三話

 番狂わせなんてものは、そうそう起きるものではない。

 そうそう起きないからこそ番狂わせなのであって、あんなにも盛り上がるものなのだ。

 大抵の試合はオッズどおりに進行する。

 大物喰いなど発生する訳もなく。

 ただただ漠然と整然と、弱者が強者に潰され、試合は終了する。

 矢霧燈花と雨夜維月の勝負も例外ではなく――。


 ドサリ、と音がした。

 それは散々たる光景だった。

 二人の周りに無事だった物は一つもなく、元の形を留めている物も一つもない。

 割れた地面。砕けた壁。ひしゃげた道路標識。炎を上げて燃える自動車。その全てにかかった返り血。

 この到底人が住もうとは思わない、不動産が見たら絶叫しそうな、地価大暴落の曰く付きの場所はたった五分の間に作られたものだ。

 この状況をつくりだした雨夜維月と矢霧燈花の二人とて、無事ではないという点では、例外ではない。


「はぁ、はぁ……」

 口の中が切れたらしく、口元から垂れている血を拭う矢霧の体には、殴られた痕が幾つもあり、鼻と片目が少し赤くなって腫れている。

 体からは疲労感というものが拭いきれておらず、一歩歩く事に体が疲労を訴え、苦痛で顔を少し歪める。


 そんな彼女の前に雨夜は倒れている。

 右腕はあらぬ方向に曲がり、ケガをしていない場所は一ヶ所もないんじゃないかってぐらいボロボロだ。

 彼は自分の出血によってつくりだされた血の池に、その身を倒していた。

 動く様子はない。

 動ける様にも見えない。


「はぁ、はぁ……ふん」

 漏れる息に上下する肩。

 調子を整えてから、矢霧は倒れている雨夜を見下す。


「ったく、無駄に足掻いて、おかげであいつを逃しちゃったじゃない」

 愚痴を吐き捨てながら、矢霧はその隣を通り過ぎようとして――足首を掴まれた。


「っ……! まだ!?」

「おおぉぉ!!」


 矢霧がその腕をふりほどこうと動くよりも先に、うつ伏せになっていた雨夜は、彼女を力任せに振り回す。

 矢霧の体は、近くにあった壁に強く体を叩きつけられる。

 叩きつけられた壁には元々ヒビがはいっていたからか、その衝撃で崩れ、矢霧は壁の先にあった部屋を転がった。


「っ! あんたいい加減に倒れなさいよ!!」

「僕が倒れたら、お前は小坂井を追いかけるだろ」


 口の中に溜まった血と砂利を吐きだして、矢霧は崩れた壁の先を睨んだ。

 その先には折れている右腕を庇うように立っている雨夜がいた。

 雨夜は首をゴキゴキと音を鳴らしながらまわす。


「じゃあ死んでも倒れない」

「この、ゾンビが!!」

 矢霧は空中にオレンジ色の軌跡ラインを四本描く。

 軌跡ラインは爆発して炎の矢を象り、雨夜めがけて飛んでいく。


「ガッ!!」

 拳を強く握りしめ、雨夜は両腕をさながらハンマーのように振り下ろして、床を殴った。

 まるでシーソーのように地面は跳ね上がり、炎の矢を阻む。

 それを足場にして、雨夜は跳躍し、そのまま矢霧に殴りかかる。

 更に殴られよろめく矢霧の頭を空中で掴むと、自分の膝にぶつけた。


「か……はっ!?」

 鼻血で空中にアーチを描きながら、ブリッチでもするかのように、矢霧は大きく仰け反る。


「ぶっ倒れろ!!」

「あ゛ぁ!!」


 とどめを刺さんと迫りくる雨夜に、矢霧は大きく体を仰け反らせたまま、体を捻り足刀を放つ。

 蹴りは雨夜の脇腹を正確に捉え、弾き飛ばす。

 雨夜の痩躯は簡単に、くの字に曲がる。

 しかしそこで、矢霧は追撃の手を緩めない。


 ――蹴飛ばして折り曲げたぐらいじゃあ、こいつの心は折れない。

 ――強いとか、弱いとか。

 ――倒すとか、殺すとか。

 ――そういう問題じゃない。

 ――そんなステージの話ではない。

 ――こいつは。

 ――死んでも倒れないなんてほざくこいつは。

 ――その存在ごと抹消しない限り、止まらない!


