パーティ会場

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 会場には、立食パーティのセッティングがされた丸テーブルが幾つか並んでいる。白いクロスが掛けられ、椅子は取り払われていた。広間に三つのテーブルがジグザグに並び、うち中央にある大型のテーブルは足が六本もある。並べられた料理も軽食が中心で、サンドウィッチやガラスの器に盛られたフルーツのポンチ、サラダボウルなどが並んでいる。ディナーというほど重くはないが、とにかく多量だ。料理の皿を縫うように、長短さまざまなグラス類が取り揃えられ、クロスの隙間を埋め尽くしていた。テーブルに載った料理の数々は、ささやかな宴の用意とは見えない量だ。贅が凝らされた趣向は、一体何を始める為なのか。山の中の一軒家。ここを目指して現れるだろう訪問客は何人か。午後8時になったばかりだが、こんな遅くからの開催というのも妙だった。柱時計が重く鳴り響いた。アンティークな箱型の時計は人の背丈ほどもある。


 椅子の類はひと纏めに壁際に寄せられ、簡易のソファ代わりとなっている。そこへ腰掛ける者はなく、来客は、今は男ばかりが僅かに五人だけだ。大量のカクテルや料理に見合わない。それでも、ぽつぽつと会場内に散らばる全員が、何の疑問もない様子で立ったまま好き勝手にグラスを傾けていた。客は本当にここに集まるだけが全てか、執事が言い放った言葉を思い返した。

 何の会場なのだろう、男は少ないが後から来る女性客が多く集まるのだろうか、そんなアンバランスな会合とはいったい何事だろうかと、考えるほどに解からなくなるばかりだった。この屋敷も妙な点が多いと思うのはただの思い過ごしだろうか。

 藤沢隼人――呼びつけられたその名を再び口中に転がしてみた。心当たりはなかった。品の良い上流の空気が和やかに流れている中で、彼――、隼人は一人、浮いた存在となり、窓辺で孤立していた。


 彼は紛らわせるように思考を切り替えた。代わりに出てきたものも今までとさして変わり映えのない鬱陶しい事柄ばかりだった。例の死体は自分がやったものなのか。どうやら他に興味はないらしい。

 さっきまで感じていた焦燥や奇妙な怖れなどは綺麗に消えていた。いったいどちらが本当の自分なのか、隼人は首を傾げる。脳裏には今もあの浜の景色が焼き付いている。

 白い浜辺で黒いダイバースーツが異彩を放って目を引いていた。いいや、人などではない。ぽっかりと開いた人型の深い穴で、穴の底は地獄の窯に繋がっているに違いない。彼の思考は今朝の浜辺を思い、視線は屋敷の窓をぼんやりと眺めている。窓ガラスは二重写しで、内側の華やかな会場と外側の真っ黒な夜の帳は表裏一体だ。

 高い天井から下がる豪華なシャンデリアは、焦点をずらせば夜の闇に浮く夏草の茂みだった。何の話に興じているのか、彼は談笑する人々の様子をガラスに映る虚像を通して見ていた。


 ふいに誰かの視線を感じた。陰気な瞳がねめつけるように彼の背中を見ている。明らかな敵意が含まれていた。ねっとりと絡む誰かの眼差しは、陰々として、恨みが篭もっている。今にも物陰から飛び出して、襲い掛かってくるかのようだ。嫌な緊張が神経を張りつめさせる。迂闊に振り向いてはいけない、隼人は聴覚だけでこの見えない相手に対峙した。誰のものとも知れない殺意。あの死者に関係する者かも知れないと、ふいに悟った。あの時に感じた矛盾、死者の傍に隼人を運んだ誰か、工作をしたかも知れない何者かを思い浮かべた。

