優しき闇に抱かれて

上倉ゆうた

優しき闇に抱かれて

 やーい、やーい、ぶすおんな~――。おい、ぶすおんながそっちへ逃げたぞ――。

 背後から迫る、いじめっ子達の声に、私は必死で小学校の校舎を逃げ回る。早く、早く、どこかへ隠れなきゃ。しかし、どの教室も、いや、ロッカーでさえ、堅く扉を閉ざして、私をこばむ。ああ、私を受けれてくれる場所なんて、どこにもないのか。

 ついには、スコップ片手に校庭の土を掘り返し始める私。穴に身を隠そうとでも言うのか。まるでモグラだ。

 そう、モグラだ。私はモグラに生まれたかった。一生を土の下で過ごすモグラに。そうすれば、こんな風に人目に怯える必要もなかったのに。

 ――ちゃん――マ――ちゃん――!

 ああ、声が近づいてくる。早く、早く、穴に隠れなきゃ。人目の届かない、暗い場所へ――。

「マナミちゃん、いたら返事してくれ!」

 ――いじめっ子にしては、やけに涼しげで、耳に心地よい声だった。

「ミキト、くん?」

 そうだ、彼はいじめっ子なんかじゃない。同じゼミのミキトくんだ。ゼミ? そう、私はもう大学生だ。小学校なんか、とっくに卒業している。それでは、今のは――。

(夢か――)

 我ながら、げんなりする。小学生の頃の記憶を、未だに夢で見るなんて。あの頃から、ちっとも成長していない証拠だ。

「ああ、良かった。怪我とかしていないかい?」

 彼は、とても優しい。私みたいな、暗くて不細工なモグラ女にも、分け隔てなく接してくれる。

「ええ、大丈――」

 答えかけて、絶句する。


 何も見えなかった。


 周囲の様子は愚か、すぐ側にいるはずのミキトくんも、いや、自分の体さえ。

 視界全てが、漆黒の闇に覆われていた。

 顔の前に、黒い布でも被さっているのかと思ったが、そんなものはない。

「くそっ、どうなってやがる!?」

「嫌っ、何にも見えないわよ!」

「ひええ、ア、アキヒロさぁん」

 闇の向こうから、聞き覚えのある声がする。アキヒロくん、ランちゃん、リュウジくん――みんな、同じゼミの友達だ。

 そこで、ようやく思い出した。私達は大学の夏休みを利用して、海に遊びに行ったのではなかったのか。

 それが、どうしてこんな所に?

「誰か、明かりになりそうな物は持ってねえのか!?」

 アキヒロくんに言われ、慌ててポケットを探ったが、あいにく持ち合わせがない。なにせ現代の日本は、夜でも光にあふれている。照明器具を持ち歩く人は少数派だろう。

 この圧倒的な闇に、私達は何の対抗手段もない。

「ここ、どこなの――?」

「さあ、気が付いたら、ここにいて――みんな、何か覚えてるかい?」

 ミキトくんに聞かれ、私達は必死で記憶を探る。

「確か、10時に駅前に集まって、リュウジの車に乗り込んで――」

「お昼前に海に着いて、しばらく辺りを散策して――」

「喉が渇いたんで、コンビニで買っておいたジュースを飲んだんスよね? で――」

 そう、そこから先の記憶がない。どうやら、みんなも同様のようだった。

「まさか、あれに睡眠薬が入ってた? そして、眠らされて誘拐された――」

「あ、あはは、まさかぁ」

「僕も、まさかとは思うけど――そうだ、みんな、携帯電話は持ってるかい?」

 そうだ。携帯電話さえあれば、助けを呼べる。再びポケットを探ろうとして、はっとする。

 携帯電話――そう言えば、さっきポケットを探った時、触っただろうか。

「やだ、ないわよ!?」

「お、俺のも――確かに、上着のポケットに入れておいたのに」

「やっぱりな」

 慌てふためく私達とは対照的に、ミキトくんは落ち着いていた。予想していたらしい。

「盗まれたんだ、助けを呼べなくするために」

 つまり、これで確定的になったわけだ。

 ミキトくんの想像通り、私達が何者かに誘拐されたということが。

「い、一体、何のために――」

 私達は、ざわざわと憶測を交わす。いや、喋るのが苦手な私は、黙って耳を傾けていただけだが。リュウジくんの実家はお金持ちだから、身代金目的かもしれない。あるいは、今年のミス大学は間違いなしと目される、ランちゃんの美貌が目当てで――。