「『戦塵の知恵アハト・アハト』ーーッ!!」

 矢霧は腕を掲げ、考慮も遠慮も配慮も一切することなく、豪炎を地面に叩きつけた。

 その日その一瞬だけ、人工衛星は眩い光を確かに捉えた。

 それこそ、そこだけ大空襲でもあったのかと誤解するぐらいの光。

 さながら天を支える柱のようだった。

 一本の巨大な火柱――炎柱が天に向かって舞い上がる。

 その炎柱は、渦巻くように舞い上がり、空を覆う雲を吹き飛ばし空を裂く。

 近くにあるものはその熱気にやられ、ドロドロに溶けて焼けていく。

 空気に含まれていた水分は一瞬にして干乾びて、辺り一帯の液体は気化して果てた。


 そんな渦中に呑み込まれたものは、ほんの数瞬でも存在する事が許されるはずもなく、一瞬にして灰燼に帰し、この世から焼失して消失した。

 暴力的な音を辺りにばら撒きながら渦巻いていた炎柱は、次第に細くなっていき、終いに消えて無くなると、そこには何も残っていなかった。

 まるで初めから何も無かったかのように、ポッカリと、空白だけがそこにはあった。


「……これからどうよ」

 その中心、何もない空白に一人佇んでいた矢霧は、そんな風に独りごちた。

 しかしその表情は、余裕綽々といった感じには見えなかった。

 あの時、炎柱をつくるその直前までは、確かに雨夜はそこにいた。

 だからきっと、焼き尽くす事は出来たはずだ。

 勝つことは、出来たはずだ。

 それなのになぜだろう。

 まるで日本刀の白刃が、首の皮一枚隔てた先にあるような、そんな不安感が拭えないでいた。

 いや、どちらかと言うとゴキブリ駆除で霧状の薬を散布してみたけど、果たしてそれがきちんと効いているのか今一分からない。みたいな。

 そんな見えない不安が、矢霧を取り巻いていた。

 そしてその不安は事実となり、矢霧に襲いかかる。

 音をさせないようにその身を潜ませながら、矢霧の背後から一体の影が飛びだした。

 ボロボロに焼き焦げた服を着込んだ雨夜は、腹の底から雄叫びをあげながら、矢霧に襲いかかった。


「があああああああああああああああああああああああッ!!」

 白刃が首の皮を斬ったような悪寒。


「……っ!」

 それを感じ取った矢霧は、体を勢いよく旋回させて、その手の甲で雨夜を殴り飛ばした。

 裏拳バックハンドブローは、雨夜の体の真芯を捉え、彼の体を弾き飛ばす。

 その姿が見えたのは一瞬だった。

 次の瞬間には雨夜の姿はそこから消え、彼が通った道にあった障害物は全てその勢いに巻き込まれ破壊される。

 最後に地面に強く叩きつけられ、目玉が飛び出さんばかりに見開き、血反吐を吐く。


「あっ、がっ……」

 それでもふらふらと立ち上がる雨夜の元に矢霧は迫る。

 雨夜の懐にはいりこむと鳩尾めがけて、下から上に、拳を振り上げた。

 その拳の周りの空気は熱せられているのか歪んで見える。

 それを見た雨夜はそれを受け止めようとせず、半歩下がって体を少し背中側に反らした。


 アッパーカットは雨夜の鼻先を掠って大きく空振る。

 拳が通り過ぎた空間の空気が熱風となり雨夜の顔を襲い、鼻先からはジュッと音がして、肉が焼ける臭いが直に鼻腔にはいってくる。

 矢霧は大きく捻った体を止めて、返す刀で雨夜の顔面に手の甲を叩きつけようとする。

 彼女の手の甲が眼前に迫ると、雨夜は両腕を十字の形に組み、手首の辺りをその両腕で押し上げ、はねのけた。

 そして体ががら空きになった所を見計らい、雨夜は拳を握り込んで殴りかかろうとする。


「甘い!」

 矢霧ははねのけられた手で宙に軌跡(ライン)を描く。

 それは大量の炎の矢に姿を変え、矢霧が指を動かすと、それは一気に雨夜の頭上に降り注がれる。


「う、おおぉぉ!?」