 肌が粟立つ。復讐に燃える視線に対し、けれども彼には甘んじて受け入れようなどというしおらしい考えは欠片も浮かんでこない。返り討ちにしてやると、神経は尖りすぎて、ささくれと化している。背後の音は華やいだざわめきと、談笑と、寛いだ空気の中で奏でられる食器の透明な音色だけだ。敵意に集中する彼には、その奇妙さがまだ理解されてはいなかった。誰も、気付いていない。ただ一人、彼だけがその視線を感じ取っていた。会場内には今や、強い殺意が充満しているというのに、人々は変わらず和やかなままだった。殺気立った背後の気配に気を注ぎながら、隼人は再び窓へと目を向けた。

 窓ガラスにもう一人、男が映り込んでいる。どきりと心臓が跳ねた。振り返ると、あまりにも近い位置に付けていたその男と真正面から視線がぶつかった。だが、この男ではない。ズレた方向にもう一つ、怨念の目がこちらを見ている。強い殺意と冷たい意識が感じ取れたが、正面に立った男は爽やかな笑顔を作っている。この男ではない、隼人は冷ややかに男の隣、あるいは背後の気配に意識を向けた。生きた人間のものと思ったが、違っていたのだろう。これは死者だ。

 愛想よく笑うその男も隼人の冷淡に気付いたようだったが、顔には出さなかった。変わらず笑顔を向けて、隼人が自身の方へ顔を向けるまで辛抱強く待つつもりだろうか。会場に渦巻く殺意は変わらなかったが、気配の元は現れて来ない。隼人は会場を見廻し、それから改めて目の前に立つ男に視線を向けた。

 スポーツマンらしいがっしりとした身体付きをした若い男は、隼人と同年代と見える顔付きをしていた。色鮮やかな黄色いポロシャツに、チェック地のスラックスとローファーの靴を履いている。他のメンツが正装に近い衣装を着る中で、彼の服装は場違いに浮いている。この男はまた、冷ややかな隼人の視線にも動じなかった。ずいぶんと太い神経の持ち主らしい。平然と構えた男の満面の笑みは、人懐こいようでどこか嘘臭いものだ。半そでから伸びる筋肉質な腕に、一点掛けの高級な腕時計がやたらと目立っていた。己の肉体に自信を持っており、筋肉の鎧が自慢に値すると信じている類の人間だ。男は率先して新しい来客の正体を探りに来たようで、笑顔の下に露骨な好奇心を覗かせていた。


「やあ。君が藤沢君か。聞いているよ、噂はかねがねとね……、」

 言葉尻を濁して、男はくつくつと笑いを噛み殺す。初対面の挨拶にしては、どこか小馬鹿にするような調子が含まれていた。目には蔑視が滲んでいる。

 隼人の顔が険しさを刻んでも、この男は不遜な態度を改める事はなかった。訝しむ隼人と、嫌な笑みを湛える若い男。何処かから注がれる殺気立った視線は相変わらず隼人だけに向いている。この男は感じないらしく、背後を気にしてはいない。隼人は男を通り越した奥の人々に目を向けた。誰もこちらを注目してはいなかった。再び視線を男に戻した。しげしげと見遣る隼人に、男は一瞬だけ怪訝そうに片方の目を細めた。

 自身の態度を棚上げに、隼人の不躾さを不快と感じたらしい。返事すらしない隼人と、尊大な態度の男とでは、お互い様のはずだったが。期待に添う反応を示さなかったせいだろう、次第に男の目は非難の眼差しに変わった。

「君、」

 男の腕が伸びた。


 その時、隼人の傍に控えていた執事が、すいと前へ踏み出した。男と隼人の間に割り込むようにして立ち、何か話そうとする男を押し留めた。無言で首を左右にゆっくりと動かし、咎めるような視線を男に向ける。男は不服げな表情を浮かべ抗議の口を開きかけたが、何も言わずに後ろへ引き下がった。一度、振り返って執事を睨んだ。