 いや、それでは、他の四人まで一緒に誘拐した理由が、説明できない。

「とにかく、ここがどういう場所なのか調べよう。手探りでも何でも、やらないよりはましだ」

「よし、俺がやるから、お前らはじっとしてろ」

 すかさず、アキヒロくんが立ち上がったようだった。ゼミ長の彼は仕切りたがり――もとい、とても責任感の強い人だ。

「いや、ここは僕に任せてくれないか。こういう状況には、慣れてるからね」

 ミキトくんの声は冗談めいていたが、私ははっとした。そう、まさに彼は、この任にはうってつけだろう。

 なにせ彼は、普段から目が見えないのだから。

 全盲ではなく、光の強弱ぐらいは分かるらしいが、それでも重大なハンディキャップには違いない。ちゃんと大学に通えているのは、周りの人間のフォローもあるが、何より自身の努力の賜物たまものだろう。

「みんなには、いつもお世話になってるからね。今度は、僕が助ける番さ」

「ちぇっ、分かったよ」

 そして、ミキトくんは勇敢にも、闇に踏み込もうとして。

「マナミちゃん」

 私を振り返ったらしかった。

「な、何?」

「いや――大丈夫だよ、きっと何とかなるから」

 何で、わざわざ私に言うのだろう――と、首をかしげる程、私もカマトトではない。

 ミキトくんは優しい人だ。誰にでも。だが、私には、特に優しいのではないか。そのことに気付いたのは、最近だ。

 無論、それは嬉しい。私みたいなモグラ女が、人並みにこんな気持ちを味わえるなんて。しかし、その喜びには常に、罪悪感がいばらのように絡み付く。何だか、彼をだましているようで。

 果たして、目がちゃんと見えていたとしても、彼は変わらず、優しくしてくれただろうか。

 彼の気配が遠ざかって、しばらくして。

「ねえ、マナミ?」

 ふいに背中を這い上がってきたランちゃんの声に、私は思わずびくりと硬直する。

「な、なあに、ランちゃん?」

「こんな時に何だけど、マナミはミキトくんのこと、どう思ってるの?」

「ど、どうって――や、優しくて、いい人よね」

「そうよねえ、さっきもそりゃあ必死になって、マナミを探して――」

 彼女の声は、からかいをよそおってはいたが、残念ながら隠しきれていなかった。その裏を流れる、どす黒い嫉妬のマグマを。

 そう、彼女はミキトくんが好きなのだ。

 彼女の美貌は、多くの男性の目を奪ってきたことだろう。しかし、肝心のミキトくんには、何の役にも立たない。何せ、彼には見えないのだから。何と、皮肉なことだろう。あげくの果てに、彼は私なんかに――これじゃ、腹も立つだろう。彼女にも、申し訳ないと思う。

 私は、ミキトくんの気配に目を凝らした。

 彼はどう思っているのだろう? この、奇妙な三角関係を。

「うん――少し、分かってきたよ」

 ミキトくんの声に、私は居住いずまいを正した。そうだ、今はそんなことにうつつを抜かしている場合じゃない。ランちゃんもそう思ってくれたのか、とりあえず見えない嫉妬のオーラは収まった。

「まず、ここは――」

 自然の洞窟ではない、床は平らだったからだ。材質は、おそらく大理石のようなツルツルした石。

「相当広い――けど、がらんとして何もない――」

 目が見えない分、彼は耳が鋭い。音の反響の仕方で、その程度のことは分かるのだという。

「元は、何のための部屋なんだろう」

「広くて、がらんとして、真っ暗――地下の駐車場とかっスかね?」

「用途が分かれば、出口の場所も推測できるかもしれないんだけどなぁ」

「――できたとしても、そこから出られるとは思えねえがな」

 アキヒロくんの呟きに、重苦しい沈黙が応える。その通りだ。何せ、私達は誘拐され、監禁されているのだ。それでも、止めようと誰も言い出さないのは、何かしていないと不安に、この闇に、押し潰されてしまいそうだからに違いない。

 私は、ぼんやりと闇を見つめる。

 いくら広くても、屋内である以上、広さは有限に決まっているのだが――こうしていると、まるで、無限の宇宙の只中にいるかのようだ。

 壁も垣根かきねも、周囲に一切の境目がない。日常ではあり得ないその感覚に、夢と現実の境目さえも曖昧あいまいになっていく。これは、本当に現実か? 夢の続きなのではないか? そう、ここは校庭に掘った穴の中で、私はモグラになっているのではないか――。

 そんな、私の妄想は。


 ひゅおうっ!

 ざびゅっ!