 ギリギリでそれに気づいた雨夜は、亀のように頭を引っ込めて回避。

 体自体が引っ込んでいる雨夜目掛けて、矢霧は前蹴りを放つ。

 モロに喰らった雨夜の体は弾き飛ばされ、地面を転がった。


「今度こそ、どうよ……」

 矢霧はそんな風に、少し疲れた口調でボヤく。

 しかし雨夜は、そのまま気絶すればいいものを、それを拒絶するように声を荒げながら立ち上がった。


「……なん、なのよ」

 矢霧は思わず弱音を吐いてしまう。

 これで一体何回目だろう。

 いや、何十回目だろう。

 雨夜の体は既に立ち上がることさえ叶わないほどズタボロなのに、何度も立ち上がって歯向かってくる。

 矢霧燈花と雨夜維月。

 その力の差は、判然としていて、歴然としていて、一目瞭然だった。

 さながら、猫と鼠の試合を見せられるような、それほどまでの、火を見るよりも明らかな実力差がある。


 しかしこの鼠、ただの鼠と違って、倒れることを知らない。

 何度引っ掻いても、何度噛み付いても、何度撥ね退けても、何度体を壊そうと、どれだけ血を流そうと、その鼠は歯向かってくる。

 何度も歯向かってくるものだから、猫の体にも傷が増えていく。

 意味が分からなかったし、訳が分からなかった。

 鼠が何度も立ち上がることが出来るその原理も然ることながら、その精神力が分からなかった。


 決して痛くないはずもないのに。

 死ぬほど痛いはずなのに。

 鼠はどうして、まだ歯向かってこようとする。


「ふっ!」

 雨夜は息を吐いて、駆けだす。

 雨夜と矢霧の間は前蹴りによって吹き飛ばされたせいか、少し距離が空いたものの、そこまで開いている訳でもない。

 だから矢霧もすぐに行動に移った。


「『戦塵の知恵アハト・アハト』!!」

 空中にオレンジ色の軌跡ラインを描き、それが炎の剣を象ると、鋒を雨夜に向けた。

 その長さは一メートル半ほどで、雨夜がいる場所には到底届きそうもない長さだ。

 だから雨夜もそのまま走り続けていたのだが、それは唐突に爆発した。

 爆発したそれは、ぐん! とその刀身を伸ばし、雨夜の元へと迫る。


「うおあっ!?」

 さながらレイピアの一突きのような一撃が迫り、雨夜は声を漏らしながらも地面にしがみつくようにしゃがみこんで、炎の剣を一房の髪を抉られながらも躱す。

 そしてそのまま、炎の剣の下を掻い潜るようにして、矢霧のもとに迫る。


「潰れろおぉぉ!!」

 当然。

 そんな移動をすれば――まるで『その炎の剣で圧し潰してくれ』と言わんばかりの移動をすれば、矢霧も炎の剣で圧し潰そうとする。

 炎の矢だったり、火球だったり、炎の鞭だったり、新しい炎の剣を使って振るったり、床に炎を這わせたり、炎を操る能力なんてシンプルな能力なのだから、応用も色々利くはずなのに、彼女はそれを選択した。


 否、選択させられた。というべきか。

 矢霧の能力を幾度も、それこそ死ぬぐらい喰らいまくって、その多様性を重々理解していた雨夜が、それを選択するように仕向けたと言うべきか。

 事実、矢霧がそう仕向けられたことに気づいた時には、まるで来るのが分かっていたかのように、頭上から迫る炎の剣に見向きもせずに、雨夜はそれを躱していた。

 振り下ろされる炎の剣に合わせるように、その痩躯を翻して、躱した。


「っしゃあ!」

 体を回して躱した雨夜は、地に足をつけて再び駆けだす。


「こ、のおぉーーっ!!」

 雨夜の足元が一瞬、赤く光った。

 その直後、雨夜を囲うように一気に燃えあがった。

 先の炎の柱と違い、渦巻きながら天高く聳える事はしなかったが、代わりに、まるで意思があるかのように、その炎全てが、中心で口を腕で塞ぐようにしている雨夜を呑み込んだ。