 少し離れた場所へ移動した彼は、腕を組んだ横柄な態度で隼人と執事を交互に睨んでいる。露骨なジェスチュアだった。隼人の窺い見た先、執事の横顔は相変わらず無表情だ。離れた男から会場全体へと視界を広げて、執事は隼人に移動を促した。さきほど通った大扉の手前に連れ出してから、執事は場の人々に向けて言葉を発した。

「皆様、ご紹介いたします、ご到着が遅れておいでになった藤沢隼人様です。事情により遅れて参られたそうでございますが、無事にお越し頂けました。藤沢様、今現在こちらにはご参加頂いておりませんが、後ほど渡部医師をご紹介致します。当家と懇意の病院で院長を努めておられた先生ですので、ご安心ください。この後に診て頂くよう手配いたしましょう。」

 執事の声は静まった会場内に響いた。それは会場に居る全員に聞かせる為のものであったろう。言い聞かせるように、殊更ゆっくりとした口調なのは記憶喪失者への配慮だろうか。あまり衝撃を与えないようにと、先ほども止めに入ったものかも知れない。

 医者が居る、隼人は安堵したが、つかの間のことでしかなかった。一旦は離れたはずの先ほどの男が呼び寄せられた。制止する執事の手を掻い潜り、隼人の腕を取り、強引に自身の方へと向かせた。男の口調と眼差しはどういうわけか隼人を責めていた。

「君、もしかして記憶がないとか? そうなんだろう? 僕を知らないような素振りだった。」


 狼狽えた隼人は咄嗟に執事の顔を見た。彼の表情は何も変わっていなかったが、その手は考えあぐねて宙に留まっている。本来ならば、この後に詳しい事情の説明に移る予定だったのだろう、この男のせいでぶち壊しになったのだと察した。途中で止まった執事の手が、握り拳を作ってまたそっと開かれるのを見た。隼人の戸惑いは別のところにあった。最初の挨拶では初体面だと思ったが、知り合いだったのか。いや、理屈が矛盾する。

 この若い男は興味津々な態度を隠そうともせずに、無遠慮に隼人を眺めまわした。じろじろと、爪先から頭のてっぺんにまで露骨に視線を動かす。表面では中途な笑みが貼り付いて、いかにも失礼と受け取れた。不躾なその態度に、隼人は眉を顰めた。無礼には無礼で返す、それが彼の流儀だ。ついでに、カマを掛ける言葉で男の真意を見極めようと考えた。男に取られた腕を軽く振り払う。低く抑えた慇懃無礼な仕草と声で、隼人は男に冷たく接した。

「失礼、知り合いか何かかな?」

「へぇ、記憶喪失か。推理小説ではよくある設定だね。だが果たして多くの場合のように、君はキーマンとなるだろうか?」

 隼人の質問はさっくりと無視して、男はトボけた口調でそう言った。隼人の態度や言葉などまるで気にも留めず、好奇心丸出しの目を向けている。隼人が秀麗なその眉を殊更と顰めた時、彼の返すべき抗議を別の人物が攫った。男の背中越しに言葉が飛んできた。

「作り話と一緒にするなよ。さっきから聞いてたが、あんまり失礼な態度だ。あんたはどうやらミステリマニアを気取っているようだが、時と場合を弁えたらどうだ? そいつは記憶喪失なんだろう? あんまり混乱させてやるなよ、他人事だからそんな薄情な態度に出られるんだぜ、当人の気持ちは考えたか?」

 ミステリマニアに近しい位置から、その男は声をかけていた。金色のスパークリングタイプのカクテルを片手に、テーブルの端にもたれ掛るように立っている男だった。


 グラスの脚を洒落た仕草で持ち上げて、見るからに気障なタイプと見えるその男は乾杯のポーズで掲げてみせた。そのままグラスを傾けたのは口を湿す為だろう、ひと口啜ってから男は隼人の方へ目を向けた。

