、西洋文化をとうとぶ富裕層に飛ぶように売れ、石守家の富のいしずえにもなっているのだ。

(本当に不思議な村――)

 改めて、そう思わずにはいられない。まるで日本の中でここだけが、存在する時空間を異にしているかのようだ。

 村人たちは、栄太郎の姿を見かけると、皆笑みを浮かべ『坊ちゃん、こんにちは』『いい天気ですねえ』と、口々に挨拶する。

 昨日、車に頭を下げる村人たちを見て、大名行列に平伏す農民のようだと思った。しかし、こうして彼らを間近に見て、そのイメージは違うことが分かった。

 確かに恭しい態度ではあるが、殿様に対するような、恐れ混じりのそれではない。もっと親しく、明け透けな感じだ。

 栄太郎も屈託のない笑顔で『腰の調子はどうだ?』『今度曾孫が生まれるんだって?』と応じている――村人たちの顔はおろか、その付加情報も全部暗記しているらしい。

 それを見て、チヨは理解した。金谷や絹とそうであるように。

「栄太郎さんと村の人たち、まるで家族みたいですね」

「まあな。元が、隠れ切支丹の村だからかもな。村の結束は、とても固いんだ」

 団結しなければ、生き残れない。そんな、過酷な歴史の賜物たまものなのだろう。もっとも、強い結束は、強い排他性と、しばしば表裏一体であったりもするが――。

「ところで坊ちゃん、そちらのお嬢さんは?」

「ああ、恩人の娘さんで――」

 栄太郎が紹介すると、すぐにチヨにも同じ笑みを向けてくれる。佐羽戸へようこそ、変わった村で驚かれたでしょうと歓迎し、女性達など、彼女の身の上を聞いて、涙を流して同情してくれた。

「ほっとしました。隠れ切支丹の村だから、余所者は警戒されるかと思っていましたけど――」

「まさか。聖書にも書いてあるぜ。“汝の隣人を愛せよ”って。この村で暮らす以上、チヨだって隣人さ」

 佐羽戸村。風変わりな、しかし暖かな村。

(ああ、きっと)

 栄太郎の気性は、この村によって育まれたに違いない。村を包む、穏やかで大らかな空気は、彼の印象とぴったり重なるから。

 村を一通り回り、最後にやって来たのは教会だった。村の中では、石守邸に次いで大きな建物だろう。

 ステンドグラスから差し込む光、頭上に十字架を掲げる祭壇、重厚な音色を響かせるパイプオルガン。ほぼ無宗教のチヨでさえ、思わずひざまずきたくなるような、荘厳な雰囲気だ。

 出迎えてくれた助祭――司祭の手伝いのような人――の老人が、栄太郎に笑いかける。

「坊ちゃん、金谷さんがぼやいとりましたよ。そろそろ、教会の仕事に本腰を入れて欲しいなぁって」

「あ、あはは、まあ、その内な」

 誤魔化し笑いを浮かべていた栄太郎だったが、ふと声を低くしてささやく。隣のチヨにしか聞こえないように。

「金谷には悪いけど、正直あんまり興味ないんだよなぁ。司祭の仕事って」

「そ、そうなんですか?」

「ああ、どうも信仰って奴がピンと来なくてさ。おかげでこの通り、司祭の家に生まれたから司祭をしてるだけの、お飾り司祭になっちまってる訳だよ」

 そういうものかもしれない。実家が寺だからという理由だけで、僧侶になる人も多いらしいし――その程度に考えてしまった。栄太郎の言い方が冗談めいていたせいで。もう少し深く考えれば、十分推測できたはずなのに。

 なぜ、彼が“信仰って奴がピンと来ない”のか。

「そう言えば、坊ちゃん。そろそろ祭の準備を始めるんじゃが、例年通りでいいかのう」

「ど、どうかなぁ、金谷に聞いておくよ」

 全くしょうがない司祭だよなぁと、照れ笑いを浮かべていた栄太郎は、ふと遠い目になる。

「そうか、もう祭りの時期か」

「お祭があるんですか?」

「ああ、神様に秋の実りを感謝する、いわゆる収穫祭の一種だな」

 キリスト教の祭と、土着の自然信仰が融合して生まれた、この村独自の祭らしい。村人全員が参加する、大規模なものだそうだ。

 そこで、栄太郎はぱっと顔を輝かせる。

「そうだ、チヨも出てみないか? 村に溶け込むいい機会だぜ」

「あ、あたしもですか? 大丈夫かしら――」

 宗教色の強い厳粛げんしゅくな祭のようだし、不慣れな自分などが加わったら、場を乱してしまうのでないか。チヨは躊躇したが、栄太郎はどんと胸を叩き。

「平気平気、何も難しいことはねえよ。俺が付いていてやるしさ」

 俺が付いていてやる、その言葉に、チヨはどきりと胸をはずませた。

(栄太郎さんと一緒に、お祭に――)