「こ、これならどう……?」

 熱風を吹き荒らし、周りに火の粉を散らす、かまくらのような炎の渦を仰ぎながら、矢霧は思わず呟く。


「ああぁぁぁ!!」

 その直後。

 炎の渦の中から雨夜の雄叫びが聞こえたかと思うと、急に地面がめくれ上がり、炎の渦はそれに押され持ち上がったと思うとそのままかき消された。

 めくれ上がった壁を駆け上がって姿を現した雨夜の服は、もう布を肩の上にかけていると言った方が正しいんじゃないかってぐらいボロボロで、体は黒ススと火傷だらけになっている。

 二人の距離は、既にどちらの腕も伸ばせば届くぐらいに、縮まる。

 受け身を取って一回転。雨夜は拳を握りしめ、振りかぶる。


「くっ!」

 矢霧は咄嗟に炎の剣を象ると、それを雨夜に横殴りに叩きつける。

 果たして、雨夜の上半身を狙ったそれは、ギリギリで感づかれ、彼の体と炎の剣の合間に滑り込ませた右腕によって防がれた。


「あがッ!?」

 炎の剣は右腕に当たると爆発し、一瞬で雨夜の右腕から水分を奪い取り、真っ黒に焼き焦がす。

 その衝撃と風圧で、雨夜の痩躯はぐらり、と倒れかける。


「!!」

 声を荒げながら、雨夜は脚を前に出して踏みとどまると、倒れそうになっていた勢いを利用して、体が少し斜めになっている状態で、まだ無事な左腕を振るった。

 地面に拳を掠らせながらの、抉るような上げ突き。

 矢霧の顎あたりを狙ったそれをしかし、彼女は肘と膝で挟み込んで、力業で止めた。

 雨夜の腕からビキリ、と音がする。


「これで、今度こそ終わり?」

 ギチギチギチ。

 骨と骨がぶつかり、擦れあう音がする肘と膝に更に力を込めながら、矢霧は自由な腕に炎を纏わせ、それを雨夜にぶつけようとして。

 すっぽぬけた。


「え?」

 口から漏れたのは、そんな気の抜けた声。

 てっきり雨夜は、その抑えつけられた腕の拘束を力づくでこじ開けて、そのまま殴りかかってくるつもりなのだろうと、矢霧は思っていた。

 しかし実際、雨夜がとった行動はその逆。

 腕をその拘束から引っこ抜いた。

 まさかそう来るとは思ってなかった矢霧は、いとも簡単に引っこ抜かれて、少し前のめりになる。


「くっ!」

 矢霧が体勢を立て直して、顔を前に向けると、視界に雨夜の姿はなかった。

 まさか逃げたのか!? と矢霧は思ったが、しかし実際はそうではなかった。

 雨夜は引っこ抜いた勢いを利用して、上体を捻り、斜め下に――矢霧の視界の下に、体を沈めていた。


 そしてそのまま前転――転がるようにして、脚を振り上げて、回転の力が加わった踵を振り落とす。

 矢霧の視点から見ると、唐突に脚が現れ、その踵が振り落とされたようにしか見えなかっただろう。

 視界がぐりん、と一回転した。

 地面が、空が、街が、じゅんぐりに高速に視界に現れては消えていく。

 体を浮遊感と、風圧が襲う。

 頬に残る微かな痛みが自分がさっき見えた踵に蹴飛ばされて、吹っ飛んでいることを教えてくれた。


 矢霧の体は壁を幾つか破壊して止まるまで、何度も地面に激突する。

 最後に壁に強く背中を打ち付け、矢霧は肺の中にあった空気を全て吐きだす。


「やっとデカいのが当たった。ったく五、六発喰らって一発当たるとか、非生産的とかそういうレベルじゃねーな」


 背後にあった壁がガラガラと音を立てて倒壊する。

 喉が詰まったのか少しの間空気が吸えなくなり、視界は朦朧とする。

 朦朧とした視界の中で、雨夜は矢霧が突き抜けて破壊された壁の穴に足をのせて立っていた。


 ボロボロの体で、しかしどこか威風堂々とした姿で、立っていた。

 体中には大小様々の傷。痣。裂傷。火傷。

 血もとめどなく流れ続ける。

