papilio

千日紅

第1話 先生



 虫が怖い。つとにその恐怖は晶子の心底に住まっている。

 特に死んだ虫はいけない。生きていたときは、突拍子もなく飛び立ったり、這ったり止まったりする虫が、死んだ途端に、幽けく折り紙細工のように、からからに風になぶられて、腹を見せ、背を見せ、地べたを転がっていく。

 そうやって、いずれ土塊に朽ちていく虫ならばまだよい。

 最悪なのは、標本にされた虫である。虫は、採ってきた虫でも、飼っていた虫でも構わない。

 標本にされた虫は、破れた翅も、もげ落ちた足も、すっかり元通りになり、ガラス窓の木箱の中で、つやつやと光沢を帯びていた。

 


 晶子十二歳のことである。大病を患って、半年ほど療養を余儀なくされた。

 両親は、一人娘だった晶子が、過酷な治療の末に、ずいぶん衰弱したとはいえ、命をなくさなかったことに大喜びし、自宅のベッドに横になっていることの多い娘に、菓子ではない、玩具ではないと、やたらめったらの贈り物をしていた。

 その贈り物の一つが、家庭教師だった。まだ高校生で、拓郎という名の青年だった。両親が親類につてを頼って、晶子の前に連れてこられた拓郎は、奥ゆかしい詰め襟姿で、銀縁の眼鏡をしていた。整った容貌で、素晴らしく発育の良い、厚みのある胴と長い手足を、漆黒の学生服に包んでいると、絵本の中に見た牧師か神父かというような清廉な雰囲気を漂わせていた。

 その頃の晶子は入院生活から戻ったばかりで、家の外にろくに出ることもなく、魂が漂うという中有にいるかのような心地であった。

 今日死ぬかもしれぬ、明日死ぬかもしれぬと言われ慣れた日々、今日は何をして遊びましょ、明日は何を召しましょうと問い請われる日々、日々は巡り、それでも体は、沼に浸かっているかのように重く怠い。

 ある日のことである。家庭教師に訪れた拓郎は何やら大荷物を下げていた。

「おもしろいものを見せてあげるよ」

 拓郎が風呂敷から取り出した「ドイツ箱」の中には昆虫標本が並べられていた。

 色鮮やかな蝶が虫ピンで留められている。そこには不思議と残酷さはなく、蝶の翅の華麗さに晶子は魅入られた。

「気に入ったようだね」

 眼鏡のレンズの向こうで拓郎もまた、うっとりと微笑んだ。

 それから、たびたび、拓郎は昆虫標本を持参するようになった。晶子は木枠の中の濃密な世界に夢中になった。拓郎の標本の幾つかを見せてもらい、次には、実際に標本を作るところを見せてやろうという誘いに、晶子は夢見心地で頷いた。

 約束の日、拓郎は荷物の中から三角に折られた紙を取り出した。薄い白い紙の中には、蝶が入れられていた。

「死んでるの?」

「うん、僕が殺した」

 拓郎は滑らかに答えた。いつも通り詰め襟のホックはきっちりと閉じられていて、そんなところばかりが晶子の目に付く。

 晶子の視線にわずかな非難を読みとったのかもしれない。拓郎は苦笑しながら、丁寧に三角の紙を開いた。

「僕も殺すときは悲しい。命を奪っているんだと思う。僕は虫が好きだ。虫の生き様が好きだ。だから、死んだ後も残したい。できるだけ長く、彼らが生きた証拠を残したい。やってみせるね」

 拓郎は展翅を始める。柔らかくなった虫の体を、きれいな玉のついた針で広げる。細心の注意を払い、欠くことなく、完全な左右対称を目指して。

 拓郎の指が器用に動く。剣道を嗜むという彼の指は、爪は短くそろえられ、節くれ立っていた。青年の美貌とは不釣り合いに、端正であっても実用向きで長い手指が、虫の体を美しく整えていく。

 晶子は、引き寄せられるように、拓郎の手元をのぞき込んでいた。

「これはとても楽しい。ほら、少しでもずれると、ちっともきれいに見えない。すごくやりがいがある。虫は死んでいるけれど、虫が過ごしてきた時間が、僕の手の中で凝縮されたような気がする。僕は、この針で」

 拓郎は晶子の手に丸いきれいな玉のついた針を乗せた。

「虫の命を、虫の時間を刺してる」

 促されて、晶子も針を持つ。

 虫の胴を貫いたぴかぴか光るピン。そして虫を張り付けにした数十本の待ち針。そのうちの一本が晶子の手にあった。


 あれはセセリだったろうか。

 晶子はその夜熱を出して寝込んでしまった。

 高熱に魘された見た夢の中で、端正な顔立ち、すっとした鼻梁と、よく研磨した宝石を埋め込んだような切れ長の瞳、ただ、いつもは白い頬がほんのりと上気していた拓郎が、ピンを晶子に渡す。晶子は導かれるままピンを刺す。その瞬間、晶子の世界の天地が逆転したかのような衝撃が彼女を襲い、彼の目だけが、色彩の渦になった世界の中で、しっかりと存在し続ける。繰り返し繰り返し、夢の中で晶子はピンを握る。

