【推理】「フェイク」~探偵はいない~

柿木まめ太

第一章

プロローグ

1ページ目

「なんだ?」

 彼は訊ねた。

 死んでしまった事を嘆いている気がした。

 ――なぜ、死んだ?

 脳裏に言葉が浮かぶ。自身の想いか、他の者なのかは判然としない。

「知るか、」

 彼は前を向いたまま、短く答えた。

 フォトでしか見ないような、美しい入り江の景色が青年の前には開けていた。


 ◆◆◆


 浜には誰の姿も見えなかった。生きて動いている者は彼だけだ。彼は一人、得心のいった顔で海を見ている。周囲には磯の香りが漂っているから、死骸の臭いもここに混ざってしまったのだろうと思っていた。

 うっすらと、特に注意しなければ気にもならない、腐臭に似て生臭い、どこか懐かしい臭いがしている。死ねば腐るのだから、命には最初から腐臭が内包されていると、彼は唐突に理解した。

 海の匂い、磯臭さというものは生き物の持つ当たり前の始原だが、極楽浄土と見えるこの景色には少しちぐはぐに感じられた。磯の生々しい空気とは裏腹な、透明で穏やかな波がすぐ足元にまで寄せている。見た目の美しさだけを重視するなら、この微かな臭気はなるほど邪魔と言えそうだった。

 浜を埋めるのはよくある黄金色の砂ではない。手の平に乗る大きさの、波に洗われ丸められた玉石が一面に敷き詰められている。奇観と言っていい景色だ。清涼感ある穏やかな浜に、ほんの僅かばかりの漂着物、打ち上げられた何かの木切れや海藻が、波打ち際で遠慮をするように並んでいた。それを除くなら、絵に描いたような、美しい浜だ。


 遠くウミネコの鳴き騒ぐ声と打ち寄せる波の音とが奇妙な合奏を奏でている。紺碧の空を見上げると、一点、虫食いのような太陽が小さな穴を穿っていた。その辺りの空だけは漂白されて色抜けている。一年を通じてもっとも太陽が焼けている時期だ。

 真夏の浜はコントラストがきつい。彼は手の甲でひさしを作り、太陽の光を遮って目を細めた。時刻はそろそろ昼時だろうかと感じている。じりじりと、焼け付くような暑さだった。


 背後で誰かが呼んだ。

 振り向いた彼の視界に、覆いかぶさるような抉れた高い崖が迫ってくる。影はくっきりと黒く、日向は真っ白に灼けていた。崖の真下には大きな岩が突き立っており、その横には死体が墜ちている。彼を呼んだのは、この死人かも知れない。先ほどの声も同じ者だろうと彼自身は見当を付けている。

 彼は霊能者だった。死者と対話する自身を人がどう見ているのかは、彼には興味がなかった。彼にとってごく当たり前の行為が他者にとってはどうであるかなどと、そこに何か意味を見い出さねばならぬとも思わなかった。他人は他人、自分は自分、だ。


 恨みがましい視線が忸怩と彼を見つめている、そんな気配がある。彼には馴染んだ感覚で、今さら疑う余地もありはしない。即死と見えるその遺体は、虚ろに空を見上げているばかりだった。気配と視線は別のところにあり、死体の中身はカラだ。

 気配の主がこの死体にかつて入っていたのか、まったくの通りすがりかなど解かりはしない。彼は『見えるタイプ』ではなかったからだ。だが、死者が時々、死を乗り越えて戻ってくる事を彼は知っていた。それはほんの一刻の事で、多くの場合は他愛ない用事でしかない。死者は自由で、一つ所にじっとしてはいない。この死人は何を思い出したのだろうかと、彼はもう一度尋ねた。やはり返事はなかった。


 彼は死体の傍に寄り、しゃがみ込んだ。少しだけ躊躇したのは、何度見返した所で同じ結果しか得られない事が解かっていたからだ。先ほども、目覚めたばかりの時にも、彼は死者と対話を試みている。