 ミステリファンはすぐさま背後を振り返り、慌てて弁明した。

「僕は順序立てて聞いていくつもりだったんだ、まずは緊張をほぐしてから……、」

「いいから戻って来い、カウンセリングなら後で掛かりつけの医者が診るって言ってただろう。」

 乱暴な手振りで彼はこっちへ来いと男に手招きをし、男も不承不承でその言葉に従った。今度は伊達男の隣で不貞腐れて立っている。洒落たスーツ姿のその男の隣に立つと、ミステリファンの場違い度はいや増した。やはりどう贔屓目に見ても、豪勢な会場には不釣り合いなファッションなのだ。不釣り合いなのは服装に限らない。まるで引き立て役を任じられた木端役者だ。隣に立つ二枚目俳優の為に居るようなものだった。不満げなマニア男の横で、気障な男はまたカクテルを傾ける。

 新たに割り込んできた相手は、ハンサムな男だった。顎の線がシャープで鼻筋も通っていかにも男前な顔だ。だが表情は気障ったらしい。着ている衣装も嫌味なくらい上等な品で、チャコールグレーの色味も上等の、外国製と思しきスーツを纏っていた。胸ポケットからは折り目正しい白いハンカチの角まで覗かせている。そのくせ室内だというのにサングラスは掛けたままだ。涼やかな目元なのだろうが、偏光ガラス越しにこちらを値踏みするような視線を寄越し、少しばかり人に不快感を与えた。

 彼は揶揄する気が満々で、にやけた笑みを浮かべて二人を興味深げに眺めていた。立っているだけで絵になる男だが、御近付きにはなりたくないタイプとも映った。ポロシャツ男と張り合うだけの体躯も持っており、非の打ちどころがない色男だが、ただ一点、胸元にちらちらと覗く太い金のチェーンが、垢抜けない田舎のヤクザを思わせた。


 気障男は手にしたカクテルを再び傾けて空にすると、スマートな仕草でテーブルに戻す。それから、改めてゆっくりと隼人の方へと向き直った。

「自己紹介しよう。俺は梅荘だ。梅荘和辰ばいしょうかずとき、珍名ってやつで、少しばかり覚えやすいだろう? 連れはあそこでキョドってる、葛西だ。これから一週間ばかり、よろしく。」

 見た目とは違い、彼は親切なタイプのようだった。先ほど見えた、人を値踏みするような不快な眼付きは勘違いであったのか、人懐こい笑顔を向けた。隼人は軽く会釈を返し、彼がちらりと視線を投げた先にも目を遣った。一連のやり取りを窺っていたらしい若い男が猫背を丸めてこちらを気にしている。関わり合いになりたくないと、彼の眼はチンピラの喧嘩を見る者のように、嫌悪感に顰められている。目が合うと慌ててそっぽを向いた。不快感を与えるというなら、こちらの方がよほどに酷いと考えを改めた。頑なに隼人の存在を無視して、グラサン男の連れはじっと床を見下ろしている。

 珍しい緑色の上着。ライムグリーンのジャカード織とはまた遊び心のある素材だが、オーダーメイド以外で入手する事は難しいスーツだろう。そう思えば、どことなく上品な顔立ちも、人見知りなその態度も、世間知らずの箱入り息子という感じがした。スポーツマンらしき見事な体格をしているというのに、メンタルは芳しくないようだ。彼は目を背けてしまうと、顔を強張らせたままもう隼人の方を見ようともしなかった。

「すまんな。なんせ人見知りがひどい坊やでね。金持ちのボンボンなんてのは、ちょっとガン視で観られただけで震えあがっちまうんだ。そんなに睨みつけないでやってくれよ。」

 梅荘に言われ、隼人はしぶしぶと青年から視線を剥がした。ガン視といったら、確かにそうだった。いやに詳しく観察してしまう自らの癖に、隼人は奇妙さを覚える。ジャカード織の生地などと、そんな知識はどこで必要だったのかと訝った。


