第33話 一時の撤退

 翌日のダイブは早朝から始まり、補助タンクをガイドロープに吊り下げながら海底を目指した。


 海底に着いた矢倉とルイスは、左舷と右舷に分かれて船体の側面を目視し、ミゲルとエヴァはレーザー測距器を使って、船体各部の寸法を記録していった。

「こちらには侵入口は見当たりません」

 ルイスから水中無線の声がした。

「こちらも同じだ――」

 矢倉は答えた。


 無傷の潜水艦は平らな海底を選び、完全に正立した状態で着底していた。

 艦体にまとわりつく藻や貝殻がなければ、それが70年以上も昔のものとは、誰も思わないだろう。

 外観だけではない。その潜水艦は今すぐにでも離底して活動し始めそうな、緊迫感のようなものを、まとっていた。


――まるでこの潜水艦は、自らの意志でここに止まっているようだ―― 

 不意に矢倉の心には、いつか覚えた胸騒ぎの感触が蘇ってきた。


――このざわついた感触は、いったい何だ?――

――いつか感じたこの感触――

――これは――

――そうだ、あの時の―― 


 それは小笠原で甲標的を見た時の、目の前に短刀の切先を突きつけられたような思いに似ていた。しかし矢倉が今感じているそれは、甲標的よりも数段強い力で矢倉の胸に迫っていた。甲標的が抜き身の短刀だったとすれば、目の前の潜水艦は、まるで握り部分が無い刃物だ。


 矢倉が感じているのは、もしもそこに触れば手が血にまみれになるような、不吉な予感と言っても良かった。頭を振ってそれを振り切ろうとしても、それはこびりついたように矢倉の脳裏に居座り、陰鬱な思いは増す一方だった。

「一旦浮上してから、対策を検討した方が良さそうですね」

 ルイスの声が、矢倉の思考を遮った。タイマーを見ると、もう滞在予定時間の20分になろうとしていた。


 船に戻った4人は、ミゲル達が撮影したビデオ映像を何度も見返した。

「やはりどこからも侵入できませんね。普通沈没船というのは、長年海中にあれば金属が腐食して穴が空いてしまうものですが、この艦は劣化箇所が見当たりません」ルイスが言った。

「海に潜るのが前提の艦なので、恐らく耐食性の高い高張力鋼が使われているでしょう。表面を覆っているゴム状のコーティングも、防錆に貢献しているのかもしれません」

 ミゲルがそれに応じた。

「開口部が無いのなら、侵入する穴を空けなければなりませんね」

 エヴァも自分の意見を言った。


「まずは正攻法で、ハッチを開けられるかどうか確認しよう。船首側に2カ所と、司令塔に1ヶ所。船尾側に1ヶ所。どのハッチも固着していて簡単には動かない。ヒンジ部分と爪の部分を焼き切って開くようなら、それで良し。駄目ならハッチ全体を溶断するしかないな」 

 矢倉が3人の意見をまとめた。


 午後のダイブでは、4人それぞれがハッチの確認のために散って行った。矢倉は船尾側のハッチに向かった。

 まず矢倉は、ハッチ周辺をハンマーで叩いて音を確認した。反響具合から判断して、ハッチの厚みは3㎝程。どこを叩いてもその音は鈍く均一で、固着の度合いは相当強いものと思われた。当然内部にある爪の位置も判別できない。


「そっちはどうだ?」

 矢倉が、水中無線で3人に声を掛けると、口々に「こちらは難しそうです」という返事が戻ってきた。


 念のために矢倉は他の箇所も、一通り目視することにした。まず矢倉は司令塔に移動した。そこはあまりにも狭いスペースで、ハッチが開けられるかどうかを検討する以前に、作業自体を行うのが困難と思われた。

 矢倉は更に移動し、船首側のハッチ2つを確認した。それらは船尾側のものと較べて明らかに重厚で、外縁部は特殊な構造を持ち、恐らく油圧で開閉をしていたのではないかと思われた。


――やはり開けるのであれば、船尾側しかないだろう―― 

 矢倉は思った。船尾側ハッチは直径が60㎝ほどだったので、外周は2m程度だ。1分で5㎝焼き切るとして40分で作業は終わる。2回のダイブで何とかなりそうだ。

 明日1日でハッチを開けて、その翌日から艦内の探索か?


