業火(1)
本堂に火がついたのは、白淳が本堂に消えてから間もなくであった。
闇の中に突如浮かび上がった朱に、一瞬、千瞑は目を疑う。だがそれは紛うことなく炎であった。火は次々に側面に点り、本堂についた炎は瞬く間に広がる。
本堂は古び朽ちて乾燥している上に、今宵は風も強い。本堂が焼け落ちるのにそう時間が要らないことは明らかだった。闇に飲まれる前に、このままでは炎に喰われてしまうだろう。
背後を振り返った千瞑は、今度こそ怒りで身を震わせる。千瞑の背後に立っていたのは平家の郎党であった。
あの騒ぎの始末を申しつけられでもしたのだろう、八重を追い鳥部野まで来た彼らは、しかし尋常でない気配に中まで立ち入ることはできなかったようだった。
だが何もせず帰るわけにはいかず、仕方なしに遠くから火を着けた矢を放ったのだ。本堂にいる八重を焼き殺す為に。
郎党は四方から本堂を狙ったらしかった。矢はぐるりと本堂を取り囲み、周囲から確実に本堂を焼き初めている。
「ふざけるのも大概にしろよ
千瞑の怒号に彼らは弓を取り落とす。幾人かは彼にも矢を向けていたが、彼の姿と気迫に恐れを成したのか、声のない悲鳴を上げると慌てて逃げた。どちらにせよ、白淳の結界がある限り千瞑は傷つく事はなかったのだが。
火がついたならばやることは終わったとばかりに、彼らは方々に散っていった。
やり場のない怒りに唇をかみしめながら、千瞑は己の無力さに腹が立った。
──いつもだ。結局、自分は何も出来ない。天狗になろうと決意した時だって、成りきれずにこんな狭間の者に成り果ててしまった。
せめて身動きが取れさえすれば、あの火くらい何とか出来るかも知れなかった。しかし白淳の結界がなければ、とっくに千瞑は物の怪に喰われてしまっていることも明らかなのだった。
おまけに、よりにもよって炎だった。八重を独りにした、全てを狂わせた炎だ。
その炎も平家によって放たれたものだと思うと、この遣る瀬なさに千瞑は自分自身に爪を立てその感情をじっと堪えるしかなかった。
「八重。……畜生、八重!」
千瞑は虚空に向かって叫んだ。
+++++
一陣の強風が本堂に吹き込む。それは闇の中にいた八重までも届き、彼女を取り巻いていた闇を隅の方へ強引に押しやった。その隙に風は闇の代わりに八重の周りを取り巻き、八重を取り巻いていた闇が容易に近づけないようにした。
驚愕して八重は立ち上がった。突然の出来事に取り乱しそうになる八重の両肩を押さえて、ヒトの姿に戻った白淳は静かに囁く。
「八重、落ち着いて。ぼくだよ」
白淳の声だと理解すると、八重は肩の力を抜いた。風になって白淳は本堂に入ってきたのだ、とぼんやり思ってから、先ほどのことを思い出し八重は涙目で彼の顔を仰いだ。
「白淳、兄さまが。兄さまが!」
「大丈夫、くら坊は助けた。心配ない」
その言葉を聞いて八重はへたり込む。そっと白淳は八重の手を握った。闇は再び八重の周りを取り巻いたが、今度は白淳をその外側へ押し出すことはなかった。
「……どうしよう、白淳。訳が分からないの。何も考えたくない。なんで、どうして。私は一体何なの?」
その声は裏返り、精神の安定を保てていないのが分かった。白淳は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。
「こんな力、人間のものじゃない。この闇だって私が呼んでしまった。
白淳が落ちたのも、人が吹き飛んだのも、……昨日、人が死んだのも私の所為よ。
偶然なんかじゃない、私が言ったことが、本当になってしまっている!
怖い。怖いの。嫌、何も思い出したくない。私が私じゃない……。
何かが間違っている。記憶がおかしいの、自分が信じられない!」
「八重」
白淳は優しく手の平で八重の両頬を包んだ。
手の平は大きく暖かく、八重ははっと白淳の瞳を見つめる。不思議と八重の心は少し穏やかになった。
「真っ直ぐに見つめないといけない。もう目を反らさないで。
……すまない、八重をこれまで苦しめてしまったのは、ぼくの所為でもある。きみがそれを望むならばと、八重が逃げ続けるのを手伝ってしまったのだから。だけれどそれでは駄目だ。真実と向き合わなくちゃならない。
心配しないで。なにがあろうと、どんなことがあろうと、ぼくはいつでもきみの味方だ」
白淳は八重の頭を引き寄せ、額と額とを付けた。
白淳のぬくもりが伝わる。白淳の鼓動が聞こえた気がして、八重は瞳を閉じた。不思議と懐かしい思いがする。遙か昔、これと似たような事があった気がした。
あの時も、昔も今も、白淳は八重を守ってくれた。
ふとそういう記憶が判然としないながらもふわりと八重の中に沸いてきて、彼女はぼんやりとその思いを辿る。
彼の温度に心を落ち着かせて、静かに八重は今までの事を思い返そうとした。八重はそっとどこか遠くにあるものに手を伸ばそうとする。
しかしすんでの所で、絡まり合った何かはほどく事が出来ず、容易に思い出す事は出来ない。
焦る八重を白淳の優しい手がそっと撫でる。いつかと同じように、彼が手助けしてくれているのだと八重は判った。
――逃げてはいけない。大丈夫、一緒に白淳がいてくれる。