 そこへ遮る様にしゃしゃり出てきたのは、さきほどのミステリマニアだ。隼人の視線が完全に自分を無視している事に気付くと、オーバーアクションで話に無理やり割り込んだ。隼人の思考も掻き消された。

「なら僕も自己紹介しよう、堂本慎二だ。さっきは本当に悪意からじゃない、気を悪くしないでくれ。まさか僕を知らないとは思わなかったんだ。かなり近しい親族の、おまけに、百年に一度の逸材と期待されているホープだぞ? 知ってると思うじゃないか!」

 蚊帳の外にされるのは不愉快なようで、彼は必死の形相だ。勢いに釣られて隼人が頷くと、堂本と名乗るその男は眉尻を下げて笑みを作った。その後も、嫌がらせのつもりは毛頭ないのだと、懸命に弁解を繰り返した。案外、お調子者なだけで根は単純な男なのかも知れない。それから堂本は、教壇をうろうろする教師のように右へ歩き、次にUターンして左へ歩き、指揮棒よろしく指先を振るった。芝居がかった演出の後に、たっぷりと勿体ぶりながら彼は続きを喋り出した。彼の得意げな態度は隼人の分析を裏付けて、ただの無邪気な男と映る。弾んだ声が薀蓄を語り出した。

「僕の実家である堂本の家は古い家柄で、先祖は京都の名門、鷹司家に連なっているらしいが、まぁそれは余談ってところだね。現在の堂本家は普通の家だからね。そういう訳で、君のこともよく知っているつもりだよ、なんせ藤沢家といえば名門だ。親族の中には政治の中枢に連なる人物も多いし、大会社の社長も輩出している。君の祖父に当たる人物はかの東京大学の、総長を務めたほどの逸材だ。輝かしい一族の出だよ、君は。……思い出さないかい?」

 ぱっ、と堂本は振り返り、期待の眼差しを隼人に向けた。思い出すかと問われ、隼人は首を傾げてみせてやった。せっかくの薀蓄話だが、記憶を呼び覚ますようなところは一つもなかった。

 彼はころころとよく表情を変える男でもあるようで、この時もまた表情を変えた。がっかりしたと堂本の顔には書いてあり、それを見た梅荘が声をあげて笑った。

「そりゃそうだよなぁ、いきなり家柄だのと言われたってなぁ……。もういいから、お前は引っ込んでろよ。」笑いながら、立ち尽くす堂本の腕を引っ張った。

「そりゃあさ、僕だって名前だけで君と面識があるわけじゃないけど……本当に、僕の顔も知らないのか? モグリだよ、そりゃあ。」

「俺だって知らなかったぜ。自分で思ってるほど噂話なんてのは広まらないもんなんだよ。芸能人じゃあるまいし、いくら看板が有名でも、名前と顔が一致するなんて話は滅多にないもんさ。」

 笑いながら梅荘は堂本を引きたてて行った。


 ふと気付けば、あの殺意の視線は消えている。会場に変わり映えはなく、下男の他には誰も出て行った形跡もなかった。寒気が上がってくるものを無理に押さえつけて、隼人は上着の袖をさすった。空調が効きすぎるせいだ、汗が引いたせいもある、恨まれる覚えもない、考え過ぎだと自身に言い聞かせた。体感が変わる事はあまり良い予兆ではないと、不安が湧き上がるのを抑えた。隼人の不審な態度は幸い誰にも気付かれなかったが、相変わらず無言でこちらを見ている執事の眼は、どうにも気になって仕方がなかった。感情を浮かべない目は何を考えているかが測れない。

 この屋敷を訪れた最初、空気の中に感じられた奇妙な冷気は何だったのか。どこか馴染みのある、それでいて常に遠ざけるべきと知っている不吉な気配……唐突に、それが墓場である事に気付いた。現世と彼岸とを分かつ境界特有の気配が足元を流れている。海賊の砦を潰したのだと、またあの少女の言葉が甦った。道の真ん中で通せんぼをするあの灯篭は、何者かを押し戻そうとしていたのだろうか。それとも……。