――しかし―― 

 と、矢倉の思考は、そこで立ち止った。


――本当に開けるのか? 開けた後はどうする?――

 急に自信を無くしたという訳でもないが、いざ今がその時だと思えば思う程、潜水艦が放つ、あの何ものとも知れぬ強い意志の力が、自分を圧迫した。

 そして矢倉の心はやがて、朝のダイブで感じたあの陰鬱な思いに満たされた。


 ベッティーナ号に戻った矢倉は、3人と離れて、冷たい風の吹きぬける甲板に立った。雲一つない冬の星空は、まるで零れ落ちてきそうなほど鮮明だった。

 あの潜水艦の乗組員たちは、このポルトガルの空を見上げることはあったのだろうかと矢倉は思った。

 恐らくは皆、満天の星空が頭上にあることさえ知らず、あの暗い海の中を、何かの目的のために突き進んだに違いない。


 しばらく思案をした後、矢倉は船室に戻ってルイスに声を掛けた。

「ルイス、ちょっと相談があるんだが……」

「どうしました?」

「急な話で申し訳ないが、今回の調査は、一旦ここで区切りを付けようと思う」

「まだ調査は2日目、始まったばかりじゃないですか。艦内にも入っていませんよ。良いんですか?」

「あの艦には、万全の準備をしてからでないと入ってはいけない気がしてきた」


「どういう事ですか?」

「艦全体から、強い意志のようなものを感じるんだ。今みたいに、20分ごとに浮上していては太刀打ちできない何かが、あの艦には有る」

「確かに僕も、一筋縄ではいかないと実感しています。でも、それではどうすると?」

「飽和潜水の体制を整えてから、もう一度挑戦する」

「飽和潜水――、ですか……」


「経験はあるか?」

「もちろんありますが、大変な費用がかかりますよ。個人で負担するには大きすぎます」

「何とかするよ。そのためにも一度日本に帰る。自分にとってベストな方法であの潜水艦に挑みたいんだ。必ず今年中にポルトガルに戻ってくるから、その時には君にぜひ協力してほしい」

「もちろんですよ。他の仕事が入っていても、キャンセルして駆けつけます」

「ありがとう、ルイス。明朝もう一度だけ潜ろう。そこで次の調査の準備を済ませておくことにする」


 最後のダイブに矢倉は、ガス溶断器を持って潜った。

 ルイスの補助で船尾側のハッチに取りつくと、矢倉は手際よく溶断器の酸素量を調整した。

 先端のトーチからは、細長く青い炎が伸びた。矢倉はハッチをハンマーで叩いて音を確認すると、最も厚みが薄そうな、上部の盛り上がり部分のすぐ脇にその炎を当てた。


 やがてそこには直径3㎝ほどの穴が空いた。矢倉はそこにファイバースコープを差し込み、ハッチの内側から、ぐるりと外縁に添うように撮影を行った。

 艦の奥にもレンズを向けてみたが、レンズ脇に付いた小型ライト程度では光量が足りず、何も確認することができなかった。


 ミゲルとエヴァは、潜水艦の周囲に配置していた補助タンクを回収し、1本のロープで結わえた。最後にルイスが、船に繋いでいたガイドロープを外した。


 4人は最後のダイブを終えて、海面に向かって浮上していった。



――2018年2月8日、13時00分、リスボン――


 リスボン港でベッティーナ号を降りた矢倉は、そこでフェリペやルイスたちと、一時の別れの挨拶を交わした。

 ホテルに戻る車の中で、助手席に座ったテレサは、「素晴らしい経験をしました、有難うございます」と矢倉に声を掛けた。

「今年中に、ここに戻ってくるので、その時は君もまた協力してくれ」

 矢倉は答えた。

「そうですね――、ぜひそうしたいのですが、これからポルトガルは大変な事になるかもしれません。私はもしかすると他の国――、多分フランス辺りに働きに行かなければならないのではと思っています」


「どうしたんだ? 何があったんだ?」

 テレサによると、矢倉たちが海底に潜っている間にIMFが、世界規模で新しい金融秩序を創るため、“管理金準備制度” を導入すると発表したのだそうだ。

 管理金準備制度とは初耳だと矢倉が言うと、テレサも聞いたことが無いと答えた。詳しい内容については、1か月後の3月12日に国連本部で会見が行われるという事だった。


 車が信号待ちをしている時、テレサは新聞の売店を指さして、「あの新聞のトップ記事の文面に何が書いてあると思います?」と訊いた。

「ポルトガル語だな、何て書いてあるんだ?」

「『ポルトゲルへの死刑宣告、1か月後に迫る』です」

 テレサは、ため息をついた。


 ホテルに戻って英字新聞を開いてみると、『死刑宣告』ほどではないにせよ、緊迫感の漂うヘッドラインが次々に目に入った。


『ギリシャ、ポルトガル、スペインに厳しい裁断か』

『イタリア、アイルランドのXデーは』

『PIIGSの火種がヨーロッパ全土を覆う』

『遅きに失す、IMFに厳しい批判の声』

……


 経済記事が躍る中で、社会面には小さな囲み記事が掲載されていた。

『アメリカ、NATOに貸与していたパトリオットミサイルを引き上げ』


 矢倉は海の底で、あの潜水艦と対峙した時と同じような、ざわついた感触を覚えながら、翌日の東京行の航空便を予約した。



――第九章、終わり――

――『帝国への海図』Ⅰ ~レックダイビング~、終わり――

――『帝国への海図』Ⅱ ~飽和潜水~、に続く――

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