第三章  Ⅱ


               ○


 街の北西部、四番街とほぼ統合された庶民用の住宅地である七番街の片隅。繁華街の喧騒とは対照的に、物静かな場所だった。馬車や蒸気自動車も滅多に通らず、空き地では子供達が元気一杯に遊び、主婦達は互いの家や道端で他愛のない会議の真っ最中だ。

 そんな七番街の片隅に、石造りの小さな教会があった。地震が存在しない大陸だからこそ今日まで残った。良く言えば風格が漂う。悪く言えば古臭い。そろそろ改装工事しないと本当に危ないよ? と子供でさえ心配するような教会だった。

 杖を片手に一階の礼拝堂に足を踏み入れたカノンは、吹き抜けになっている二階の天井を見上げようとして固く目蓋を閉じた。壁の一部には外観及び採光目的で天使や女神の姿を模した色硝子が嵌められている。時刻は昼過ぎ。夏場となれば最も太陽光が活発化する時間帯であったからだ。ただ、内部はそれほど暑苦しくない。むしろ、教会独特の静寂さが頬の汗を引かせる。

 長椅子が並べられる向こう側、礼拝堂の正面には石工の像が鎮座していた。新時代の魔術を最初に生み出した『始まりの姫ティアーユ』の姿である。余程の鬼才を誇る職人が製作したのだろう。目蓋の皺や指先、波打つ衣、膝まで届く長い髪を、見事に彫り込んでいた。胸の前で両手を汲み、頭を垂れる姿は神々しく、古びた教会であっても威厳を失わない。

 教会は新時代の魔術を生み出した『始まりの姫ティアーユ』を〝女神の使徒〟とし、魔力を世界に残した女神ミリーズを〝救いの女神〟としている。また『再来を謳う十三柱の魔女グランド・ウィッチーズ』は悠久独立魔導都市国家『マギア・アムネートゥルム』に総本山を構える最大相互組織『フェルニルブレスの魔女連合』側の信仰対象になるので、複雑な関係を余儀なくされている。

 そもそも、一口に教会といっても様々な派閥がある。中には、人々の堕落を憂い、神罰を落とした女神レインこそが人々を救済すると信仰する者達までいるのが現状なのだ。

 王国の九割、世界全体の六割が信仰するのは、女神レインが世界から魔力を完全に消し去ろうとしたのを、別の女神であるミリーズが形のない魔力を形ある魔石として残すことで防ぎ、『始まりの姫ティアーユ』が新たに魔術を開発したとされる〝アルスタール正教〟である。補足すると、一〇〇〇年前にレインが齎した呪いにより起こった『暗黒の二百年』よりも以前に存在した教会が定めた聖書を〝旧約〟とするならば、魔術の完全な損失を防いだミリーズ勢を崇め奉る聖書を〝新約〟とする。そもそも、古代に起こった災厄には、様々な諸説があった。誰も真実を知らないのだ。 


「レインは魔力を全て此の世から消し去ろうとした。けれど、ミリーズが流した涙に魔力が溶けて石となり、魔石として世界に残った。っていうのが、アルスタール正教だ。だが、ベルミスター聖教では魔力を損失させたレインが人々の贖罪を受けて改心し、ミリーズとして生まれ変わって人々に魔石を与えたって設定を信じている。また、レーベンヌ清教ではレインとミリーズが姉妹であり、今も世界改変を続けているって物語が主流だ。ったく、歴史を教えるこっちの身にもなれってんだ」


 歴史の教師が何気なく呟いた。古い時代から、議論は常に交わされている。どうして魔力が石になったのか? レインの呪いか? それとも、ミリーズが石にしたからこそ、魔力が世界に残ったのか? 本当に『始まりの姫ティアーユ』が新しく魔術を開発したのか? ミリーズとレインの関係は? 他の神はどうしたのか? 精霊は? 天使は? 旧約聖書はどこに消え去ったのか? どうして消え去ったのか? 新約聖書は誰が編集したのか? 疑問を述べ出したらキリがない。 

 教会とは、現在進行形で議論を続ける派閥の集合体でもあるのだ。また、世界最大の魔術組織である『フェルニルブレスの魔女連合』は『再来を謳う十三柱の魔女グランド・ウィッチーズ』を信仰対象とするものの、教会のような潔癖症ではない。もっとも、カノンが訪れたフェルミ教会は苛烈な派閥争いなどせず、狂信者の集まりでもない。むしろ、頻繁に貧困者へ施しを捧げ、広く親しまれている教会だ。クロムウェルが毎週訪れるのも、この教会である。聖日曜日の聖歌は、ちょっとした御祭と勘違いするほど、人が多く集まるのだ。