「時にあんた、本当に記憶がないのか?」

 梅荘と名乗った伊達男が尋ねた。隼人の心は幽玄の地より呼び戻された。男は隼人を見つめている。即で返さなかった隼人の反応をどう受け止めたのかは解からなかった。含みのある、探る目が隼人を見ている。その目を見返しながら、隼人はゆっくりと言葉を選ぶ。まるで今の今まで時が止まっていたようだ、舌がぎこちなく縺れた。表面上は何気ない会話を装い、その実は互いに違う事柄を探り合っている。隼人は聞かれたままを素直に答え、この男が何を知りたがっているのかを考えていた。詐病を疑う目だと感じた。

「何も覚えていない。実のところ、本当にここの招待客かどうかも解からない。」

「けど執事の川崎さんは、あんたを屋敷に通したんだろう?」

「通されはしたけど、俺の事を見知っているわけじゃなさそうだった。」

 二人が同時に件の執事に目を向けたが、彼はやはり無反応だった。


 出入り口の扉から二、三歩進んだ場所で突っ立っている隼人と、一番手前のテーブルに居る梅荘との間はずいぶん離れている。絡まる舌が滑舌を悪くする。離れたまま会話をする二人は奇妙だったが、それを指摘する声が出ないのはもっと奇妙に思えた。使用人たちは勿論として、客たちまでが他人のテリトリーを気にして、関わりを絶っているかのようだった。妙な空気だ。

 妙な島に建つ妙な屋敷とちぐはぐな人々。もしかしたらこの中の誰かがあの浜の死体と関係するのかも知れず、隼人はそれとなく声を大きくした。

「今朝、目が覚めたら記憶が無くなっていたんだ。ここ数日のことは何も覚えていないし、名前も、自分がどこの誰かも解からない。」

 言いながら人々の反応を観察した。こちらを気にしていても態度で示す者は少なく、後方に居る三人など、完全に無視を決め込んでいる。様子を窺うのはあちらも同じなようで、梅荘の連れだと聞いたどこぞの御曹司などは、伏し目がちにチラチラと隼人を盗み見ていた。一番後ろの男になると、目を閉じたままじっと何かを考えている風だ。

「そうか、そいつは災難な事だったな。」

 幾分、同情の篭もった声が掛けられた。梅荘の態度はごく自然で他の者にもこれといった変化は現れなかった。裏の作為など無いのかも知れない、少なくとも、先ほど感じたあからさまな敵意は誰からも感じ取れなかった。梅荘も堂本と同じく、あの危険極まる視線は感じなかったものらしい。彼は気さくな笑みを湛え、爽やかな口調で後を続けた。

「色々と考え合わせても、たぶんあんたは招待客の一人で間違いないと思うぜ? 俺達は事前にフェリー乗り場で顔を合わせてるが、全員ってわけじゃなくて、そこにあんたは居なかった。ここは老人ばかりの孤島で、最近降り立った若い男は、この屋敷に居合せる者たちだけらしいからな。週に二度のフェリーだけがこの島への交通手段だが、その乗員名簿でも若い男が他に滞在しているという話はないらしい。で、招待客の一人、藤沢ってのは唯一、今朝のフェリーには乗っていなかった招待客で、自前のヨットで来ているそうだ。その藤沢は遅れるという連絡を残したきり、まだ現れないんだ。だったら、あんたが藤沢本人だと考えるのが妥当ってことだろう?」

 彼の隣の堂本が、カクテルをぐいと一息に呑みほしてから口を挟んだ。

「まぁ、そこら辺のことは弁護士が出てきたら、はっきりするだろうさ。全てを把握してる人物だからね。」

 彼はさらりと重要な言葉を流した。


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