 両腕をだらりと垂らして、肩は大きく上下に動いて、息も荒い。

 一瞬目を逸らしたら、次の瞬間には倒れていそうな、野生なら、もう戦う必要なんてない。と判断して眠ってしまいそうなぐらいボロボロで。


 まあつまり。

 簡単に言えば瀕死の状態だ。

 きっと彼の視界は、矢霧のその朦朧とした視界よりも酷く歪で、恐ろしく混濁としていて、スノーノイズのように、白い点が多数ランダムにポツポツと現れているだろう。

 少なくとも、立っていられる状態ではないはずだ。

 動ける状態でもないはずだ。

 それなのに、彼は動いている。立とうとしている。


 その欠陥能力、自身を操る能力『人形師ハウンドプライズ』で無理矢理動いている。

 一人の女の子の為に。

 頼ってくれる女の子の為に。

 それはさながら『ヒーロー』のようで――。


「なんなのよ、あんたは!!」

 力の限り地面を踏みつけ、矢霧は怒鳴った。

 さながら、今まで溜め込んでいた鬱憤をすべて吐き散らすように。


「腕が折れてるんだぞ! 体は焼けてんだぞ! どれだけ血を流せば気が済んだよ! あんたの中にどれだけの血があるかなんて知らないけど、いい加減倒れろよっ!!」

「倒れるかよ」


 雨夜は心底だるそうな口調で言う。

 いや、実際だるいのだろう。

 それだけの血を流しているんだ。もう、立っているのが精一杯のはずだ。

 ならばどうして倒れない。倒れようと思わない。

 楽になろうと思わない。


 ――どうしてって。

 ――決まってる。こいつは絶対、こう言う。


「頼ってくれた奴を助けるまでは、倒れねえよ」


 ――ほら言った。

 なんだ。

 なんなんだこいつは。

 自分は確か、正義の味方として戦っていたはずだ。

 それなのにどうして、自分が悪役みたいになっているんだ。

 確かに矢霧は好きで『ヒーロー』なんてしている訳じゃない。

 社会に迎合するために、親の敵を探すために、詰まるところ『自分のため』にしている。

 なんなら、自分を頼ってやってくる奴に『お前が頑張れよ』とか思っているぐらいだ。


 とはいえだ。

 だからといって、悪役のレッテルが貼られて、なにも思わないわけがない。

 悪は、悪役ヴィランは、こいつらのはずなのに。


「なんであんたはそこまでやろうとすんだよ! なんであいつの事を守ろうとするんだよ! あんな見ず知らずの他人の為に、死ぬまで動こうとするの!?」


 お父さんとお母さんを消したあいつ。

 それをその身を呈してまで庇おうとする『ヒーロー気取り』なこいつ。

 どちらも腹がたつ。どちらもムカつく。

 しかし今、この現時点だけを切り取って見れば、今ムカつくのはこいつだった。

 どうしてそこまでやっきになって庇うのか。

 なんだか自分が悪者扱いされているみたいで、矢霧の腸はグツグツと煮えくりかえっていた。


「なんだよ、なにかおかしいか?」

 露骨に顔をしかめる矢霧に、雨夜は当たり前のことを言うように――実際、当たり前のことを言う。


「頼ってくれる人がいるんだ。その人の為に頑張りたくなるのは、当然だろ」

「……それがもしも、人殺しだったとしても?」

「それがもしも、魔王だったとしても」


 僕はきっと助ける。

 石を投げつける側じゃなくて、その石を止める側に、僕はなりたい。

 雨夜はそう答えた。


「……じゃあなに?」

 矢霧は絞り出すように言う。


「あんたは私に、お父さんとお母さんの復讐を諦めろって言う訳?」

「そんな事言わねえよ」

 雨夜は淡々と応える。


「ただ、小坂井を狙うのなら僕はお前の事を邪魔し続けるって言っただけ」

「もういい!!」


 矢霧は叫んだ。

 負け犬のように吼えた。