 ごとんっ――――。


 という、音に断ち切られた――妙に生々しい、そんな感じのする音に。

「え? 何、今の音!?」

 うろたえるランちゃんに。


『ククク――分カランノカ?』


 闇が、応えた。

『愚カナ。視覚ナドトイウ、不確カナ感覚ニバカリ頼ッテイル証拠ダナ』

「だ、誰だ!?」

 アキヒロくんの叫びに、ようやく私は我に返る。そうだ、闇が喋る訳がない。私達以外の誰かが、ここにいるのだ。

 私達と同じように、誘拐された人だろうか。

 ――違うと、本能が言っている。

「さては、てめえか、俺達を誘拐しやがったのは!?」

 そう、これは“犯人”の声だ。

 ランちゃんが、ひっと息を飲む。こっちへと、ミキトくんが私の肩を引き寄せる。この野郎とアキヒロくんが罵声ばせいを上げる。さっきまでの重苦しい沈黙が嘘のように、みんなが騒然とする中、くくくという犯人の低い笑いは、なぜかはっきり聞こえた。

 それにしても、何と大胆な犯人だろう。いくら顔を見られる恐れはないとは言え、私達と同じ部屋にいるなんて。

『誘拐トハ、人聞キノ悪イ。ゴ招待シタノダヨ』

 どうやら、ボイスチェンジャーを使っているらしい。報道番組のインタビューでよく聞く、潰れたガマガエルのような声だ。おかげで、性別も年齢も分からない。

「なんだと!?」

『ソレヨリ、イイノカ? 約一名、黙リコクッテイル者ガイルヨウダガ。具合デモ悪イノデハナイカ、ククク――』

 我ながら、迂闊うかつにも程がある。よりにもよって、犯人に指摘されるまで気付かないとは。

 みんなが、これだけ大騒ぎしているにも関わらず。

 リュウジくんだけが、さっきから一声も発していないことに。

「おい、リュウジ!? どこにい――」

 アキヒロくんの呼びかけが、途絶とだえる。

 ごろごろごろ。

 足元に、何か丸いものが転がってくる音がして。

「な、何、これ――?」

『サテ、何デアロウナァ? コレダケひんとヲヤッタノダ。ソロソロ分カッテ欲シイモノダガ――ククク』

(あ――あ――)

 昔読んだ本に書かれていた。神が人間に与えた最大の恩恵おんけいは、物事の関連性に思い至る能力を奪ったことだと。

 だとしたら、私達は神様に見放されたのだろうか。

 犯人がばらまいた“ヒント”が、みるみる像を結んでいく。

 ひゅおうっ!

 ざびゅっ!

 ごとんっ――――。

 最初の音は、犯人が何らかの刃物を振り下ろす音で――。

 次の音は、それがリュウジくんの~~を切断する音で――。

 最後の音は、切断された××が地面に落ちる音で――。

 よって、私達の足元に転がる、この丸い物は。

『ヨウヤク分カッタカ――おのれノ置カレタ状況ガ』

 ぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいい――! サイレンのような音が、闇を震わせる――いや、違う、これはランちゃんの悲鳴だ。

『ヨウコソ、闇ノげーむヘ! 早速ダガ、るーるヲ説明シヨウ!』

 闇に朗々と響く犯人の声は、とても楽しそうだった。

『生キ残レ! ココカラ出ラレルノハ、一人ダケ! ドウダ、分カリ易カロウ? デハ、健闘ヲ祈ル! クハハハハハハハ――』

 そして、どれぐらいの時間が過ぎただろう。百年のようにも、一瞬のようにも感じた。

 気が付くと、私はひゅうひゅうとあえぎながら、床にへたり込んでいた。衝撃のあまり、逃げることさえ忘れていたらしい。

「マ、マナミちゃん、大丈夫かい?」

「ミ、ミキトくん? 犯人は――」

「分からない、気がついたらいなくなっていて――ああ、大丈夫、近づいてきたら、足音で分かるから」

 安心させようとしてくれているのは分かったが、さすがに無理だった。

「でも、これで分かったな――犯人の目的が」

 そう、私達を誘拐したのは、身代金目的でも、体目当てでもなかった。半分、気絶していたような状態だったのに、犯人の言葉だけは覚えている。

 ――ヨウコソ、闇ノげーむヘ!