 この死体が誰なのかなど、彼には知りようもない。目覚めた時には隣で死んでいた男だ。死亡確認も何も、見れば解かるような状態で、頭が割れて目玉が飛び出ている人間が生きているとは誰も思わないだろう。彼は死体を見下ろして、笑えないこの状況を鼻で笑ったものだった。まるで自分が殺したかと見える状況は何の冗談かと思ったのだ。目が覚めたら死んでいた、その死体がこの男だが、彼には見覚えなどなかった。それから死者に問いかけた。お前か、と。答えはなかった。魂は抜けた後で、もう遠くへ行ったのかと思っていた。

 表情一つ変えず、彼は死体の検分を始めた。何か……先の鋭い刃物が欲しい、そうして無自覚に自身のポケットをまさぐった。必要であれば、この死体を切り刻むことも厭いはしない。けれど残念な事に何ものも指先には触れて来ず、彼の舌打ちだけがこぼれた。冷徹な瞳は死体を見ている。答えないのだから仕方がないではないかと、言い訳のような思考と共に僅かばかり身じろいだ。ふいに沸いた抗議のような念は、恐らく彼自身のものではないのだろう。


 死体の頭部はひしゃげて変形しており、広範囲に血が飛び散っていた。陥没挫傷で脳みそはぐちゃぐちゃだろうか。耳や鼻から垂れた血が白い玉石を赤く染めている。典型的な墜落死だ。背後の崖から落ちたものである事は一目瞭然とすら言えた。

 変形した顔面。右側の目玉が外れ、眼窩は赤黒い空洞となってぽっかりと開いている。日差しの加減で血管が透けて見え、禍々しい死の影を宿していた。もう片方の見開かれた瞳は正面を見ている。空を、というよりも、まるで彼を見つめ返すようだった。死者の顔は人間以外に変わり果てて、グロテスクだった。

 死体と目を合わせても、彼は動じることさえない。死んでしまえば、それはもう物体だ。そんな考えとは反する片隅で、死者の声を探してもいた。命というものは目に見えない中身の事であり、それを包む肉は肉に過ぎないだろうという考え方だった。

 目玉に触れた。白目の乾き具合は中途半端だ、玉石を染める血の色はかなり色褪せており、目玉もかなり乾いている。時間の経過を物語っていた。ダイバースーツを着込んでいるのは何の意味だろうかと、彼は眉を顰めた。傍で突っ立っているらしき何者かへの興味は横へ置き、彼は物体の方へ関心を移してしまった。


 ダイビングの道具類は素材とブランドで品がかなり変わってくる。彼はロゴと服地の厚みで判断し、高価なブランド製のスーツと断定、そこから、この男をにわかのダイバーだろうと結論付けた。形から入るタイプで、常からスポーツを嗜むという事はなかったはずだ。揃えたばかりと見える道具、手足の色の白さ、筋肉量でそう判断した。ひょろりとした痩せぎすの体形はスポーツを好むタイプとは思えなかった。続けてスーツの襟元を開けて肌の状態を探る。汗を掻いた形跡はない。死んだのは夜の時間帯で、当日の日中は少なくともここにこの姿で来てはいなかっただろうと考えた。

 足元の履き古したズック靴は奇妙に映る。上等なダイバースーツと防水の時計は共に新品なのに、靴だけはちぐはぐだ。なにより、ダイビングの用意を整えていたくせに、この死体は潮に濡れていなかった。


 すらすらと、推測の材料となる知識ならば苦もなく出てくる辺りが、彼に別の不審を抱かせた。傍に落ちている死体に対する冷酷さと同じように、彼は彼自身に関してもあまりに無感情だった。まるで他人事のように受け止めている。

 彼は自身の名前を覚えていない。記憶が失われている。消えているというより、蓋をされたように目詰まりを起こしている。その方が近しい気がした。どこかに引っ掛かっていて、取り出せないと言った方が正しいのか。取り出せないだけだから、さして気にも止めていないのか。多少なり、苛立ちはあるようだ。