 さて、閑話休題。礼拝堂に居るのはカノンだけではない。今まさに、数名の修道女達が掃除の真っ最中だった。長椅子の埃を払い、床を雑巾で拭き、丁寧にかつ無駄なく室内を清潔にしていく。男は視線が合った者へ軽く頭を下げ、二階へと続く階段を上った。誰も、部外者の彼を止めようとしない。全員が、彼がここに来た意味を知っているからだ。


 三十秒足らずで二階へ到着。廊下の向こう側から、カノンへ一人の女が近付いて来た。

「久し振りだねー、カノン。会えなくて寂しかったよ。元気にしていたかい?」


深みある渋美声ハスキーの持ち主を包むのは、黒に限りなく近い藍色の貫頭衣トゥニカ。ゆったりした袖付きのくるぶし丈単一着ワンピースである。額には鋼の鉢金を巻き、頭衣布ヴェールで覆っている。本来、髪を全て隠す白い頭布などがあるのだが、この修道女だけは簡素に纏めていた。お陰で、短く切り揃えられた髪が良く見える。まるで、磨き上げられた赤銅。熱を持たぬ砂漠の暁か。雪のように白い肌に映えていた。歳は十代後半から二十代前半か。身長はカノンよりも頭一つ分小さい。切れ長の瞳は晴れた日の海を連想させる青。そこに薄っすらと緑の光が融けている。アディリシアのように、美しさと凛々しさが際立つ面立ちだ。

 本来、修道服は女性の処女性を強調し、色欲の制限が求められるがゆえに、身体の起伏が見えないような意匠デザインだ。しかし、彼女の豊満な肉付きは隠しきれていない。正確に、具体的に、簡潔に言ってしまえば胸元が窮屈そうだった。まるで、成熟した帝国産の特級白桃が押し込められたかのように。隠しきれない色気をさらに際立たせているのは、服の女用下衣スカート部分に入った透き間スリットだろう。今は紐が通されて閉じられているも『あれの結び目を解けば開くのか』と想像力が劣情と一緒に増幅されてしまうのだ。

 しかし、彼女――リトラ・トエンディへ下世話目的で不用意に近付くような男はいないだろう。修道女でありながら〝武器〟を装備する彼女へ、どうして近付ける?

 リトラが右腰に差している鞘は、通常の鞘とは違った。幅広で太く、遠目からは箱のようにも見える。新雪を塗り固めたかのように真っ白な表面に、黒い墨のような物で幾何学的な模様が彫り込まれている。影の世界に咲く花あるいは炎か。そして、収められている剣の数は横に二列、二本と三本の計五本。一鞘五剣の異様な光景だった。しかし、これこそが聖導騎士に許された武器の一つ『追葬の刃・レブナハート』である。



「ちょいと寝不足かな。そっちはどうだ。葡萄酒に生姜なんて入れてないだろうな?」

 絞り滓のように質が悪い葡萄酒ワインは生姜を入れて味を誤魔化すのが常識だ。そして、教会では葡萄酒を〝ミリーズが流した血涙〟と評し、神聖視している。もしも、カノンと同じ台詞を子供が言えば、母親から張り手をくらっても文句が言えないだろう。だが、リトラはケラケラと笑って肩を竦めたのだ。


「そこらの大衆酒場よりも美味い酒を飲んでるさ。……ところで、何の用だい? って聞くのも野暮ってもんだねー。昨日の事件だろう? 私も、詳しく話しを聞きたかったところさ。聖導騎士として、今回の一件は許し難い」


 リトラの声に、氷を刃へ鍛えたかのように冷酷な色が滲む。修道女や修道士、司祭、枢機卿などの教会に属する者達は等しく車輪十字の首飾りを提げている。彼女は右手の人差し指に純銀の指輪を嵌めていた。白百合を模した円環、これこそが聖導騎士の証しである。