「ゲームとやらに、参加させるためだったんだ――」

「狂ってる、マトモじゃねえっ!」

 同感だった。人を殺すだけでも理解しがたいのに、それをゲーム感覚でやるなんて。

 快楽殺人鬼。この世には、そういうものも実在する。しかし、その棲息地は常に遠いどこかであり、最接近してもテレビ画面の向こうまでだった。

 それが、すぐ側にいる。

(これは夢だわ、早く目覚めて――)

 しかし、いくら祈っても、柔らかい寝台には戻れなかった。床の固い感触も、どくどくという自分の鼓動(こどう)も、この圧倒的な闇も。

 全て、現実だった。

「そ、それで、あたし達、どうなるの――?」

 ランちゃんの声が、尻すぼみになる。言っている途中で思い出したらしい。そう、ゲームの開幕を告げた犯人は、次いでルールの説明も行った。

 極めて、シンプルな。

「あいつは言っていた――ここから生きて出られるのは、一人だけだって」

 つまり、それ以外の者は、みんなリュウジくんのように――。嫌ぁっとランちゃんが叫ぶ。なぜそんなルールなのかと犯人に聞いても、多分こう言われるだけだろう。

 その方が面白いから、と。

「ふざけんなっ! むざむざ殺されてたまるか!」

 がつん、アキヒロくんが床を殴りつける。

「戦うぞ! こっちはまだ、四人もいるんだ。勝ち目は十分ある!」

「で、でも、犯人は凶器を持ってるのよ?」

「しかも、この暗闇の中でも不自由していない。多分、暗視ゴーグルか何かを使っているんだろう。あまり、有利とは言えない――」

「じゃあ、どうするんだ! 大人しく殺されるのを待つのか?」

「落ち着けよ、そうは言ってない。他に方法はないのか? 地道に出口を探すとか――」

「んなもん、ある訳ねえだろうが! お前らがやらないなら、俺一人でも――!」

 結局、アキヒロくんに押し切られる形で、私達は犯人に決死の反撃を試みることになった。

 立てないよりはまし程度の作戦を立てる。一ケ所に固まって、犯人の接近を待つ。耳が鋭いミキトくんが、足音で犯人との距離を測る。彼の合図で、一斉に飛び掛り、凶器を奪う――。

 果たして、上手くいくだろうか。いや、仮に成功したとしても、犠牲者ゼロで済むだろうか。

「何でよぉ――何で、あたしがこんな目に――」

 ランちゃんが嗚咽おえつを漏らす。全くだ。どうして、こんなことになってしまったのだろう。みんなで出かけたりしなければ、いや、せめて行き先を変えていれば、いやいや、せめてあのジュースを飲まなければ――。

 その時。

「ジュース――そうだわ」

 突然、そんな呟きと共に、ランちゃんの嗚咽が止まった。

「何だよ、ラン?」

「一体、どこで――、――が入れられて――」

 アキヒロくんの問いかけにも答えず、ランちゃんはぶつぶつと呟き続ける。

 そして。

「ま、まさか――!」

 愕然。そんな感じの声を上げ――だだだっと足音が遠ざかる。ランちゃんが逃げ出したのだ。私達がそのことに気付いたのは、一瞬後だった。

「おい、どこ行くんだよ!?」

「ランちゃん、一人になっちゃ危ない!」

 必死に引き止める二人に返ってきたのは。

「嫌ぁっ、来ないでぇっ!」

 しぼり出すような、恐怖の悲鳴だった。

「なっ!? 襲われてるのか!?」

「ランちゃん、戻って――!」

 慌てて、後を追おうとする二人。しかし、一瞬の遅れは、決して飛び越せぬ断崖となって。

 ずぶしゅうっ!

 ランちゃんと、私達の間を断った――永遠に。

「い、今の音――」

「おい、ラン! 返事しろ!」

 返事はない。代わりに私達に届いたのは、びた鉄のような匂いだった。

 無論、こんな濃厚なものを嗅いだのは初めてだ。にも関わらず、本能的に分かる。何の匂いなのか。

 なぜなら、それは誰の体内にも流れている――。

『愚カナ女ヨ』

 声と共に、どかっという乱暴な音がする。おそらく、ランちゃん――だった物が、蹴り飛ばされたのだ。ゴミ袋か何かのように。

『眼ニ見エルモノシカ信ジズ、外見バカリ飾リ立テ――オ前ニ、闇ニ選バレル資格ナドナイワ』

「くそおおおっ! この野郎おおおおっ!」

 声に向かって、アキヒロくんが突進する。

 ずざっ! 盛大に転倒する音。犯人にあっさり避けられ、空振りしてしまったらしい。それでも諦めず、文字通り闇雲に突進を繰り返す。

「くそぉっ、明かりさえ、明かりさえあれば、てめえなんか――っ!」

『駄目ダ駄目ダ、光ニナド頼ルナ』

 犯人の声は――なぜだろう、飲み込みの悪い生徒を叱る、教師のようだった。

『闇ニ慣レヨ、受ケ容レヨ。ソレガコノげーむノ攻略法ダ――』

 気が付くと、またしても犯人の気配は消えていた。しかし、この闇のどこかに横たわっているであろう、ランちゃんの体から漂ってくる匂いは消えない。

 お洒落で、香水にも気をつかっていた彼女。こんな悪臭にまみれて、可哀想に――。

「す、すまねえ、でかい口叩いときながら、ランの奴まで――」

 さっきまでの激昂げっこうぶりが嘘のように、アキヒロくんは一転して意気消沈している。君のせいじゃないと慰めるミキトくんも、おそらく気付いているのだろう。彼の怒りは、怯えが形を変えたものだと。