 夢は熱が下がるまで続いた。

 熱が下がると、虫も、端麗な家庭教師のこともすっかり怖くなってしまっていた。一時期は、虫の羽音を聞いただけでも嘔吐してしまうほど。



 

 それは、大人になった今でも変わらない。

 晶子の見下ろす先には印刷機の不具合のせいで、かすれたバッタの絵がある。そこここから線が延びていて、かっこに続く。そこに晶子は震える手で丸をつけていた。

「本間先生、いい加減、残業はやめてくれませんか、不要な電気代がかかりますから」

 晶子はいたずらを咎められた生徒のごとく、肘をついていた教卓から飛び起きた。

 教室の入り口から晶子に声をかけたのは、教務主任の阪口であった。

 図らずも晶子の手が、教卓を薙ぎ、採点途中の答案用紙が宙を舞う。勢いで蹴倒したイスが床に衝突する音が、夕暮れの校舎に響いた。

「あぁ」

 情けなく裏返った声が、喉から飛び出た。

 冴えない外見、おどおどしてばかりの新任教師、それが本間晶子教諭だ。中学生は大人より大人びた目で、大人を値踏みする。授業には反抗的で、ただでさえおっかなびっくり教鞭をとる新任の教師に、彼らを御せるはずもなかった。

「す、すみません、阪口主任」

 阪口は教務主任で、晶子の指導を担当していた。際だって整った男らしい面立ちと、銀縁の眼鏡。剣道の有段者だという彼の所作の美しさは目を引く。今もそうだ、後ろ手にドアを閉める時も、姿勢がすっと伸び、伏せられた目元に睫が長く陰を落としている。

 阪口はまだ二十代。教務主任としては異例の若さだ。それをやっかんだ年嵩の同僚達が、晶子の指導を阪口に押しつけた。晶子には自分の不出来が負い目に感じられてならない。

 晶子はびくびくと肩を跳ねさせながら、おぼつかない手で椅子を起こそうとする。阪口のほうに首を向けたまま、手探りであったから、晶子は椅子の脚に自分の臑をぶつけてしまう。

「きゃっ…………!」

 不格好にも、晶子は尻餅をついてしまった。テスト期間中の校舎に人気は無く、晶子と阪口の間にも静寂が落ちる。

 また失敗してしまった―――晶子は、今日何度目かの、目の前が真っ暗になる思いをする。

 生徒への対応、授業の準備、テストの作成、何をどうやってもうまく行かない。

「ほら、立ちなさい」

 晶子は涙に濡れた目で阪口を見上げ、すぐに目を逸らした。

 涙を見ても阪口は驚かない。晶子の存在がいかに彼にとってとるに足りないものであるから、当然のことだ。

 晶子はのろのろと立ち上がる。掃除の行き届いていない教室の床は埃まみれで、晶子の紺のスーツの膝は白くなっている。

「そんなことだから生徒に舐められるんです」

「…………すみません……」

「ちょうどいい機会なので言いますが、あなたの成績が私の評価にも関わるんです。それと」

 阪口はそこで言葉を切って、晶子の顎に指をかけた。そのまま上向かせる。

 長身の阪口に対して、小柄な晶子は首を痛いほど曲げて、阪口を見上げることになる。長い前髪が横に流れ、晶子の顔が露わになると、阪口は目を細めた。夕暮れどきの赤い光を眼鏡のレンズが照り返す。教室の隅には闇が満ち始めていて、グレイのスーツを着た阪口がぼうっと白く浮かび上がっていた。

「ずっと君に聞きたかったんです。なぜ急に僕を怖がって、僕から逃げ出したのか」

 晶子は驚愕に目を見開く。

 振り払おうとするが、いつの間にか腰を抱かれ、両手をまとめ背中に回されていた。

「せ、先生、先生、やめてください、先生」

「懐かしいね、晶子ちゃん。昔のように呼んでいいんですよ」

 阪口は晶子の耳元に唇を寄せた。

「拓郎先生って」

 晶子はのど奥で悲鳴を上げた。



 

 この学校に勤務して初めての顔合わせの時、阪口は晶子を見ても眉一筋動かさなかった。だから、阪口は晶子を「晶子」だとわからないのだと、彼女は思っていた。

阪口と別れてから十年が経ち、晶子は変わった。愛らしいとほめそやされていた容貌も、俯きがちになれば次第に認知されなくなっていった。

「…………先生、覚えて…………」

「忘れるわけないでしょう」

「いやっ……先生…………」

「逃げたくせに」

 晶子の濡れた瞳にうつる阪口は、まるであの頃に戻ったかのようだった。詰め襟の上に乗った端麗な顔。

「君が私に忘れていて欲しそうだったから、そうしてあげただけです」

 体を引き離そうとした晶子の手が、阪口の厚い胸をを叩いた弾みに、床に彼の眼鏡が落ち、もがく晶子の脚に蹴られ、滑る。

「今まで待ってあげた私に感謝はないのですか?」

「離して先生! 何のことかわからないもの!」

「君のお母さんが私に教えてくれました。家庭教師を辞めさせられるとき、君が、虫と、私のことをとても恐れているようだと。君はあの時、とても興味深げに私が標本を作るところを見ていた。おかしいなと思いました。でも、女の子はそんなものかもしれないとも思いました。本当におかしいのはそれからの君です。わざわざ、私と同じ高校に進学して、私と同じ大学の同じ学部に入って、教職まで取って、あげくには勤め先まで。いつも私を追いかけて、でも決して近寄ろうとしない、それはなぜですか? 教えて下さい」




