第32話 未知の潜水艦

――2018年2月5日、6時00分、リスボン港――


 この日は朝から冷たい雨が降っていたが、幸い海は荒れてはおらず、フェリペの判断で船を出した。午後には天気は回復し、しばらく天気は安定するはずだとフェリペは言った。

 目的のポイントに着くまで、矢倉はルイス、ミゲル、エヴァと色々な話をした。少しでもチームの結束を強めたいという意図があった。3人ともフェリペの亡くなった奥さん、ベッティーナを良く知っているそうだ。特にエヴァは、実の子供のように可愛がってもらったと言って、懐かしそうにそのベッティーナを思い出していた。


 フェリペの左半身に麻痺があるのは、減圧症が原因なのだとルイスは言った。荒波で転覆した漁船の救助を要請されたポルトガル軍が、エースダイバーだったフェリペのチームを出動させた際の事故だったそうだ。

 漁船に乗っていた漁師は全員が助かったが、5人のチームの内、フェリペと部下の一人が酷い減圧症に罹った。フェリペは事故原因を多くは語らなかったらしいが、錯乱した漁師が部下のタンクを奪おうとして海中でもみ合いになり、それを救おうとしたフェリペが、自らも巻き込まれてしまったらしかった。


 ルイスによると、フェリペは自分が子供の頃から、ダイビングを教えてくれた恩人で、今の自分の技術は全てフェリペが教えてくれたものだと言った。そして自分もそれをミゲルとエヴァに教えやるのだと言った。


「着いたぞ」

 フェリペの声に、ルイスとミゲルはすぐに反応した。

 操舵室のソナーを一瞥し、海底の様子を頭に入れると、すぐにロープで水温計と水流計を海中に下ろした。エヴァはその計測データを素早くメモした。

「問題ないな?」

 ルイスの問いかけに、ミゲルは大きく頷いた。


「よし、行こう」

 矢倉の掛け声で、4人ともドライスーツを着こみ、タンクを背負った。背中のダブルタンクに加え、脇腹には補助タンクをサイドマウントする。

「最初のダイブは、目視による目標の状況確認とガイドロープの連結が主目的。あとは全体像の把握のみに止める。ガイドロープは俺とルイスで受け持つので、ミゲルとエヴァは撮影を担当してくれ」

 矢倉の言葉に、ルイスはにやりと笑った。自分も同じ考えだと言う意思表示だった。


「潜水時間はどれくらい大丈夫だ?」

 矢倉がルイスに意見を求めると、「今回は15分にしておきましょう」とルイスが答えた。本来ならば20分は大丈夫なのだが、初回の潜水では船と海底と中間地点に、まだ予備タンクを配置できていないので、安全を見て短めに設定したいとルイスは言った。矢倉も同感だった。


「浮上時は54mと42mで、3分間ずつのディープストップを行う。30mからは補助タンクのエアーに切り替えるのを忘れるな。6mで20分の減圧停止」

 ルイスはまるで最後の念押しだとでも言うように、皆に浮上の手順を伝えた。

 4人はサイドラダーから海に入り、全員で水中無線の通話を確認した後、矢倉の合図で潜水を始めた。矢倉とルイスは魚雷型の水中スクーターを使い、ミゲルとエヴァは撮影で両手が自由にできるよう、サドル型のタイプを選んだ。


 海面付近は透明度が高く30m以上はあるだろう。海面からの光は比較的通っているが、海底までは見渡すことはできない。

 深度30mを過ぎたあたりで、ぼんやりと海底面が見え始めたが、同時に海上からの光は急に力を失い、周囲は夕暮れ時のような明るさになった。深度50mになると、周囲はますます暗くなっていた。


「この下に、待ち望んだものはあるのだろうか?」

 矢倉の心の中には、期待と共に不安がよぎり始めた。


 深度が60mを迎えると、黄昏時のような明るさとなり、フルフェイスマスクに取りつけられた4つのライトからは、真っ直ぐに光の筋が伸びるのが見えた。


 不意にその物体は、矢倉の目の前に現れた。


 それは海底面から不自然に立ち上がっている細長い隆起物だった。黒いその塊りはベニートが特定した通りの場所にあり、南西方向に向かって横たわっていた。

 矢倉は水中スクーターのハンドルから片手を離して、腰のベルトからハンドライトを取って、その物体を照らした。ルイスたち3人も同じようにしていた。

 4本のライトの光が物体に添うように前後した。その物体は長さが100mを越え、幅は12m程。

 中央には突起部があり、その姿は誰もが知っている潜水艦そのものだった。


 見つけたと矢倉が思ったその時、水中無線からはルイスの「やったぞ」という声が聞こえてきた。

 矢倉とルイスは、一番目立つ突起部に向かって更に潜った。ミゲルとエヴァは、スチルカメラとビデオカメラを取り出して、物体を周回するように撮影を始めた。


 矢倉が目指した先にあったのは、潜水艦の司令塔のようだったが、一般的に知られるそれとは違って随分と小さかった。突起部は2段に立ち上がっており、上段には潜望鏡と思われる2本の筒が上方に伸びていた。