 多分、彼は弱い人なのだ。普段の強気な態度は、それを隠すための仮面なのだろう。その気持ちは、よく分かる――私もまた、他人の視線に怯えながら生きている人間だから。

「マナミちゃん、ちょっといいかい」

 不意に、ミキトくんに耳元でささやかれる。

「な、なに?」

「シッ、アキヒロには聞かれたくないんだ――少し離れよう」

 腕を引かれるままに、アキヒロくんから離れる。

(あ、危なくないのかしら、一人にしてしまって)

 アキヒロくんの方は、私達の移動に気付いた様子はない。

 十分に距離を取ったところで、ミキトくんが話し始める。隣にいる私にしか聞こえないぐらいの声で。

「さっきのランちゃんの行動、どう思う?」

「え?」

「どうして、一人で逃げ出したりしたんだろう――孤立したら危ないことは、分かっているだろうに」

 確かに、不自然だ。この闇の中に、一人で駆け出すなんて。私なら、やれと言われてもできない。

「それに、逃げ出す前に、何か独り言を呟いてたよね」

「ええ、ジュースがどうとか――」

「そう、ジュースだ。彼女は、こう言っていたんじゃないだろうか。“いつ、どこで、ジュースに睡眠薬が入れられたんだろう”って」

「言われてみれば――確かに不思議ね」

 今朝、コンビニで買って、リュウジくんの車に運んで――それから飲むまで、周囲には常に私達がいたのだ。一体、犯人はどうやって睡眠薬を入れたのだろう。

(――――え?)

 私は思考を停止した。

 その可能性に思い至って、それ以上考えることを、無意識の内に拒んで。

「そう――僕達に気付かれずに、あのジュースに睡眠薬を入れられたのは――」

(ミ、ミキトくん、やめて――)

「僕達5人の内の、誰かしかいない――」

 その可能性。

 すなわち、犯人は私達の中にいる。

 体の中心から芯が抜かれ、ぐらぐらと世界が揺らぐ。この感覚には、馴染なじみがある。子供の頃、友達だと思っていた子が、陰で私を嘲笑あざわらっていたと知った時にも感じた。

 すなわち、裏切られる衝撃。

「ランちゃんも、そう思った。そして、そいつはこの闇を隠れみのに、犯人と被害者の一人二役を演じているんじゃないかって」

「そ、それじゃあ、あの言葉は――」

 ――嫌ぁっ、来ないでぇっ!

「ああ――僕らに向かって言っていたんだ」

 その直後、彼女は――。

 そこで、私ははっとした。なぜミキトくんは、この話を、彼に聞かれたくなかったのか。

「ミキトくんは、アキヒロくんを疑ってるの?」

「い、いや、別にそういう訳じゃないよ。ジュースに睡眠薬を入れられたと、決まった訳じゃないし――」

 私だって、信じたくない。掛け替えのない友人達の中に、人の皮を被った怪物が紛れ込んでいたなんて。

 しかし、この推理が当たっていたら。

 リュウジくん、ランちゃんが殺され、生き残りはすでに三人しかいない。すなわち、容疑者もたった三人。

 私は犯人ではない。ミキトくんは――もし犯人なら、こんな風に自分の手口を明かしたりするだろうか。だとすると、残るのは確かに――。

「そ、そうか、犯人はてめえかあああああ」

「ぐっ!?」

 突如。

 悲鳴交じりの絶叫と、苦しげなうめき声。それだけで、十分イメージできたのは、この闇に慣れてしまったせいか。

 アキヒロくんが、ミキトくんの首を絞めているのだ。多分、恐怖に引きった表情で。

「ぐぐぐ、何のことだ――」

「し、しらばっくれるな! ランの奴も気付いたんだ。ジュースに睡眠薬を入れられるのは、俺達の内の誰かだけだってなあああ!」

(ア、アキヒロくん――)

