業火(2)

 しかし、がらり、という大きな音で八重は我に返った。

 辺りを見回せば、闇に飲まれてあれほど暗かったはずの堂内が不自然に明るい。橙の色が天井と壁とに灯り、ちらちらと影が瞬いていた。


「……火」


 ぽつりと八重は呟いた。八重を抱く白淳の腕に力がこもったのが分かる。何があったかは知れなかったが、本堂に火がついたのだ。


 既に炎は本堂中を巡っており、四方の壁に火がついている。天井にもつたい始めているのをみれば、二人のいる場所まで火が巡るのも時間の問題であると分かった。

 八重の脳裏に蘇ったのは、言うまでもなくあの日の炎。父と母とを殺され、全てを八重の元から奪っていったあの炎である。

 気付かないうちに八重は冷や汗をかいていた。炎は嫌いだった。自分でもどうにもならないまま、小刻みに震えが走る。


 しかし一方で八重は、これで良かったのかも知れない、と思った。

 どうせこのまま生き続けても、また誰かを傷つけてしまうのは耐えられなかった。傷つくならば、それは自分一人で十分だ。

 おそらく八重はこのまま生き続けても、生涯、言霊にさいなまれる事になるのだろう。ここ数日で人を殺め、呪い、挙げ句大事な人まで傷つけてしまった自分に、生きる価値があるとも思えなかった。

 それに、ようやく兄にも会えたのだ。思い残す事は何もない。八重は最後の最後で悲願を達成したのだ。


 今から思えば、知らない内に八重は兄の事を知る人物を呼び寄せていたのだ。確かに遮那王は千瞑の事を知っていたのだから。兄を知る人物を願い、八重の言霊は、今は鞍馬にいない遮那王の姿までも呼び出した。

 忌むべき言霊の力ではあったが、兄と再び巡り会えた事、遮那王と話せた事、そして白淳に会えた事、それらを思うと、やはり言霊すらも憎みきる事は出来ないのだった。


 自分もまた炎に包まれて逝くのならば、それは因果であると思った。あの日、父母と共に絶えていたとしてもおかしくはなかった。死ぬのが少し遅くなっただけで、何も変わらないのだと八重はぼんやり考えていた。


 白淳が八重の体を離すのに気づき、彼女は彼の姿を見遣る。

 そうして八重は初めて白淳が全身に傷を負っているのに気づいた。八重の元へやってきた時に負ったものだろう。簡単にしたように見えて、八重の呼び出した闇は確実に白淳を蝕んでいたのだ。


 否、彼は弱り切った八重の代わりにその傷を受けているのだった。

 生々しい傷に八重は息をのむ。


 白淳は優しい、しかしどこか毅然とした眼差しで八重を見つめた。不思議に思い八重もまた彼を見つめ返す。

 刹那、八重は不意に彼が何をしようとしているのかを悟った。首を横に振って八重は白淳の裾をつかむ。


「やめて。お願いだから、私なんか助けないで!」


 聞かずに白淳は微笑むばかりである。その美しい顔にも傷は容赦なく付いて、炎の灯りに照らされて滴る血が涙のように彼の頬をつたった。龍の血も赤いのだと八重はふと思った。思えば、白淳も元は人間なのだ。姿は龍でも、その中身は人と余り変わらないのかも知れない。