 去年の、隅田すみだ川の夏祭りを思い出す。友人が、気になっていた男性に、一緒に行こうと誘われたと喜んでいた。祭、それは多くの人目に晒される晴れの日であり、そこへ男女が一緒に行くというのは、言わば――宣言を意味したのだ。

(馬鹿ね、あたしったら。考えすぎよ)

 栄太郎に、そんなつもりがある訳ない。彼はあんな豪邸を構える名家の当主、対して自分は何だ? 大して儲けもない小さな書店の娘――ですら、すでにない。ただの孤児ではないか。

 彼はただ、親切で言ってくれているだけだ。


 *


 屋敷に帰る前に、寄りたい所があると栄太郎に言われ、連れられて来たのは、村外れの森だった。この付近には人家もなく、ひっそりとしている。

 彼は、きょろきょろと周囲の様子を窺っている。どうしたんですかとくと、シッと口元に人差し指を立てて、ひそひそと囁く。

「ここから先は、聖域だからな。司祭しか入っちゃいけないんだ」

「聖域――」

 聖域、神のおわす領域。チヨも神社の裏山などが、注連しめ縄で閉ざされているのを見たことがある。

「じゃあ、あたしはここで――」

「いいっていいって、チヨも来いよ」

「ええっ、い、いいんですか?」

 幼心にも、みだりに立ち入ってはいけないと感じた、あの感覚を思い出す。それは日本人の遺伝子に刻まれた、根源的なものだろう。

 だが、栄太郎は『ちょっとぐらいなら、神様も大目に見てくれるさ』とあっけらかんとしたものだった。キリスト教の神様は、随分と寛容であられるらしい。

 彼に続いて、おっかなびっくり聖域の森に入る。針葉樹の太く真っ直ぐな幹が整然と並ぶ様は、どこか神殿の柱に似ていて、人智を超えた作用が、この森を作り上げたのではないか、そんな幻想を抱かせる。

 道はかなりの急勾配だった。どうやらこの森は、斜面に沿って広がっているらしい。生粋きっすいの帝都っ子で、山歩きに慣れていないチヨが青色吐息でいると、当然の義務のように栄太郎が手を引いてくれた。

(あ、あわわ)

 男性の硬い手の感触に、鼓動が早まる。掌の血管を通して伝わってしまうのではないかと思うと、気が気ではない。

「と、ところで、何をしに行くんですか?」

 せめて、彼の注意をらさなくてはと話しかける。

「ああ、どうしても、確かめたいことがあってさ。チヨにも、ぜひ見てもらいたいし。ちょっとしたモンだぜ、あれは」

 栄太郎は、何やら得意げだ。友達に“とっておきの場所”を教える子供のように。

 徐々に木々がまばらになり、やがて開けた場所に出る。そこは、村を見下ろす小高い丘だった。うねる様な山と谷の稜線が描きだす展望は絶景だったが、しかしチヨは全く目に入らなかった。

 広場の中心に聳えるそれが、他の一切を無視せしめる程の存在感を放っていたからだ。

「こ、これは――」

 高さ二丈弱(約五メートル)、差し渡しはその約半分の、完全な八角柱。

 に、空間が黒く抜け落ちている。

 神という画家が、そこだけ創造の筆を入れ忘れてしまったかのように。

(いいえ、そうじゃない――)

 チヨは目をまたたいて、錯覚を振り払う。

 あれは、黒い、実体ある物体だ。

 にも関わらず、あのように錯覚してしまったのだ。その黒さの、あまりの深みに。

「石碑――?」

 ようやく、その正体に思い至る。

「へへ、驚いたか?」

「え、ええ――」

 緑の息吹満ちる森の中に、突如として現れたその姿は、この上なく異様だった。

 材質は石炭――それとも、黒溶岩か。いや、間近で見ると、つるりとしていて、僅かに透明感がある。非常に色の濃い黒水晶、と言うのが一番近いかもしれない。

 その表面には、うねうねとした線が、不規則に刻まれている。そうかと思えば、太陽や角のある動物を思わせる形が、不意に現れたり――文字、そして文章、なのだろうか、これは?

「言い伝えによれば、村のご先祖が、この土地に移り住んだ時に建立こんりゅうしたらしい。確か、禁教令の直後だから――ざっと、三百年かそこらはっているはずだな」

 それ以来、この石碑は村の信仰の要として、大切に守られてきた。石守家の家名はそもそも、この“石”碑を“守”る役目を担うことに由来するらしい。

「何のために、建てられたんでしょう――?」

「それが、間抜けなことに――よく分からないんだよな」

 長い年月を経る間に、答えを知る者はいなくなってしまったらしい。

 そもそも、この文字が何語なのかも分からない。少なくとも、漢字ではない。宣教師の母国語という可能性も考えられたが、ヨーロッパのどこにも、こんな文字を使う言語はなかった。

「ひょっとしたら、実在の言語じゃなく、暗号のようなものかもしれない。刻まれているのは、キリスト教の教えか何かで、万が一、幕府に見られても言い逃れできるようにしてあるんだ――というのが、親父の説なんだけど」