 黙りこくっているだけかと思ったら、私達と同じことを考えていたらしい。

「だ、だからって、どうして僕が犯人だと――」

「決まってるだろうが! 目が見えねえ腹いせだ! 暗闇でおろおろする俺達を、嘲笑ってやがったんだろうが!」

 どういうことだ。これは演技なのか。それとも、本気で言っているのか。つまり、彼は犯人ではないのか。

 いや、ともかく、アキヒロくんを止めなければ。このままでは、犯人であろうがなかろうが、ミキトくんは同じ結果だ。

「アキヒロくん、やめて!」

 声を頼りに、何とか彼の腕にしがみ付いたようだったが、あっさり振りほどかれてしまう。

「殺されるもんか、殺されるもんか、殺されるもんか――」

 念仏のように、アキヒロくんは繰り返している。その様は、とても演技には聞こえない。

 その時。

 アキヒロくんの狂態に紛れるように――かつん――かつん――。

(! 聞こえる――)

 私達の誰のものでもない足音が近づいてくる。すなわち――

 どずぶりっ!

「殺さギャフッ!?」

 ――やはり、彼は犯人ではないと分かった時には、すでに遅かった。

『闇ノ真実ヲ見通セヌ者ニ、資格ハナイ』

 全てが曖昧な闇の中、例の鉄錆の匂いだけはリアルだった。命が抜けていく匂い。

『シカシ、コノ男ノ姿勢ハ見習ウベキダゾ――コヤツハ、闇ノ中デ真実ノ己ヲ見出シタノダ。光ノ下デ被ラザルヲ得ナカッタ、偽リノ殻ヲ脱ギ捨テテナ。ククク――』

 遠のく足音に、私達は何の反論もできなかった。そう、友情を忘れ、友人を疑っていたのは、私達も同じ。原始の森を思わせる闇の中、私達は人の皮をぎ取られ、浅ましい獣に戻ってしまった。

「とうとう、二人だけになってしまったね――」

「ええ――」

 私とミキトくんは、最早立ち上がる気力もなかった。

「僕を疑わないのかい?」

「――ミキトくんは、犯人じゃないわ。犯人の足音が離れていく間も、ずっと近くにいたし」

「実行犯じゃないとしても、犯人とグルになっているかもよ?」

「信じるわ」

 獣に戻ってしまった私だが、だからこそ分かった。それもまた、偽らざる本音だと。たとえ、この直後、ミキトくんが襲い掛かってきたとしても、私は後悔しないだろう。

「ありがとう――マナミちゃんが信じてくれたから、僕も正直に言うよ。君が好きだ」

 なのに、どうして彼の言葉を素直に喜べないのか。

「ミ、ミキトくん、あのね――」

「分かってるよ。僕がこんなことを言うのは、目が見えないせいだって言うんだろう?」

 見えなくても感じた。ミキトくんの、真っ直ぐな眼差まなざしを。

「ならば、僕は自分の目に感謝したい。外見に惑わされず、本質を見抜けたんだから。君が優しくて賢い、素敵な女性だってね」

「ミキトくん――」

 彼の言葉が、ようやく浸透し始める。皮肉なことだが、この闇のおかげかもしれない。ここでは、自分の姿を見ずに済むから。

「キス、してもいいかな?」

 いきなりの言葉に、私は真っ赤になるが――そうだ、もう時間がないのだ。私達の内どちらか、あるいは両方とも、もうすぐ殺される運命だ。

 その前に、これぐらいの幸せは味わっても――。

『ククク、大シタ連中ダナ。コノ状況デ、愛ノ告白トハ』

 ああ、それすら許してくれないのか。余命のカウントダウンのように、一歩一歩近づく足音を。

「待ってくれ!」

 毅然きぜんとした、ミキトくんの叫びがさえぎった。

「殺すなら僕を! 彼女は帰してやってくれ!」

(ミキトくん!?)

 諦めて座り込んでいたのは、私だけだったらしい。彼は、覚悟を決めて待っていたのだ。せめて、私だけでも助けようと。

「一人は生き残れる、そういうルールなんだろう?」

「そ、そんなの嘘よ。どうせ、みんな殺すつもり――」

 引留めようと手を伸ばすが、ああ、そこにすでに彼はいない。私は、闇に一人取り残される。

「それでも、何もしないよりは、君が生き残れる可能性は高い――この人が、ルールを守ってくれることに賭けるよ」

 ミキトくんが駆け出す。死神の鎌に、自ら首を差し出そうと。私は、声を限りに絶叫を――

『気ガ変ワッタ――二人トモ、帰シテヤッテモイイゾ』

 ――上げようとした喉は、代わりにひっくとしゃっくりを上げた。あまりに意外な、犯人の慈悲に。

「な、何だって?」

 ミキトくんは警戒している。当然だろう。何かの罠に決まっている。

『タダシ――』

 案の定、犯人の“慈悲”には、とんでもない条件が付いていた。

『ソノ眼ヲ、潰サセテモラウ!』

「め、眼を!?」

『左様、オ前達ハ外ヘ出ラレテモ、二度ト光ヲ見ルコトハデキン――』

 どういうつもりだろう。私達を悩ませて、楽しもうというのか。

 いや。

 ――ヨウコソ、闇ノげーむヘ!