八重は懸命に記憶を辿った。鳥部野、六波羅、鞍馬。そして山の中の屋敷。
山に迷い込まなければ、白淳とも千瞑とも出逢わなかった事を考えると、巡り合わせとは不思議なものだ、と八重は思う。
そして、山に迷い込む間際。
何故、山に入ったのだろう。その前に、何が起こったのか。
家を焼かれた時、それまで自分がいた場所、一つ一つ八重は順々に辿っていく。
一人では辛い、けれども隣には白淳がいてくれた。心落ち着かせて八重は自分に語りかける。
「……思い、出した」
──白淳。
声に出せず、八重は目の前の白淳を見上げる。
八重を見て彼は優しく微笑んでいた。
八重が思い出したのはここ最近の経緯ばかりではなかった。
昔まだ彼女が幼かった頃、出逢った青年。
泣く八重をあやし、彼女の言霊の力を鎮めてくれ人。彼は初めて出会ったその時にも、その笑みで彼女を落ち着かせてくれた。
そして、忘れる筈などないと思っていたのに、いつの間にか忘れてしまっていた、優しい日々の記憶。
――そうだ。あたしはいつも、守られてばかりだ。
思い出して、そしてあの時の白淳の言葉の意味を理解し、八重は知れず自分を抱きしめた。
嬉しさと哀しさと、一言では言い尽くせない、しかし先ほどの激しいものとは違う優しい感情が彼女を巡っている。
もっと取り乱すと思っていた。けれども驚くほど八重の心の中は平静で、今蘇った本当の記憶を丸ごと受け止めようとしていた。それは偏に、八重のすぐ隣に白淳がいてくれるからなのだと分かった。
八重は白淳を見上げたままぽつりと呟く。
「思い出したの。全部、全部思い出したわ。……私が、平家なの」
瞳を伏せて八重は語り出す。
「家を焼いたのは、平家を恨んでいた女性だと聞いたわ。けど、……私は彼女を憎みきることなんて出来なかった。だって分かったんだもの。大切な人を奪われた苦しみが。私も兄さまを……千瞑を失っていたから」
白淳は黙って八重の言の葉を聞いていた。八重の瞳から一筋の涙がこぼれる。無意識なのか、それを放ったまま八重は拭うことをしなかった。
「だけど平家の兵は、彼女の気持ちを一片も理解することなく切り捨てたの。……私の目の前で、あの人の首が落ちた」
焦点の合わない八重の瞳をとらえ、白淳は彼女の涙を拭った。次々こぼれるその雫にも構わず、八重は語り続ける。
「分かったの。分かってしまったの。悪いのはあの人じゃない。彼女はただ大切な人を奪われて悲しいだけだった。
確かに彼女がしたことは決して許されるようなことではないわ。私だって、彼女が憎い。父さまと母さまを殺した、あの人の炎が憎い。
だけれど、平家とあの人とでは、あの人の方が真っ直ぐだった。……平家はあの人を利用したのよ。平家の者に手を出せばどうなるか、それを知らしめる為に見せしめで彼女を殺した。
聞いてしまったの。彼女が火を放ったのは離れの方。離れから屋敷に火は移ったのだけれど、だけど屋敷は四方から火がついていて、父さまと母さまは逃げられなかったわ。私は何とか逃げられたのだけれど。彼女は死ぬ間際にもそう主張していた。
……何も証拠などないわ。けれど、私たちは平家の捨て駒にされたのよ。
見せしめにする為には犠牲が必要だった。だから平家の人たちは、屋敷を焼いたのだわ」
一息に言ってしまうと、八重は嗚咽をあげながら泣き出した。白淳は静かに八重を抱きしめる。
「憎もうと思えば全て憎みきってしまうことも出来た。
だけれども八重はそこまで残酷には成れなかった。
火を付けた彼女も、自分自身でもある平家も憎みきることが出来ずに悩んで、苦しくなって自分の記憶を混乱させてしまったのだね」
白淳の腕の中で八重は微かに首を縦に振った。
「私の中に残ったのは、結局、漠然とした平家への憎しみだけだった。……自分が平家であるという肝心なことは、忘れて。
その所為で私は何も関係ない人を憎んだわ。平家だからと私の家を焼いたあの人と何ら変わらない。どちらにせよ私は取り返しのつかない愚かなことをしたの」
八重はあの時に自分が吐いた台詞を思い出していた。
平家の郎党が道端の男を殺した時に言い、言霊で郎党をも殺してしまった時に吐いていたあの言葉。その時に言霊の力が効いていたのであれば、きっとあれもおそらく。
それに、錯乱して呼び出した闇はどうしようもないほど肥大して、彼女と白淳とを油断無く取り巻いている。少しでも隙を見せれば、白淳もろとも八重を喰らうに違いなかった。八重は闇を戻す方法を知らない。
白淳は幼子にするように八重の頭を撫でた。まるで自分のことのような悲痛な色を浮かべて彼は囁く。
「もう、いいんだ。もう八重は何も苦しまないで。確かに起きたことはもう元には戻らない。……けれど、八重は十分辛い思いをした。これ以上、自分で自分を苦しめなくて良い」
彼の声を聞けば不思議と落ち着くことができた。家を焼かれ居場所を亡くして以来、初めて息をつくことができたような気がしたのだ。
いつの間にか涙は枯れている。暫く八重はそうして瞳を閉じていた。今だけは安らいでも許されるような気がしたのだ。
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