 下段には人が2人立つのがやっとのスペースがあった。ルイスはその狭いスペースの内側に金属の取っ手を見つけ、そこにガイドロープの端を繋いだ。これでベッティーナ号からの潜水ルートが確保できたことになる。


 潜水艦の表面に触ってみると劣化したゴムのような質感で、強めに押してみると一角がぼろりと塊になって崩れ、その下に鋼板の表面が現れた。この艦はどうやら、全体がそのゴム状素材でコーティングされているようだ。

 周囲を見渡すと所々に自然剥離が起きて鋼板面が露出していた。矢倉はベニートのマルチビーム測距器での探査結果を思い出した。恐らくこのゴム素材には音波を吸収するか、乱反射させる働きがあるのだろう。だからあたかもここには何も無いかのように観測されたのだ。

 点々と音波を反射していたのは、露出した鋼板と、コーティングの外に張り付いた貝殻だったに違いない。


 司令塔の前後に延びている本体は、両方とも同じように先が窄まっており、どちらが艦首側かは分からなかった。矢倉は一方を指さして、「俺はこっちに行ってみる」とルイスに伝えた。ルイスは逆方向を指して、「それでは僕は、反対側に」と言った。


 矢倉が向かった側には、突起物というべきものがほとんど無かった。唯一あったものは、中央部分に何かを固定していたと思われる4か所の爪と、その中央にあるハッチだった。

 全体的に滑らかな形状の本体と較べ、その部分だけは取って付けたような不釣り合いな印象で、ハッチ周辺の不均一な溶接の跡も、その印象を強めた。ハッチのハンドルを回してみたが、当然ながら酸化によって固着しており、びくともしなかった。


 ハッチの前後には、縦横方向に幾本かの深い筋が確認できた。その筋は良く見ると斜めに切りこまれており、恐らくそこは、艦に貨物を積むための開口部だろうと思われた。

 更に後方に進んだところで、本体は急に細くなって終端をむかえていた。矢倉がその下方に潜りこんでみると、半分ほど海底の土砂に埋もれながら、スクリューの上部が見えた。矢倉の向かったのは船尾方向だったようだ。潜水艦につきものの魚雷発射口は、そこには無かった。


 ピピというタイマーの音が聞こえた。予定していた潜水時間が終わった合図だった。

「浮上しよう」という矢倉の声に、3人ともが「了解」という返事を返してきた。

 4人は海面に向かって伸びているガイドロープ周辺に一旦集まり、それからゆっくりと浮上していった。


 時間的な制約から、この日は1ダイブしかできないため、船上に上がった4人はすぐにドライスーツを脱いだ。

 水深70mへのダイブは、僅か20分ほどの滞在でも、浮上には1時間以上を掛けなければならない。減圧症を回避するには避けられない時間だ。

 そして次のダイブまでの間に、体に蓄積した不活性ガスを抜くため、2時間以上の休憩が必要だ。深海と海面の往復は1日に2回が限界の、時間効率の極めて悪い旅なのだ。


 しばらく休憩を取った後、4人はダイビング用具の洗浄と整備を行った。その後ルイスたち3人は、使用したタンクにトライミックスの再充填を始めた。矢倉はその間に、ミゲルとエヴァが撮影した画像とビデオ映像を、慎重に確認していった。


 一通りの作業を終えた頃には日が暮れていた。夕食を終えてから、矢倉は皆を集めてミーティングを行った。

「今日海底で見たのは、潜水艦で間違いないな」

「ええ、長年レックダイビングをやっていますが、潜水艦を見つけたのは初めてですよ。興奮しましたね」ルイスが言った。

「見たことの無いタイプでした。あれは日本のものなのですか?」

 続けてミゲルが訊いた。


 ミゲルの言う通り、それは皆が初めて見る形だった。一番の特徴は船首の形状だ。現在主流のティアドロップ型でもなく、第二次大戦時に主流だった、へさきの上部が尖った船のようなタイプでもない。

 その艦のへさきは上から下まで、ほぼ垂直で、横から見ると前部は長方形のシルエットであった。司令塔も不自然なほど小さく、そして薄かった。


「俺はここに沈んでいるものが何かを確かめるために来たんだ。日本のものかどうかも、これからはっきりさせるさ。船内に入る事が出来れば、色々と情報が得られるだろう」

「入れそうですか?」

「まだ分からないな。今日は船尾側を目視してきたが、後方には開口部は無かった」

「船首側は僕が確認しました。甲板には2つハッチがありましが固着していて開閉は不可能。破損した開口部は皆無で、魚雷発射口も見当たりませんでした」


「撮影していて不思議だったのですが」

 ミゲルが話に加わった。「この潜水艦には全く外部からの攻撃の痕跡は見当たりませんね。機雷や魚雷で撃沈されたとは思えません」

 ミゲルの疑問は、皆が感じていた事だった。


「明日の作業だが」

 矢倉の声に、皆が矢倉の方を向いた。「俺とルイスは、船の左舷部、右舷部で、船内に侵入可能な箇所を当ってみることにしよう。ミゲルとエヴァには引き続き撮影をしてもらいながら、各部の測量を行ってもらいたい」


「了解」

  ミゲルとエヴァも頷いた。

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