 十二歳の晶子の幼い心は、ふいに与えられた死の脅威と、生の恩赦に耐えられずにいた。現実から遠のいて、ぼんやりとすることで、せめぎ合う生死の相克から逃れていた晶子を、晶子の生と時間を、あの時、確かに阪口は突き刺して、現世に留め置いた。

 それからはずっと、自分でもどうしようもない。阪口を追わずにはいられない。

 しかし、十二歳の晶子に阪口が与えた痛みは、あまりにも鋭かった。蜂のひと刺しや、蟻のひと噛みのように、晶子に薄まらない毒を注入した。

 だから怖かった。阪口は晶子のすべてを変えてしまう。けれど、追いかけずにはいられない。追いかけて追いかけて、とうとう行き止まりになってしまった。

 時を経て再会した阪口はあの頃とは違っていた。よく磨かれたステンレスみたいに鋭かった眼光は弱まり、同じように痛みを与える彼の力も消え失せたのではないか、もしそうであれば、もう少し、彼の近くに寄っていってもいいのではないか。

 そこまで振り返って、晶子は思い出した。違う。そうではない。


 晶子は彼のもとに来なければならなかった。


 晶子の脳裏にまざまざと浮かび上がる光景。

 あの日、大学からの帰り道に、阪口を見かけた。

 背広を着込んだ彼は、あの頃とはまるで別人のようだった。

 詰め襟に代わって、ネクタイをきちんと締めて、彼はゆっくりと歩いていた。

 夕焼けを背に歩いてくる彼は、晶子に気づいていなかった。

 晶子はひとり、じっと阪口を見つめていた。

 晶子の視線の向こうで、阪口の顔から、すっと表情が消える。

 きらきらと輝いていた瞳が、突如、黒々とした深淵に変わる。

 夕日が彼の背から巨大な炎を燃え上がらせ、阪口は炎の化身のごとく、まるで表裏を裏返したかのように歩みを止めた。

 阪口の後ろ姿には、錬成された気迫が漂っていた。

 晶子の胸に去来したのは、恐怖と恍惚、そして安堵であった。

 あの深淵は、今も晶子を待っているのだ。




「私の考えを教えて上げます。君は、僕に標本にされる虫になりたかった。僕に、愛されたかった。けれど、僕に愛されるのが怖かった。君は本当に―――幼かったから」

 晶子は首を横に振った。けれど、阪口はそれに気を払わずに、強くはっきりとした口調で続けた。

「君は覚えてないでしょう。あの日、針を渡したら、君はなかなか刺そうとしなかった。私がどうしたのと聞くと、君が何て言ったか、覚えてますか?」

 阪口は晶子に尋ねてばかりだ。その全てに晶子は明確な答えを持っていないし、答えてしまったら、ここで終わりだと直感的に悟っていた。

 尋ねるようで答えを求めていない、だから、阪口は自ら答えを出して、それを晶子に突きつける。

「君は、針を私に返して、あたしを刺して、と言ったんです」

 阪口は晶子の虫ピンだ。

 晶子に、晶子を証すもの。

 唇を震わせて、阪口を凝視する晶子に、彼ははにかんで見せた。

「君が私に向ける思いの名前を、私は知りません。きっと君はあの頃のまま、あの頃の心で、私を追いかけてきたのでしょうね」

 ああ、とうとう、とうとう捕まってしまった。

 阪口の腕の中で、晶子は歓喜する。絶望とともに。

 細いのにやけにぎらぎらと光を跳ね返す、まっすぐなピン。

 晶子の体を思う様に磔にして、とどめに、晶子の真ん中、心臓を。

 十二のときかから、彼にとらわれてしまった、晶子の時間を、心を、彼がようやっと貫いてくれる。

「先生、教えて…どうして、昆虫標本を見せてくれたの?」

阪口は頭を揺らめかせた。

「どうしてでしょうね。でも、君は彼らによく似ていました。ちっぽけなのに、私を引き付けてやまない、儚い…」

柔らかな声音とは真逆の、固い腕が晶子の体に絡み付く。

「教えてあげます、あの頃のように。私の気持ちも、君が私に願い続けたものも」

 晶子は阪口の肩に爪を立てた。鳩羽紫の頑丈な肩にそれはまるで引き抜かれたばかりの花の根のように浮かび、土から引き抜かれる暴虐に怯え、もう二度と離さないでと、懇願しているように見えた。

 あるいは、胸を強く押され、息絶える前の、蝶のはばたきのように見えた。


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