 縋り付くようにして八重は白淳を留めようとする。


「事の次第を巻き起こしたのは全部私よ。守られていい立場なんかじゃないわ。白淳がいなくなれば、今度こそ私はどんな事をしでかすか分からない」


 そんな八重の髪を再び撫でながら、白淳はこの場に似つかわしくない落ち着き払った声色で言ってのけた。


「分かっているよ。八重がどう思っているか、どうするつもりなのか、僕には分かる。きっと、八重は言霊の力を丸ごと葬るつもりなのだろうって。

 ……だけれど、これはただのぼくの自己満足だから」


 白淳は立ち上がって、座り込んでいる八重に微笑んだ。


「ぼくが生きているその目の前で、君を死なせたくはないんだ」


 憤って八重も立ち上がろうとする。しかし足に力は入らず、それは適わなかった。仕方なしに八重は座ったまま白淳を睨み付ける。


「自己満足で死なれちゃたまらないわ! ここから出て行って。あなたなら出来るでしょう? そして兄さまを助けて。お願いよ、白淳! 生きて。逃げなさい!」

「八重の言霊はね」


 落ち着いた声色で、この状況だというのにどこか愉快そうに白淳は言う。


「普段はぼくが封じているから、効かないんだよ。今の八重は先ほどのように我を失ってはいないから。だから、八重のままも効いてあげるわけにはいかないんだ。

 ぼくは、ぼくのやりたいようにする」


 八重は一寸口ごもり、その後でもう一度必死に叫ぶ。


「私は色々な人を巻き込んだ。私の所為で、何人もの人が不幸になった。そしてきっとこれからも、私は私の大事な人を傷つけてしまうわ。

 お願いだから、白淳、お願いだから私なんか助けないで」


 最後には懇願するようになって八重は白淳に訴えかけた。白淳は真顔になって、再び八重の側に座り込み、優しく彼女の両肩に触れる。


「うん。でも、ぼくは八重が好きだ」


 そう言うと、白淳は八重の唇に優しく口づけた。驚愕して八重は瞳を丸くする。

 一瞬の後に彼はそれを離し、八重の頭を抱きしめた。


「それで十分だろう。他に細かい理由なんてないよ」


 八重の髪に触れながら白淳はそっと立ち上がり、今度こそ龍の姿に戻って高貴にその背を伸ばした。

 彼がそうしようと思えば本堂の天井をも突き破ることは容易であったに違いない。

 だがそうすれば、今度は八重の呼び出した闇が外に出てしまう。それは八重にとって一番避けたい事態であった。その為に中途から、彼女は全てを諦めていたのだ。


「八重」


 白淳はその喉元を八重の方へ差し出した。こんなにも近く、正面から白淳を見るのは初めての事だったので、八重は少し躊躇しながら彼の鱗に手をよせた。


「一つだけ、逆さに生えている鱗があるだろう。それを取って」


 白淳の囁きに首へ目をやり、八重は龍の喉元に手を伸ばしてその鱗を取る。どことなく背徳観を感じ、少し八重は身が縮まる思いがした。

 鱗は八重の手の平ほどもあり、七色に光って艶やかに美しい光沢を放っている。白淳はヒトであったが、やはり龍なのだ。それを思って八重はどこか酷く悲しさを覚えた。


「……これは?」

「逆鱗。龍の大事な鱗だ。ぼくは他に残すものがないから」


 はっとして八重は白淳を見つめる。


「……これは、形見のつもりなのね」

「口に出してはいけないよ、八重。ぼくは死なないかも知れないじゃないか」

「あなた、自分で言霊は効かないと言ったばかりじゃないの」


 まるでその辺に散歩でも行ってくる時のような気軽さで白淳は軽口を叩いた。思わず八重も答えてしまったが、彼の微笑みはいつも以上に優しく哀しく、八重はまた自分の瞳から涙がこぼれるのを悟った。

 白龍は八重に頬を寄せ、瞳を僅かに細めて言う。


「きみがぼくを死なせたくないと思ってくれたように、くら坊が八重を人の身を捨ててまで守りたいと思ったように。ぼくの我が儘はごく自然な事だよ。

 たといそれが無駄な事であっても、いずれ八重が自ら滅びを選び取るとしても、今ぼくはこの炎の中できみを死なせたくはない。

 八重、きみは明るい空の下にいるべきなんだ」


 何か言おうとして、しかし何も言う事が出来ずに、八重はただ泣きそうな面持ちで白淳を見上げる。

 それを見て、ぼくは笑っている八重が一番好きなのだけれどな、と困ったように白淳は髭を震わせる。

 無理矢理に八重は微笑んで、だがやはり堪える事が出来ずに泣きながら八重は白淳に抱きついた。申し訳なさそうな口調で、しかし毅然と白淳は囁く。


「炎の中でだけは、きみを死なせるわけにはいかない。

 八重。きみはぼくが守るよ」


 龍の姿でもそれと分かるように微笑み、白淳は頭を高く持ち上げた。白淳は咆哮ほうこうする。その衝撃で、天井から細かい木片がばらばらと降った。身をすくめつつ、八重は叫ぶ。


「白淳! 止めて、白淳!」


 聞かず、白淳はその躯で八重の周囲を取り囲んだ。炎は既に本堂の中程まで浸食し、暗かった筈の本堂は今や煌々とした炎で照らし出されていた。その中で、八重を守りながら白淳はその炎を身に受ける。


 炎だけではない。

 白淳はその身に、八重の呼び出した闇全てを受け入れようとしていた。


 自らの中に取り込み、そしてそのまま自分毎滅ぼすことで闇を葬り去ろうとしているのだった。白淳は自分たちを取り巻いていた闇に食らいついた。

 白龍は闇を食い破り、闇はその体内から白龍を食い破ろうとする。

 そのせめぎ合いはしかし白龍の方が優勢で、少しずつ闇は彼に消されていった。

 一方で、炎は龍も闇も平等に、容赦なくそれらを丸ごと焼き払おうとしていた。


「白淳!」


 八重は叫び続けた。

 天井が崩れる。八重の下に落ちるはずだったその板は、しかし白淳の躯が受け止めた。熱と煙とで辺りの様子は判然としない。


 闇と炎が踊る本堂に、白龍の影が映し出される。まるで昔語りの物語でも見ているようだ、と虚ろな頭で思いながらも、八重の目から涙は止まらない。

 最早、闇と共に白龍が死するのも時間の問題であった。闇が薄れると共に炎は濃くなり、炎が濃くなると共に白龍は黒く炎に焦がされる。焦がされた白龍は闇のように黒く、どこまでが影でどこまでが白淳なのか、八重にも分からなくなってきていた。