 ――オ前ニ闇ニ選バレル資格ナドナイワ。

 ――コヤツハ、闇ノ中デ真実ノ己ヲ見出シタノダ。

 闇。犯人は、それに異常に固執している。理由は分からない。しかし、これだけは確かだと私は思った。

『サア、ドウスル? 闇ニ身ヲ置クコトニナッテモ、生ヲ望ムカ?』

 闇。その言葉を口にする時、この人は決して嘘をまじえないと。

 両の眼を差し出せば、本当に助けてくれる。私とミキトくんの二人とも。

 悩んだのは、一瞬だけだった。

 この暗闇のお陰だろうか。私は気付いていた。

 自分が、眼などさして必要としていないことに。

 むしろ、こんなものがあるがために、毎日自分のみすぼらしい姿を見せられ、惨めな思いをしてきたのではないか。

 そりゃあ、失くせば不自由はするだろうが――きっと、何とかなる。だって、ミキトくんが一緒にいてくれるのだから。二人なら、闇だって怖くない。

「分かりました、そうしま――」

 彼も、そう思ってくれているに違いない――。

「嫌だ――」

 ――――――え?

「ぼ、僕は嫌だ!」

 聞き間違いじゃない。彼は、確かにそう言っている。

『ナゼダ? オ前ハ、元々目ガ見エナイノダロウ?』

 呆然としている私の代わりに、犯人がいぶかしげに訊いている。

「み、見えない訳じゃない! 光は感じ取れるんだ!」

『ダガ、ソレダケダロウ』

「それだけとは何だ!」

 わめき散らすミキトくんは、まるで――駄々っ子のようだった。

(こ、この人は――誰?)

どこへ行ってしまったのだろう、あの優しくて格好いい彼は。

「眼の見える人には、分からないさ! 僕が、どれ程心細い思いをして生きているか――僕にとって、光は唯一の希望なんだ!」

『ナゼ、光ニすがル?』

 犯人の声は、苦々しげだった。

『光ハ無慈悲ダ。傷モ汚レモ、全テヲ明ラカニシテシマウ。表面的ナ差異バカリ浮キ彫リニシ、不平等ヲ押シ広ゲル。光コソガ、アラユル苦シミノ源ニ他ナラヌノニ』

「な、何と言われようが嫌だ! 光さえ無くすぐらいなら、死んだ方がましだぁ!」

(ミキトくん――!?)

『オ前ハ、有望ダト思ッタノダガナ――』

 犯人は長い溜息を吐き。

『期待外レダ。望ミ通リ、死ネ』

 ずびゅうっ!

 闇のゲームが終わる。

 ばしゃり。鉄錆の匂いのするビールシャワーを、私の全身に浴びせて。

(ミキトくん、どうして――)

 生きることを、選んでくれなかったの。私と共に、生きることを。

『ソレニ比ベテ、女ヨ。オ前ハヨク分カッテイルナ、闇ノ素晴ラシサヲ――オメデトウ、勝者ハオ前ダ』

 犯人の祝福の言葉と共に、ぼっ、ぼっ、ぼっ!

 闇に、炎が燃え上がる。いくつも、いくつも。そして、私は始めて、この場の全貌を目の当たりにした。

 咄嗟とっさに浮かんだ連想は“神殿”だった。立ち並ぶ円柱が、ギリシャのパルテノン神殿に似ているからだろうか。そこに備えられた松明に、奇妙な紫の炎が灯っているのだ。

 それが照らすのは、冷たい石の床に転がる、友人達の血塗れのむくろ

 恐怖に眼を見開いたランちゃん、何が起きたのか分からないという表情のアキヒロくん、泣きべそをかいたまま固まったミキトくん、そして、首を切り離された――

 ――マネキンが、ころんと転がっていた。

 血の海の中、それだけが場違いにきれいなままだった。

 それを見て、私は――。

『落チ着イテイルナ――ヨモヤ?』

 上げた視線の先に、彼はいた。

 すなわち、犯人が。


「ええ――リュウジくん、あなたでしょう」


 眼を丸くしている彼は、以前とどこも違わなかった。ガスマスクみたいな物――ボイスチェンジャーと暗視ゴーグルを兼ねているのだろう――を被って、べったりと血に濡れた日本刀をぶら下げているのさえ除けば。