「あんたらは失敗作だ! 出来損ないだ! 害悪だ! 悪役ヴィランだ!! だから倒す!!」

「そっか、じゃあ僕は僕の……じゃなくて、頼ってくれたあいつの為にお前を倒す!!」


 自分のために動くヒーロー失格は炎の剣を構え、他人のために動こうと頑張るヒーロー未満は駆けだした。

 初めて向かい合った時と同じぐらいの、いやそれ以上の速度で、雨夜は駆けだす。


 今までの中で一番の加速。

 体から流れ出る血が空中で舞い、地面に雨夜の足跡を残す。

 その体の状態から見て、これが彼の最後の攻撃だろう。

 対して矢霧は走りだしたりせず、一歩も動くことなく、迫る雨夜に対し、至って冷静に炎の剣を構える。

 先手必勝とは言うけれど、矢霧は焦って先手を取ろうとしなかった。

 どれだけ攻撃しようとも――それこそ腕一つ斬り落とそうとも、この男は立ち止まらない。

 むしろチャンスだと言わんばかりに、そのまま突っ込んできそうだ。

 さすがにそこまでの事はないと矢霧は思いたい。

 けれど実際彼には、そんな事をしてきそうな、そんな迫力があった。


 だから余計な攻撃はしない。

 一撃で仕留める。


 今構えている炎の剣に、全神経を集中させる。

 炎はまるで太陽の表面のように紅炎が吹き荒れ、辺りの空気を熱する。

 彼女の周りにあった物は、ドロドロに溶けていく。

 二人の間にあった距離は、雨夜が一歩進む度にぐんぐん縮まり、あと一歩進めば二人はぶつかるほどの距離にまで迫る。

 矢霧は炎の剣を、雨夜が拳を握りしめている方から斬りかかれるように振り上げ――。


「あまや――っ!!」


 そんな、甲高い声を、聞いたような気がした。

 誰かに頭を触られたような気も、した。


***


「え、あれ……?」

 矢霧はそんな、混乱しているのが滲みでている声を、漏らした。

 矢霧の視界内では、今正に雨夜が走り出していたはずだった。

 なんかカッコつけた台詞を吐いてから、雨夜は駆け出していたはずだった。

 そう、はずだった。

 そこから走り出して自分の懐まで迫ってくるまで、雨夜のスピードを鑑みても、後一、二秒はかかるだろうと思っていた。

 しかし今はどうしてか、もう眼前にまで迫っていた。

 駆けだしたその直後に、懐にまで迫っていた。

 まるで『移動』という過程を排除したような瞬間移動。


 おかしい。

 おかしい。

 ぐるぐると、矢霧の思考回路は空回りを繰り返す。

 確かに雨夜維月の移動速度は速い。

 それは初めて出会した時、ぶちかましをされた時から、重々理解していたつもりだった。

 それでもまだ、目で追えないほどではなかった事も、理解していた。

 超能力者の強化された肉体なら捉えきれないわけではない。それぐらいの速度だった。

 なのに、それを目で追えなかった。

 さながら瞬間移動のような、高速移動。

 まるで二枚の写真を交互に見せられたような。

 走っている間の映像を切り取ったものを見せられているような……。


「あ」

 そこで矢霧は気づいた。

 肩越しに後ろを覗き見る。

 崩れた壁の先に、誰かがいた。

 最初に目に入ったのは、透き通るような、綺麗な青髪。

 次に入ったのは、長い前髪の奥に見える怯えた目。

 見覚えのある顔だった。ありすぎる顔だった。

 嫌いで憎くて恨めしい顔。

 小坂井せつなが、どうしてかそこにいた。

 瞬間。

 彼女は理解する。

 自分は記憶を巻き戻されたのだと。


 小坂井せつなの欠陥能力『深想記憶メモリー』は、記憶を巻き戻す能力だ。

 それを利用して、彼女は雨夜の怪我をもどしたりしていたのだが、その能力の本来の使い方は、そのまま、記憶を巻き戻す事。