 闇と炎は八重に届かなかったが、吸い込んだ煙は八重をいたぶった。涙は感情からのみならず、本能で八重の目から流れ落ちる。

 喉を枯らし、息は詰まり、しきりに白龍を呼ぶ声も次第に小さくなった。八重の声はやがてかすれて出なくなり、白淳には届かない。

 凄まじい炎と煙の中で、八重は気を失った。






+++++



 日が昇る。

 あれほど不気味であった鳥部野も、朝日が差し込めばただの荒れ地にしか見えなかった。既に物の怪は姿を消していたが、平家の郎党が落としていった弓と矢とで、宵の残酷な名残は残ったままだ。千瞑はそれを虚しく蹴り飛ばし、空虚な音が朝の鳥部野に響いた。


 結界の解かれた千瞑は、すっかり焼け落ちた本堂の前まで歩みを進めた。跡形もなく崩れた本堂は最早、建物の様相を残さない。僅かにその土台と木片を留めるのみで、あとは全て土に還ってしまった。昨夜の攻防が嘘のようだ。

 そこには深い闇も、猛り狂った炎も、清く美しい白龍の姿もない。

 千瞑は本堂を見上げて呟いた。


「お前は、本当の本当に、大馬鹿者だよ」


 本堂のあった場所、その中心には、無傷の八重が横たわり静かに眠っていた。その頬には幾重もの涙の後が見える。手の平には白淳から受け取った逆鱗が握られていた。


 白淳は最初から分かっていたのだ。もう、すべてを収めるにはこの方法しかない事を。


 例え八重と共に逃げ出しても、闇は本堂の外へ溢れ出て八重を狙う。それだけではない。溢れた闇は都を覆い、繁栄した人々の街を一夜にして滅ぼしてしまうだろう。

 闇を祓い、八重と千瞑を助けるには、こうするしかなかった。闇に対抗出来る力を持っていたのは白淳だけだったし、八重も言霊の力を自在に使えるわけではなかった。


 もし白淳が八重の言霊の封印を解いたところで、彼女がそれを上手く使えるとも限らない。それに八重自身、自らをこの状況に追いやった力を疎んでいた。疎む力を八重が使いこなせるとは考えがたい。

 使ったとて、物の怪や闇に、言霊の力を行使する間無く喰われてしまう可能性の方が高かった。ここは鳥部野、生きる人間が夜に立ち寄る場所ではない。八重と闇、鳥部野の地でどちらの力が優位に働くかは容易に想像出来る。負の力が高い地では、物事もそちらに動くものである。実際八重の言霊は、結果として闇を呼び出した。


 白淳ならば、闇や物の怪を祓う事が出来る。ただし、それでも互いに互いを喰い殺し合うこととなり、相討ちの結末は避けられなかった。闇を喰うのだ、白淳も無事では済まない。そこにあの炎である。


 だが彼を芯から焦がしてくれた事を思うと、かえって炎は良かったのかも知れなかった。炎はすべてを焼き尽くし、浄化してくれた。

 彼は、八重が闇に飲まれた時から半ば覚悟をしていたのだろう。そして千瞑が物の怪に飲まれた際、心を決めたのだ。いくら白淳でも、物の怪を喰らう事はない。物の怪を喰らえば、いくら弱い類のものであったとしても、彼に害が無いはずがなかったのだ。千瞑を助けたあの時、既に白淳は果てる事を選んでいた。


 八重の上には、彼女を守るようにして覆い被さった龍の名残があった。今や既に美しい鱗やたてがみは消え失せ、その巨大な骨格だけが生前の面影を留めている。

 その骨もやがて、一陣の風と共に地面へ崩れ落ちた。元は彼も人である、死した今は原形を留めることが出来なかったのであろう。さらさらと彼の躯は、静かに眠っている八重の上に降り注いだ。


「ありがとう……白淳」


 顔をゆがめて千瞑は言った。それが日の光の眩しさからなのか、それとも別の理由なのか、一瞬、千瞑は分からなかった。


 千瞑は、十年ぶりに忘れていたものを思い出した。

 彼の朱の双眸より一筋の水が滴り落ちる。千瞑は脱力したように膝をつき、静かに涙を落とした。乾燥した鳥部野の土に、雫がゆっくりと染み渡る。


 死して尚、八重の上へ守るようにして覆い被さった白淳は、また一陣の風と共に何処へと吹き飛んでいってしまった。

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