太陽のかたち

ちとせあめ

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「……太陽のかたちだね」

 コードに繋がれた息子が目覚めて少し経ってから言った。私は思わず息を呑んで、しかしなるべく動揺を見せないように努める。

「太陽?」

 病室の白いシーツにも勝るほど青白い顔をした息子は微笑んだ。そしてゆっくり目線を動かして、窓際に置かれた『星の砂』を指し示した。

 小さな瓶に入ったそれは元から鎮座していたようだった。だが、息子が昨日ここにベッドを移されてからほぼ付きっきりで座っているにもかかわらず私は今の今まで気付かなかった。

 誰かの忘れ物だろうか。忘れた誰かは現在も生きているのだろうか、ふと考えて厭になる。縁起でもない気がした。


「太陽のかたち?」

 どう答えたらいいのかわからない。鸚哥にも劣る口調で反芻しながら、とにもかくにも妻を呼んでこようと腰を浮かしかけてから、助けを借りるべきその妻は三日前に死んだのだと思い出した。

 交通事故だった。息子が入院している病院に見舞いに行く途中に飲酒運転のスポーツカーと衝突したのだ。車体の横腹へモロに当てられた妻の方が被害は甚大だった。目撃者によると衝突した後すぐに妻は出血した頭を抱えながら運転席からまろび出て、地面に座り込んだらしい。錯乱していたのだと思う。

 同じようにスポーツカーの男も錯乱していた。しかし奴は凶悪だった。とっさに逃げようとしたのだ。車で。破損し、鋭角に捲れたバンパーを掲げて突っ込んだ。座り込む妻の背中に向かって。


「お父さん……」

 獣が遊び半分に喰い破った人形のようになってしまった妻の遺体との面会を、まざまざと脳裏に思い返していた私は息子の声で覚醒した。

「ああ、太陽のかたちだな」

 息子は生まれつき心臓の病を抱えていた。ここ1ヶ月は殊更調子が悪い。ゆえに母親の死は知らせていなかった。なるべく穏やかに過ごさせろと言う医者の言葉には『もう長くないのだから……』と言いたげなニュアンスがあった。

「お父さん、わかってるの?」

 私の答えが気に入らなかったようで、息子は唇を尖らせる。子供に嘘は通用しないのよ――と笑う妻の声が耳に響いた錯覚がした。

「ごめん、本当はわからなかった。教えてくれるか?」

「いいよ」

 笑顔に変わると息子は妻によく似ている。そして私にも似ている。不意に胸が詰まるが泣くわけにはいかなかった。


「あの砂は太陽なんだ。ひとつひとつが太陽で、だから入ってる瓶は太陽のかたちなの」

「よく……わからないな。父さんには星の砂にしか見えないよ」

 一瞬迷ったが正直に言う。息子はしばらくじっと私の顔を見つめていたが、やがて頷いた。

「僕が、そう思うから僕にとっては太陽なんだ。どんどん大きくなる太陽」

「どんどん大きくなる?」

「そうだよ。今よりずっと大きくなる。でも、あれは僕の太陽だから、大きくなった太陽に飲み込まれるのは僕だけ……お父さんは大丈夫だよ」

 今度は私が息子の顔を見つめた。太陽に飲み込まれる。それは端的に表すと死ぬことではないか。


「飲み込まれやしない。大丈夫だ」

 言いながら語尾が震える。恐ろしかった。 恐ろしい事実に気付いてしまった。私はショックで感情が麻痺していたのだろうか。妻が死に、息子まで死んだらどうなる?

 ……何も無くなる。私が守るべきもの、守りたいものが無くなる。それは自分自身が死ぬことよりも恐ろしい空虚だ。

「あんな太陽なんか、やっつけてやる」

 半ば自らに言い聞かすように断言すると、呆気に取られていた顔を崩して息子が笑った。無邪気な笑い顔だった。

「お父さん、ずっと前に観たテレビを覚えてる? ハワイにある火山の」

 いきなり変わった話題に頭が何秒か遅れてついてきた。私も覚えていた。ハワイのキラウエア火山の活動を自然のままに映した番組だ。

「あれはすごかったね。溶岩が真っ赤になってどろどろ流れてた。溶岩ってすごく熱いんでしょ?」

「ああ、熱いぞ」

「太陽はきっとそれよりも熱いんだろうね。だから、飲み込まれるときも、飲み込まれたあとも苦しくないよ」

 息子は至極落ち着いている。私のほうが慌てているぐらいだ。彼は何を言わんとしているのか。私は話を促した。

「よかったことだけが残るんだ。たのしかったこと、きれいなものだけが。だから怖くない。お母さんが言ってたよ」

「言ってた?」

 妻がそんな死の概念を持っていたなんて知らなかった。私は驚いて訊ね返す。


「さっき、来たときに。ねえお父さん……お母さんは死んじゃったんでしょう」

 息子は真っすぐに私を見つめた。曇りない青空のような目で。丸い太陽のような目で。私は何も言えなかった。その沈黙が何よりも肯定に近いと知りながら、戸惑ってしまった。


「隠しててくれてありがとう。……ああ、太陽が、ひろがるよ」

 息子が細い手を天井に向かって伸ばす。あまりにも頼りない、その手を私は掴んだ。温かい。まるで永遠のものであるようなぬくもり。

 でも、永遠ではなかった。




 ほどなくして息子は息を引き取った。

 誰もいない病室の、窓辺に新しい『星の砂』を置く。

 これもまた、誰かの太陽になるのだろうかと思いながら。




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