 彼女は確かに二人の激闘の騒ぎに乗じて逃げていた。

 それは矢霧自身も、その能力を存分に活用して理解していた。

 だから雨夜を焼き尽くした後、すぐに追いかけようと思っていた。

 しかし予想外に雨夜がしがみついてくるものだから、きっとかなり遠くにまで逃げているのではないかと、矢霧は仮定していた。


 それこそ、他にもいた協力者の元にでも逃げたのではないかと、そう思っていた。

 しかし、それは間違いだった。

 小坂井は案外、二人の近くにいた。

 それこそ、胴廻し回転蹴りを喰らって、矢霧がぶっ飛んだのを目撃出来るぐらい近くに――。


 そうして小坂井は、雨夜に対して激昂している矢霧の背後に回った。

 どうしてそんな危険な行動を取ったのかは、本人も分からない。

 ただ、このままだと雨夜が負けてしまう。殺されてしまう。

 そう思うと、足が勝手に動いていた。

 雨夜維月の言葉を借りるなら。

『自分のために頑張ってくれる人の為なら、頑張れる』

 という奴だ。

 そして矢霧の背後に近寄ると、『記憶』を雨夜が駆け出す所まで戻したのだ。

 だから記憶を戻された矢霧からすると、雨夜はまだ駆け出したばかりなのだが、実際の雨夜はもう目の前にまで迫っている。

 結果、まるで雨夜が瞬間移動したかのように、矢霧には見えたのだった。


「こっ……!!」

 それに気づいた矢霧の表情が、憤怒によりどんどんと険しくなっていく。

 犬歯むき出しに充血した目を見開き、まるで獣のような形相で、小坂井を睨む。


「『戦塵の知恵アハト・アハト』オオォォォォォォ!!」

 炎の剣が、矢霧の咆哮に呼応するように、爆発する。

 爆発して、更に高熱を帯びた炎の剣を振り上げ、振り返りながらそれを振り下ろさんとする。


 果たして――炎の剣は振り下ろされることは無かった。

 振り下ろすその直前に、背後から頂肘を喰らったからだ。

 腰をどっしりと落として、一気に踏み込み、ピンと伸びた背骨に向けて、全体重を載せた肘をぶつける。

 分かっていれば避けることも出来ただろう、耐えることも出来ただろう。

 しかし、憤怒のあまり、小坂井の姿しか見えていなかった矢霧は耐える事も出来ず、口から血を吐き、膝から崩れ落ちるように、彼女の体は倒れかける。


「あ――」

 しかし矢霧は倒れない。

 崩れ落ちそうになっている体を持ち上げ、振り返って、見る。

 さながらゾンビのように這いあがり。

 さながら盾のようにその身をなげうつ。

 さながら『ヒーロー』のような怨敵を、睨む。


「あまやあぁぁぁ!!」

 血を吐きながら、矢霧は吼える。

 炎の剣を、横殴りに叩きつけようとする。

 しかしそれよりも先に。それよりも速く。

 雨夜の拳が、矢霧の顔面に突き刺さる。


「がっ――!?」

 殴られた矢霧の頭が、後ろに揺らぐ。

 しかしその程度では、彼女は倒れない。

 矢霧は仰け反っていた体を腹筋の力で持ち上げて――見た。

 それを待っていたと言わんばかりに、異常に大きなテイクバックをとって、待ち構えていた雨夜を見た。


「ハウンド……」

 溜めに溜めた、最後の力。

 火事場の馬鹿力。

 それを一気に、解き放つ。


「プライズ――ッッッ!!」

 異常に大きなテイクバックから放たれる拳骨が、矢霧の顔面を確かに捉えた。

 なんというか、なんていうか。

 歪で原始的な音がして、矢霧の体は地面に叩きつけられ、構えていた炎の剣は風に吹き消された。


 火炎使い対人形遣い。

 ヒーロー失格対ヒーロー未満。

 最終戦。

 結果は、人形遣いの勝ち。

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