第二章  Ⅴ


               ○


 アディリシアは周囲を警戒しつつ、クロムウェルの元へ駆け寄った。膝を折り、友の背中を左手で支える。少女は友の柔らかい質感の銀髪に頬擦りする。愛おしい者をさらに愛でるように目を細めたのだった。


「クロムウェル。よく、戦いました。レビィも。後は、私にお任せなさいな。この一件、遅れたお詫びと言ってはなんですが。あれは、全て、私が片付けましょう」


 アディリシアがクロムウェルを床に寝かせ、ゆうらりと立ち上がる。その瞳は怒りの火を灯していた。友が懸命に戦っている姿を想うと、胸が痛む。まるで、錆びた釘を無理矢理、木の板へ打つように。どうして一緒になって戦えなかったのだろうか。二人の傷付いた姿に、思考が朱に染まる。銃士は冷静だった。それでも、激怒していた。まるで、激しく薪を燃やして蒸気を膨らませる蒸気機関が、複雑な部品を滑らかに動かすかのように。

 レビィが何か言いかけた時だ。アディリシアが拳銃を握った右腕を地面と水平の高さまで上げ、撃鉄へと霞んだ左手を走らせる。引き金が絞られたことで倒れた撃鉄を、左手の人差し指が起こし、再度発砲、さらに中指も触れて三度目の発砲。音は完全に同時だった。

 刹那の連射。三匹の氷製魔鷹『招来式・白羽曲ザイン・セルメダロ』が顕現する。アディリシアは、何もない空間を睨みつけていた。ちょうど、女の子の向こう側だった。


「そこに隠れているのは分かっています。とっとと、姿を見せなさい。……いえ、やはり結構ですわ。パトリシー・メイスンの歌にもこんな一節があります。『仲間を傷付けた野郎には容赦するな。爪を全部引っこ抜いて尻の穴に弾丸をブチ込め!』とね!!」


 アディリシアの傍で滞空していた『招来式・白羽曲ザイン・セルメダロ』が大きく翼を打ち、飛翔する。瞬く間に三十メルターの距離を食らい尽くし、何もないはずの空間を狙う。

 だが、魔鷹が不自然に止まった。まるで、目の前に見えない壁があるかのように。二度、三度と突撃し、だがそれ以上進めず、とうとう力尽きたかのように消滅してしまう。景色が歪んだ。ちょうど、涙で視界が滲んだように。アディリシアは涙を流していない。だから、それは確かに世界が、空間が歪んでいたのだ。少女は見た。何もないはずの空間から腕が伸びるのを、足が伸びるのを、胴体が浮かび上がるのを、頭が抜き出されるのを。

 まるで、景色をそっくり映した湖から浮上するように。その者は、まず、笑った。


「いやー、驚いたよ。よく分かったな。これでも気配を殺すのは自身があったんだけどね。それとも、私様の魅力を隠すには、世界は狭すぎるってことかなにゃー。にししし」


 耳に痛いほど残る、鈴の音のように甲高く冷たい声の女だった。歳は二十代後半から三十代前半だろうか。身長は約百七十センテ・メルター前後。髪は王国では珍しい漆黒。腰の中頃まで真っ直ぐに伸びている。まるで、闇夜の静寂さをそのまま溶かしたかのように。ならば、黄金の瞳は夜を照らす満月の光か。右目には黒革の眼帯を嵌めている。肌は共和国産の稀少な白雪花石セント・アラバルスのように真っ白だった。肌に、人間的な赤みがない。まるで、人間離れしたような美しさは同時に、人形が動いているかのような不気味さも際立たせていた。唇は淫靡な赤と桃色の中間。夢魔がごとき豊潤な色気を湛えていた。