「驚いたなぁ、いつから気付いてたんスか?」

 マスクを外すと、声まで以前と同じになる。

「今思えば、最初から違和感はあったわ。あなたが“殺された”時には、しなかったから――血の匂いが」

 する訳がない。あの時斬られたのは、樹脂製のマネキンだったのだから。

 最初の犠牲者が、実は犯人――この闇だからこそ、可能なトリックだ。

「なるほどねえ、匂いか。それは盲点だったなぁ。さすがはマナミちゃん!」

 うんうんと頷くリュウジくんは、友人達の躯に視線も向けない。まるで、道端の石ころか何かの様に。人殺しとののしる気力さえ、すでに私にはなかったが、これだけは聞いておきたかった。

「どうして、こんなことを――?」

「器を選ぶためッスよ。闇を恐れず、闇を受け容れられる、闇の神に相応しい器をね。その点、マナミちゃんなら申し分ないッスよ!」

 ――案の定と言うべきか。リュウジくんの言葉は、まるきり理解不能だった。私の表情からそれを察したのか。

「ああ、大丈夫。意味なら、すぐに分かりますから」

 慌ててそう言い、リュウジくんは懐から何かを取り出した。

 鉱物の結晶体だった。まるで、闇がこごってできたかのような、漆黒の。

 それをうやうやしくかかげ――。

「Ia、Nyarlathotep! 強壮なる使者、い寄る混沌よ! 今ここに、場は成り、器は整いたり! 輝くTrapezohedronを通り、最果ての星Sharnothより降臨こうりんたまえ!」

 一転して、朗々と声を張り上げるリュウジくんに応えるように。

 洪水のように、結晶体から闇が溢れ出した。

 ――としか、私には表現し様がない現象だった。しかも、その闇は生きていた。三つの眼に、地獄の業火のような赤い輝きを宿し、私を見つめている。

 排水口に吸い込まれる水のごとく、生ける闇は渦巻きながら私の口に、精神に入り込む。

 暗い――何と言う暗さだろう。さっきまでの暗さが夜の闇なら、これは宇宙の闇だ。そう、星々の光さえ届かない、ブラックホールの闇。それが、私の視界を、意識を塗りつぶしていく。

 なぜか分かった。私が拒絶すれば、この闇を追い出せる。その反動で、私は廃人になってしまうだろうが、少なくとも人として死ねるのだ。

 しかし、私はそうはしなかった。

 ――闇は優しき衣、全てを覆い、安寧あんねいをもたらす。

 頭に響く闇の囁きに、私はその通りだ、その通りだと、うなずききを返す。

 そう、もしこの世に光がなければ、全てが闇に包まれていたならば、私はモグラでいられたのに。

 いいや、私だけじゃない。

 ランちゃんは、皮肉な恋に苦しまずに済んだ。

 アキヒロくんは、無理な演技を強いられなかった。

 ――ミキトくんだって、私を捨てなかった。

 みんなみんな、光のせいだ。

 かの偽善者のせいで、私達は何と無駄な苦労をしてきたことだろう。でも、それももう終わり。この優しき闇が、私達を救いに来てくれた。

 我が子を抱く母のように、私は闇を受け容れる。私は闇と一つになっていく。遠くから、リュウジくんの感極まった叫びが聞こえる――おお、我ら〈星の知恵派〉の悲願、今ここに成就じょうじゅせり――!


 *


 それから、間もなく。

 私は東京とかいう、この国の都に立っていた。

 すでに夜が近い。せっかく、あの忌々いまいましい太陽が地平線の彼方に去ったというのに、今度はおびただしい数の人工の光が灯り始める。全くって理解し難い。なぜ、苦労してまで闇を追い払うのか。

 超次元知覚力を、一気に半径数百kmにまで広げる。集まってきたのは、案の定と言うべき情報。

 ごてごてと飾り立てた女達、富と権力で武装した男達――哀れな、光の操り人形ども。奴が照らし出す範囲など、宇宙のほんの表面に過ぎないというのに、それを全てと思い込まされ、表面を飾ることにばかり腐心している。

 なかなか骨が折れそうだが――やらねばなるまい。

「よし、まずはこの国からだ――行くぞ」

「はっ、我が神よ」

 忠実な神官を従え、私、暗黒神ニャルラトテップは第一歩を踏み出した。


 この星に、闇の救済をもたらすために。


【参考文献】


 ラヴクラフト全集3(創元推理文庫、H・P・ラヴクラフト/著、大滝 啓裕/訳) より『闇をさまようもの』

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優しき闇に抱かれて 上倉ゆうた @ykamikura

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