インディゴ

ちとせあめ

インディゴ


「空が」

「空が……割れる」

「空が」

「……」


 新聞記事にもならなかった、しかし一家族のささやかな生活を打ち壊すには充分過ぎるほどの出来事。

 小さな町で暮らす家族、その家長である父親が狂った。日曜日の平和な時間、家族で散歩をしていた彼は突然、空を見上げて叫んだ。

「空が割れる」

 恐怖と驚愕によって上擦った声に、彼の妻、そして子は思わず彼を見つめる。冗談にしても面白くもない言葉ではあったが笑い飛ばす準備すらしていた。


(何を言っているの、お父さん)

 しかし待てども待てども彼は笑わなかった。血走った目で空を見上げていた。

 インディゴの色をした青空はじりじりと一家を見下ろしている。


「……何を言っているの、お父さん」

 母親の尋ねる声は怯えを纏っていた。父親は真面目で誠実な人間で、おかしな冗談を言う性格ではない。ましてや空が割れたなど――まるで狂気の沙汰。


「われなんか、しないよ」

 子も母を援護するかのように呟く。だが、妻と子の言葉は、蒼空を眼球に焼き付けんばかりに見据え続ける彼を正気に戻す手助けにはならなかった。


「お前らには見えないのか」

「空が割れて……」

「見てみろよ」

「駄目だ、もう」

「はは、割れる!」

「はははははは」


 叫びを最後に、父親はその場に跪いて自分の顔を両手で覆った。空を視界に入れまいとするかの如く。狼狽えと困惑を隠さずに母親が父親を見つめる。

 狂躁的な笑い声が、永遠に響くように思われた。


「あの家には狂人がいる」

 狭い町に噂が広がるのに時間は掛からない。ましてや父親は日中は毎日のように窓から空を見ては奇声にしか聞こえぬ叫びを上げているのだから、近所の住人には事実として知れ渡った。


 狂人のいる家。

 狂人の妻。狂人の子。


 母親は笑い狂う父親を精神科に連れて行った。そしてそれを見咎められて父親は仕事を辞めさせられた。一家の暮らしは転がり落ちるように貧しくなったが、しかし貧しさと同じくらいに、今まで付き合いのあった近隣の人間からの冷めた視線が辛かった。

 それから時をさほど置かずして母親は家を出た。夜更けに逃げるように町を出た彼女の手には小さなボストンバッグしか握られていなかったという。


 暗い家には父と子の二人だけが取り残された。

 父親は日がな一日中、空を見ていた。久しく拭いていないために曇った窓から、ぼんやりと口を開けて外を見る父親の姿を少年はなるべく見ないようにして毎日を過ごす。

 やがて食糧が底を尽きた。勿論金などあるわけもない。少年は如何にして生きていこうか、幼い頭で考えた。空腹で定まらない思考は偏り、墜落し、身近なところへと着陸する。


「お父さん、おなかがすいたよ。食べてもいいよね?」

 一応とばかりに声を掛ける。父親は案の定横たわって窓を見上げているのみで微動だにしない。呼吸はしているから生きている、腐肉ではない。食べられる。


 少年は行為の善悪を知らなかった。


「空が割れてるよ……見てみなさい」

 腿の肉をほとんど削がれて無くした父親が呟く。少年は包丁を置いて肉を噛むのに夢中で呟きを聞いてはいなかった。いつも母親がスーパーで買ってくるものとは違って、その肉は堅く、変な臭いがした。

 けれども腹を満たすには充分すぎる量がある。そうだ。まだまだ肉はたくさんあるのだ。


 満腹になった少年は心なしか暖かな気持ちに包まれた。ふと窓の外――桟の端から覗く空を見上げる。


 空が割れていた。

 雲一つ無い空に、黒く、インクで引いたようにくっきりと亀裂が走っている。稲妻に似ているが違う。ひび割れは微動だにしない。

 ただひっそりと、だが確実に空は割れようとしている。


「ほら……今に、割れる」

 呟きを発した父親を振り返る。父は目を閉じて眠るように死んでいた。痩せこけて落ち窪んだ眼窩に浮かんだ表情は何故か安らかだった。

 何故安穏と死ねたのか? 少年は理解する。あれの行く末を――空が割れる瞬間を見ずに済んだからだ。狂いのバトンを自分に渡したからだ。

 震える手で窓を開けて空を見上げた。

 インディゴの色をした青空はじりじりと少年を見下ろしている。

 細い亀裂は何処から始まっているのかわからない。だが瞬きの合間にも少しずつ裾を伸ばしていた。

 あれが地平線まで到達したら……。


「そらが」

「そらが……われる」

「そらが」

「……」


 少年の呟きが止むことは無かった。












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