 ただ、アディリシアは女の顔や唇よりも先に、服装そのものに釘付けだった。肌を露出するのは御法度な時代。なのに、女の服装はあまりにも際どいのだ。分類としては身体の輪郭を強調するような黒い衣服。だが、細波のように薄柔布フリルを沢山あしらった女用下衣スカート部分は膝よりも上であり、肉付きの良い太股を惜し気もなく外気に晒している。胸元も大きく開き、豊満な色気がきつそうに露出されていた。拘束衣も兼ねているのか。脚や腕に、蛇のように黒革が巻きついている。ご丁寧に、首には鋲付きの首輪が嵌められていた。

 成熟した女性としての妖艶さを煮詰めたような女だった。今の少女達ではとうてい辿り着けない領域だった。もっとも、アディリシアはこんな〝頭の悪い恥女〟になど、絶対になりたくない。高級娼館でさえ、こんな女はいないだろう。まさに、変態的な男達の変態的な想像を具現化したような、女だった。

「名乗りなさい、このド変態。アネラスの調合薬よりも効く鉛弾を差し上げましょう」

「にゃははは。それは勘弁してくれよ。私様はミーシャ。ミーシャ・ドランケ。栄えある世界救済連合『レージェ・バザリスタ』の十二席。今日は、ちょっとした挨拶に来たんだ」

 礼儀正しく一礼するミーシャへ、アディリシアは無言無表情のまま左手首の振り子動作だけで小型の短片刃ナイフを投擲する。狙いは首。素人なら、まず避けられない。だが、痴態の女は首を軽く曲げただけで簡単に避けてしまった。若干、驚いたように目を丸くする。

「人の話も聞かないうちに攻撃するのが、王国軍の候補生なのかなにゃー? 私様、ちょっと残念だぞ。大人は敬うものさ。君達はまだ子供なんだから、ねー?」

「……五月蠅いですわね、年増の糞婆。パトリシー・メイスンの歌にもこんな一節があります。『立場を弁えること。それこそが、争いをなくす方法の一つだ』ってね。賊を相手に、敬意など糞食らえ。言わないと分かりませんか? 今の私は激怒しているのです」

 アディリシアは敵を睨みつけながら、手元を見ないで、左手で拳銃『レイン』の操作棒を軽く折り、心棒をズラす。弾倉を外し、新しい物と交換。この間、わずかに数秒。ミーシャが楽しそうに口笛を吹いた。まるで、称賛でもするかのように。


「それが、例の自己完結型輪転式拳銃、ね……。いやー、凄い凄い。ってことは、君が、アディリシア・W・D・レミントンか。『再来を謳う十三柱の魔女グランド・ウィッチーズ』が第四席の『閃陣の痩躯・レミントン』。かの魔女達の中でも好戦的として知られ、戦場ではまず真っ先に先陣を切った。びっくりだねー。爽快だねー。君が、私様の、最初の獲物かー」


 ミーシャが口元に右手を当てた。だが、頬を引き裂かんばかりに浮かべた笑みは、到底、隠しきれるものではない。アディリシアは拳銃を銃用革鞘ホルスターに戻し、短く浅い呼吸を繰り返す。この女は危険だ。ただの人間が、ただの賊が、こんな下水道の底に溜まった汚泥のような醜悪で、劣悪な笑みを浮かべられるはずがない。


「戦うのは大いに賛成ですが、その前に、そこで気を失っている御嬢ちゃんを安全な場所まで運んでも構いませんよね? まさか、戦火に巻き込むつもりなのですか」


「うーん。まあ、いっか。君が本気を出せないと困るし。じゃあ、そっちの金髪巨乳ちゃんにでも運んで貰おうか。それにしても、学園の生徒って皆美人だねー。学園に採用される条件って、容姿とかも含まれているとか? だったら、私様は即採用だよね!」


 ミーシャの言葉に、アディリシアは床に唾を飛ばした。それは、露骨な嫌悪だった。


「笑って同教室戦友クラスメイトの背中を撃つような〝狡賢い顔〟をする貴女を、気品溢れる学園に入れるわけにはいきませんわ。レヴィ、そこの御嬢ちゃんとクロムウェルを連れて外へ逃げなさい。今なら、五年生の方々が戦っています。安全な場所まで二人を、よろしいですね」