 人の居ない浜辺を疑問に思うのは、自身がそういう辺鄙な土地に馴染みがなく、浜辺と言えばイモ洗いだと決めてかかったイメージが勝る程度には都会育ちだからだと、そんな風に自身を推察した。彼は、死体の身元をプロファイルした時と同じに、自分自身に対しても冷酷に分析してのけた。死者の想念を無意識にも探してしまう事から、霊能的な力もあるだろうが、恐らくはこれを生業としていたわけではないだろうと推理した。まったくそのような姿が想像出来なかった。

 直近辺りの記憶が無い。名前が思い出せない。ここが何処かが解からない。だが、さし当たって生活する上での支障などは無さそうだ。そこまで考えてからふと気付き、彼は改めて疑問を覚えた。記憶喪失者というものは、もっと感情の起伏が激しくなってしまうものではなかったかと思う。少なくとも、世間一般ではそう思われているはずだ。この自身の状況は、はたして本当に記憶喪失と呼べるものかとすら考えた。

 思考を巡らせるのに不都合はないようだ。知識の欠けは少ないのだろう、出てこないデータに苛立たせられる事もほとんどない。名前などは欠けていても、推測に必要な部分の記憶は無事のようだった。

 どうやら記憶の一部が欠落していて、幾つかの事柄は曖昧になっている。それでいて酷く冷静な為に、記憶喪失というこの異常な状況に対して、あまりに落ち着き払ったこの心持ちが不可解に思えるようだ。もう少しナイーブになってよさそうなものだが、普段通りのままだろうと自分では思えた。記憶の有無をほとんど気にしていない。

 この死人との関連性も不明のままだが、不思議と何の感慨も沸いてはこなかった。殺意を持って突き落したという可能性は、取りあえずで片隅に留保されている。


 ややあって、彼は立ちあがり、死者を見下ろした。誰かも解からないこの死体のすぐ傍で、眠っていたのか、気絶していたのか、目覚めた時にはもう記憶がなかった。彼は自身の後頭部を撫でさすりながら考えた。コブが出来ていて、膨らみはまだ熱を持っている。これを原因と見てよいのかどうかも解からないが、現状、他人に説明するには記憶喪失という名しかないだろうと、開き直って結論付けた。そんな事よりも、気に掛かるのはこの死人の方だった。

 この状況は何を物語るのか。死体の傍に寝転がっていた意味が解らない。一人は軽傷、一人は無残な死を遂げた、その分岐の理由も。後頭部のこの傷はいつ付いたのか。複数の可能性があり、絞れる材料は何もなかった。

 崖の上には木々が生い茂っているが、松が多勢を占めている。そこから続く林の中に、例えば凶器となりうる巨大な実を付ける植物が混じっていたとしたらどうだろう。ある品種の梨で実際に怪我をした事例があったはずだ。頭上の凶器、その可能性まで考えたが、それでは誰がここへ運んだのか。死人の傍へ。あるいは自身が突き落したのだとして、なぜこの男の隣で眠っていなければならなかったのか。頭に怪我をして。

 目覚めてから先、あらゆる可能性を嫌というほどに考え尽くしてきた。木に登って落ちたにしても、誰かに殴られたにしても、事故とするには浜で寝ていた事実に辻褄が合わせられない。第三者の存在はどうしても外せなかった。

 揉み合ううちに二人して落ちたのか、これを単なる偶然と見ていいのか。まさか自身でここまで来たとも考え難い。記憶が無いままに此処へ? 誰かが運んだならば、何故? 争った末と考えるなら、その原因は? ……いずれにせよ、何者かの作為を疑うに十分な状況だ。自身に記憶がない以上、遺体に聞くのが一番早いと思ったが、死者は嘆くばかりで答えなかった。


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