 そこで言葉を切り、栄太郎が浮かべた表情は、悪戯を企んでいる悪餓鬼のようだった。

「俺の考えは、ちょっと違うんだよな~」

「そうなんですか?」

「ああ、それを証明するのが、今やってる研究なのさ。へへ、見てろよ、もうすぐ、親父の鼻を明かしてやるぜ」

 表情とは裏腹に、彼の瞳は直向ひたむきだった。それを見て、チヨはさっと光が差すのを感じた。眼には見えない、希望の光だ。

(そうだったんだ。栄太郎さんは――)

 彼が学問を通して、父の背を追っていることは知っていた。だが、それは、父の背に寄り添うためなどではなかったのだ。

 乗り越えるためだ。父の背を、悲しみ諸共。

(もう見つけて、歩き始めていたんだ 自分の道を)

 石守家が代々守り続けてきた、石碑に関する考察――なるほど、ちょうどいい研究テーマかもしれない。

(上手くいくといいですね)

 あの和綴じ本を開き、何やら石碑と熱心に見比べている彼に、心の中で声援を送る。彼が父を越え、悲しみを越える姿を見られれば、きっと、自分も励みになるだろうから。

(あたしも、がんばらなくちゃ)

 その時。

 ぬっと、影がチヨを覆った。

 はっと顔を上げると、自分がいつの間にか、石碑が落とす影の中にいることに気付く。まるで、石碑が自分に圧し掛かろうとしているように思え、チヨは慌てて影から抜け出した。

 こうして、改めて見てみると。

(――変な物だなぁ)

 村の人たちには悪いが、そう思わずにはいられない。キリスト教の教えはよく知らないが、少なくとも、佐羽戸村の長閑のどかな空気と、この真っ黒な石碑は、まるでイメージが繋がらない。

 じっと見つめていると、違和感のあまり頭がぐらぐらしてくる――。

「おう、お待たせ。そろそろ帰――」

 振り返った栄太郎が、はっと表情を強張こわばらせる。

「チヨ、どうしたんだ、その手!?」

「え?」

 指摘されて、初めて気が付く。

 自分の右手の甲から、血がしたたっていることに。

 見ると、ごく浅くだが、切り傷が走っている。

「葉っぱか何かで切ったのかしら? た、大したことないですよ」

「いや、黴菌ばいきんでも入ったら大変だ。とりあえず、ハンケチで――ああ、くそ、持ってこなかった。じゃあ、これで」

 栄太郎は、躊躇ためらうことなくシャツのすそを引き千切る。包帯代わりにするつもりだろう。

「あ、あわわ、すいません、そんな上等な生地を――」

「いいって、気にすんなよ」

 そして、彼はシャツの切れ端を、チヨの手の甲に――。

 ――――。

(――あれ?)

 いつまで経っても、巻いてくれない。

(栄太郎さん――?)

 見ると、彼はチヨの切り傷を、食い入るように見つめている。

 いや、傷ではない。

 そこから滴る、真っ赤な血を。

 まるで、時が止まってしまったかのようだった。そんな風に錯覚するぐらい、栄太郎は動かない。チヨも動けない。ただ、じわじわとあふれ出す血のみが、時を刻んで――。


 夜の闇よりもなお黒とはあらゆる色を内包するとても豊潤な完璧な黒が解れ無限の色彩が溢れきらきらくるくる人々は手に手に松明色鮮やかな衣装母さんは真っ赤な母さんは真っ赤な母さんは真っ赤な――!


 沈黙は、不意に破られた。

「なあ、チヨ――」

「は、はい?」

 チヨはどきりとする。だって、栄太郎の声は、夜闇に紛れて、秘密を打ち明けるようなそれだったから。

 だが、続く内容は、予想と全く違っていた。


「君なら、きっと似合うぜ――真っ赤なドレス」


「――――――――え?」

 何を言われたのか、チヨは即座には理解できなかった。

 あまりにも、脈絡が無さ過ぎて。

 栄太郎の顔は、逆光になってよく見えないが、口元には、うっすらと笑みが浮かんでいる。

 その背後から、あの黒い石碑が、無言でチヨを見下ろして――。

「あ、ああ、ごめん、ぼーっとしちまって」

 はっと我に返り、手当てを再開する。研究で夜更よふかしし過ぎたかな、と笑いながら。その様子は、すでにいつもの彼だった。

 ――では、さっきまでの彼は?

「あの、栄太郎さん、赤いドレスって?」

「――、ああ、祭の衣装なんだ」

 一拍の間があったことに、チヨは気付かなかった。

「そう言えば、母さんが着てた奴があったな。貸してやるから、祭では、ぜひ着てみてくれよ」

「い、いいんですか?」

「ああ、もちろん――」

 再び――。

 ――栄太郎の口元に、あの笑みが浮かぶ。

「――母さんも、きっと喜ぶよ」

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