 話しを振られたレビィは一瞬、苦い顔をするも、やれやれとばかりに後頭部を掻いた。


「どうやら、私はここらで一時退却ってところか。ちっ、しゃーねーなー。アディリシア。手前に一番美味しい所は譲ってやるよ。……手前とは、パトリシー・メイスンの前期と後期、どっちが良いかの決着がまだ着いてねえ。今日、酒持って手前の部屋に行くからな!」


 三年生で一番、血の気が多いのはアディリシアとレビィのどちらかだろう。そんな彼女からすれば、友を置いて戦場から離れるなど、恥辱の極みだろう。しかし、民間人と傷を負ったクロムウェルを無視してまで戦う程、彼女は冷酷な人間ではない。

 レビィ・D・J・ガーネットは、誰かの命を守るためなら、己が信念も曲げる女だ。金髪の戦友は気を失っている女の子を片手で抱きかかえ、そのまま空いた肩をクロムウェルに貸した。銀髪の親友で戦友は、申し訳なさそうに唇の端を歪めたのだった。


「アディリシア……僕は」


「謝ったら、絶交ですわよ」


 アディリシアは友に謝って欲しいから戦っているわけではない。クロムウェルは微苦笑を浮かべて固く目蓋を閉じた。


「負けるな」


 背中に残ったのは、その言葉だけだった。それで、十分だった。


「いやー、良いねー、友情は。戦場でこそ咲く花もあるってか。……けど、残念だねー。私様は強いよ? 存外に、盛大、過大に強い。軍人〝モドキ〟の君達が勝てる相手かなー」


 ミーシャの嘲弄に、アディリシアは拳銃『レイン』を銃用革鞘ホルスターに戻した。敵は『んー?』と首を傾げる。


「あらら~。もしかして、怖くなったから見逃してくれとか? うふふふ。駄目だよー。そういう情けをかけるほど、私様は甘い人間はないのです~。だから、早く戦っ――」


「――最高の一撃とは、何だと思いますか?」


 アディリシアの問い掛けに、ミーシャは嘲弄の笑みを浮かべたまま、再び首を傾げた。そして、大きく目を見開く。魔物の死体から溢れる熱気に包まれていたはずの室内が、徐々に冷たくなっていく。まるで、ここだけ冬の凍土が訪れたかのように。少女は今、鉄錆びの臭いを感じていない。絶え間なく聞こえる銃声を聞いていない。視界に映るのは、敵の姿だけ。まるで、身体が彫刻に変化してしまったかのように動かない。

 両足を肩幅まで開き、右腕も左腕もだらりと下げている。腰は、やや下がっている。それは、太股に巻きつけた銃用革鞘ホルスターから銃を抜くのに、適した体勢だった。


「最高の一撃とは、標的が反応出来ぬほど速く、回避出来ぬほど精確で、反撃出来ぬほど強い。速度、精度、火力。この全てが合わさった一撃こそが〝最高の一撃〟」


 ミーシャは何も言わない。いつの間にか、女は全身の筋肉を緊張させていた。まるで、目の前に巨大な化け物がいるかのように。一方で、アディリシアはあくまで自然体だ。身体に無駄な力が一切入っていない。極限の〝楽な空気〟を纏っている。それは、人間として異常だった。戦場で脱力する人間などいない。新兵だろうと、歴戦の軍人だろうと、自然と身体は緊張する。神経を過敏にし、どんな変化にも対応可能なようにする。それが、戦いだ。なのに、少女は違う。まるで、カノンが紅茶を淹れるのを待っているかのように緩やかだった。それでも確かに、ここは命の取り合いをする〝戦場〟なのだ。

「さあ、参りましょうか。――誰に喧嘩を売ったのか、教えて差し上げます」

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