大都市・アマンデールを守護する者は、四種類存在する。すなわち、自警団、学園生徒、傭兵、そして聖導騎士。教会が唯一〝殺生〟を許した剣の担い手達だった。

 教会の歴史とは戦の歴史でもある。派閥争い、異教徒の討伐、国家間戦争への補助及び、介入。聖導騎士とは銃士と同じく、負けを許されない者達なのだ。そして、リトラとは十年前に起きた『クリザリア防衛戦』にも参戦した、稀代の剣士である。そんな彼女がカノンと知り合ったのは、ほんの二、三週間前の出来事だった。


「詳しく話すのは構わないが、その前に場所を変えたい。構わないだろう?」



「……いいだろう。ところで、今日はあの御嬢様と一緒じゃないのかい?」

 リトラが赤銅の髪に手櫛を入れながら挑発的に言った。カノンは隣に立った彼女へ、ジト目を向ける。アディリシアは確かに強い。だが、彼女はあくまで軍人候補の〝学生〟だ。


「大人同士の汚い話に、子供のアイツを巻き込ませたくない」


「本人に言ったら、子供扱いするなって激怒するだろうねー」


 甘いのはきっと、カノンの方だ。それでも、彼女に余計な負担はかけさせたくなかった。男の身勝手で、馬鹿馬鹿しくて、それでも譲れなくて。彼が優しいのではない。戦火の中で、彼女を守り切れる自信がないのだ。弱いのは、彼の方だった。リトラは、小さく頷く。

 二人で階段を下りようとした時だ。二人の背中に、遠雷を思わせるように重く低い声がかけられた。


「やれやれ。某に内緒で動くとは、寂しいモノじゃのう」


 弾かれたように振り返ったカノンは驚愕のあまりに声が出せなかった。まるで、喉元に剣の切っ先を向けられたかのような威圧感に喉を押される。空気が、だんだんと重くなる。ただ、リトラだけは呆れたように口を〝への字〟にした。


「貴方が年甲斐もなく無茶をしないように配慮したまでですよ、アレイク司祭様?」


 廊下の向こう側から、こちらへとゆっくり歩み寄って来るのは、真っ白な絹の布地に金糸と銀糸をあしらった法衣と呼ばれる服を纏った小柄な老人だった。アレイク・デュークナー司祭は、フェルミ教会の最高責任者であり、元聖導騎士である。御歳八十を超える身体はすっかり衰えてしまったものの、纏う気迫は竜や鬼と同格だ。リトラの剣の師でもあり、現役時代の通り名は『風を纏う刃翼』だったとか。いつもは物静かな老人は、若者二人を交互に見比べて悔しそうに地団太を踏んだ。まるで、欲しい物を買ってもらえなくて親を困らせる子供のように。


「そうやって若者はすぐに私を老いぼれ扱いする。この杖はけっして足腰の弱さを誤魔化すものじゃないぞい。いいか、この杖は刃を仕込んだ特別製なのじゃ」


「もう。そうやってすぐに無茶をしようとする。貴方は大人しく紅茶でも飲んでて下さい」


 まるで、老人とその孫のような光景に、カノンは無性に微笑ましくなった。アレイク・デュークナー司祭とリトラ・トエンディ修道女の〝掛け合い〟は一つの風物詩でもある。

 リトラの説得に、アレイクは不承不承といった表情で渋々と頷いた。長く肥やした顎髭を大事そうに撫でて、片目を閉じる。残った右目の紺碧が真っ直ぐとカノンの左胸を差す。


「若き『魔導鍛冶師』よ。リトラを頼むぞ。こやつはちょいちょいと向う見ずな所があるからの。どうか、傍で支えて欲しい。なんなら、そのまま貰ってくれると嬉しいのお。リトラは某にとって娘のようなものじゃ。早く、孫の顔が見たくての」


 生涯、未婚を原則(表向き)とするのが修道女。だが、聖導騎士は結婚も子作りも許されている。何を想像したのか、リトラが顔を真っ赤にして剣の柄に手をかけた。


「その顎髭、ちょいっと剃ってあげましょうか。手元が狂って肉を数ミリット削いでも問題ありませんよね?」


 アレイクがグッと親指を突き立てて、そのまま器用に後退し、近くの部屋に逃げた。

 リトラは深々と嘆息し、カノンを八つ当たり気味に睨みつけたのだった。

「本気にするんじゃないよ」

「安心しろ。手前は俺の好みじゃない」

 瞬間、リトラの右足が霞みの世界に到達し、カノンの尻を勢い良く蹴飛ばしたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る